胡蝶の夢
石造りの建物の中は、吹き抜けの天井に設えられた照明が、宮殿のような内部を照らしている。
三階建てのこの百貨店には、百を超える店舗が入っている。
店頭に上品に陳列されたジャムや紅茶、菓子、ロシア土産として定番のマトリョーシカを見て歩く。
紅茶でも、と思い、店頭に積みあげられた缶を眺める。
缶入りの紅茶はどこか懐かしい。
実家でも――そう頻繁ではないが――紅茶を飲むことがあった。
遠い日を思い返しながら、どれがいいかと考えていたとき。
缶のひとつに目が留まる。
「それ、人気なんですよ」
復刻版のデザインなんです、と、ミスルトウの視線に気付いた店員が続けた。
「復刻……ああ、それで」
小さいときにこの紅茶をもらったことがある、と店員と話す。
くれたのは、下の兄だった。
――■■、これを飲まないか。
下の兄は自分には無愛想で、自分が普段いる土蔵に来ることはほとんどなかった。
そのときも、なぜ下の兄が自分のところに来る気になったのかはわからない。
それでも、そのとき兄が来たのは確かだし、紅茶をくれたのも確かだ。
「これをひとつ」
「ありがとうございます」
缶を袋に入れてもらい、店を出る。
一旦船に戻ろうかと、歯車の扉を目指して来た道を戻る。
その途中、住宅街を通りかかったときだった。
「わっ……」
「す、すみません!」
ちょうど、庭木に水をやろうとしていたエフィムが、手元が狂ったのか、水を勢いよく道路にふりまいた。
結果、前の道路を歩いていたミスルトウは、まともにそれを浴びることになった。
エフィムが慌てて飛び出してくる。
「すみません! 大丈夫ですか!?」
「うん、上着が濡れただけだし、怪我もないよ」
平謝りに謝るエフィムに、ミスルトウは笑って答えた。
「本当にすみません。急ぐのでなかったら中で休んで――服も乾かしていってください」
「ん……そうだね、甘えさせてもらおうか」
玄関には男物の革靴や女物のハイヒール、子供用の靴がきちんとそろえられている。
エフィムからタオルを借り、浴室の場所を聞く。
途中の廊下や浴室には、消臭剤があちこちに置いてあった。
玄関にも同じものがあったことを思い出し、ミスルトウは小首を傾げた。
かすかに、甘ったるいような妙な臭いがするような気はするが、さほど気になるものではない。
浴室でローブを脱ぎ、下のシャツも脱いで、タオルで水気を拭う。
浴室には、全身が映る鏡があった。
映る自分をまじまじと見て、唇を歪める。
鏡像の自分も唇を歪めた。
細い、白い髪。
透き通るような青白い肌。
血のように赤い瞳。
身体は昔と変わらず痩せっぽちで、肋骨が浮いているのも、契約したあの日と変わらない。
シャツは湿っているだけだが、ローブはびっしょりと濡れている。さすがにこのままでは着られない。
「乾燥機があるので、乾かしておきますよ」
「有難う」
じっとエフィムがミスルトウを見つめる。
「紅茶でもいかがですか?」
首をあおって、ミスルトウもエフィムを見返す。
エフィムの額、薄茶の髪の陰に、点々と緑の斑点――蟲に喰われた印。
さりげなく、周囲に目を走らせる。
部屋の隅、壁に――一匹。
「……うん、喉が渇いたし、もらおうか」
エフィムが台所に立ち、その後を蟲が追う。
その間に、ミスルトウは部屋を見回した。
テーブルと椅子。一隅にはソファ。その対面にはテレビ。
庭に面した大きな窓には、レースのカーテンがかかっている。
部屋の中には、やはり大量の消臭剤が置かれていた。
かすかな、しかし少し強くなった匂いが鼻孔を刺激する。
妙にまとわりつく、甘ったるい臭い。
どこかで嗅いだ覚えがあるような気がする。
「お待たせしました」
エフィムがカップを持って戻ってきた。
「頂きます」
ミスルトウがカップを取りあげたとき。
不意に、エフィムがじっとりと湿ったハンカチでミスルトウの鼻を覆った。
強烈な、甘い臭いが鼻に抜ける。
閉じていく意識の中、泣き笑いするエフィムの顔が最後に目に映った。