胡蝶の夢

「――と、こんなことがあってね」
 後日。
 白玉団子を作ったから食べないか、と部屋を訪れた古谷杏に、ミスルトウは話を聞かせていた。
 その傍らにはいつもどおりに本があり、今日は紅茶が入ったカップも置いてある。
「危なかったな」
「まあね」
「警察とかには言ったのか?」
「いや、そのまま帰ってきたよ。だって不憫だろう。彼としては娘を愛していただけなんだから」
「いやいや、その『だけ』で殺されるところだったんだろ」
「それはそうだけどねえ」
 死んだ人間にもうひと目、というのは古今東西、誰でも思うものだろう。
 だからこそ、ミスルトウは誰にも、何も告げずにあの家を去った。
「結局、彼は自首したらしいんだけどね」
「そうなのか?」
 うん、と頷く。
 エフィムは、ヤーナの墓をあばいて亡骸を持ち帰り、観光客を家に誘って殺そうとした――と、警察に申し出たのだそうである。
 百貨店で買った紅茶を気に入ったミスルトウが、昨日、停泊している間に買い足しておこうと外に出たとき、その話を聞き知った。
「というか、ちょうど警察が家を調べているところに出くわしてね、やつがれも事情を聞かれたよ」
「で、なんて答えたんだ?」
「知らぬ存ぜぬ、確かにやつがれは彼の家に行ったし、お茶もご馳走になったけれど、殺されそうになったなんてとんでもない。ひどく疲れていたようだったし、やつがれがお茶を飲んでいる間に眠っていたから、起こすのも悪いと声をかけずに出ていったのは悪かった、殺そうとしたなんて、夢でも見たのじゃないか――と、こう言ったよ」
「ほとんど嘘っぱちだな」
 そうだとも、とミスルトウが笑う。
「でも他人の記憶を映画やテレビジョンで見られるような技術はないだろう。そんなものがあったらやつがれの嘘はすぐにバレるから困るけどね。とはいっても実際何があったかなんて、彼ややつがれの言葉と状況からしか推測はできないわけだし、そんな事実はないとやつがれが主張すれば、少なくともやつがれのことについては夢にできるだろう。それくらいは、夢にしたっていいじゃないか。墓荒らしのほうは、亡骸があるんだからどうしようもないけれど」
 夢と現をすりかえる。
 嘘と真を入れ替える。
 昔から、一族が裏でしてきたように。
 言葉を重ね、細工を弄し、幾重にも策を張り巡らせて。
 くるりくるり、現を夢へ、嘘を真へ。
「彼がやつがれに執着していたのなら、こんなことはしなかったけど、彼が執着していたのは、自分の子供だろうと思ったからね」
「しかし、よく夜まで殺されなかったな」
「夜がいいと思ったんだろうね」
 あるいは、彼は迷っていたのかもしれない。
 我が子をよみがえらせるために、他人を手にかけるのか、と。
「聞いた話だと、彼の奥さんは娘を産んですぐに亡くなったそうだから……そのせいもあるのだろうね」
 突如として『全て』を失った男は、『全て』を取り戻そうとした。
 亡妻の忘れ形見、ただ一人、愛情を注いだその一人を。
「そういえば、変な声、ってのは……どうやったんだ? 何か種があるんだろ?」
「鋭いね」
――こうやったのさ。子供騙しだけどね。
 言葉が続く。
 しかし、ミスルトウの口は動いていない。
「……腹話術?」
「ご名答」
 笑って答え、白玉団子をひとつ口に入れる。
 きな粉がかかった団子は、もちもちとして美味しい。
「御先祖に知れたら、まずいやり方だと大目玉を喰らいそうだけどね。部屋が暗かったし、相手もまともな神経じゃなかったからできたようなものだ」
「なんで、一つ組んでは……なんて言ったんだ? 賽の河原のやつだっけ、それ。何かの漫画で読んだ覚えはあるけど」
「うん、『賽の河原地蔵和讃』だね。まあ何でもよかったのさ。やつがれはとりあえず、蟲を殺す隙が欲しかっただけだからね。思いついたことを言っただけ、娘を盾に適当に言えばよかろうと思っただけだ。それに、地獄云々はともかく、いつまでも悲しんでいるのはよくないというのは……どこでもそうじゃないかと思ってね。もっとも、彼には相当酷なことを言ったと思うよ。子供が亡くなってから、まだ日も浅かったのだそうだし。とはいえ、これであの子はちゃんと墓で眠れる。彼がどうなるかは、やつがれの知ることではないけど、家に来ていた警官が、だいぶ親身になっていたから……さすがに極刑ってことはないんじゃないかな」
 露西亜ロシアの法律は知らないから、何とも言えないけどね、と続けて、ミスルトウはもうひとつ、団子を口に入れた。


 道理を通して角が立つなら、無理を通しておさめよう。
 住みにくい現を夢に変え、転寝うたたねの夢を現に変えよう。
 願わくは、彼の傷が早く癒えるように。

引用:http://kame.rakusaba.jp/okyou/sainokawara.htm

(『賽の河原地蔵和讃』)