Scape Goat.
金曜日。一日の授業が終わり、生徒たちは各々のロッカーに教科書をしまい、思い思いに放課後をすごしはじめる。
ロッカー前の生徒たちが半分くらいに減ったころ、アイビー・トラントゥールも自分のロッカーに、分厚い教科書を片付けた。
ロッカーを使うときにはいつも、アイビーは自分のロッカーがもっと端にあればいいのに、と思わずにいられなかった。
廊下の両端にずらりと並んだロッカーのうち、アイビーのロッカーは真ん中あたりにある。そこに行くまでには他の生徒たちの間を通り抜けていかなければならなかった。
自分のロッカーに来るまでに、アイビーは二、三度足を引っかけられそうになっている。よろけた拍子に周りで見ていた生徒たちの間から、くすくすと忍び笑いがおこった。笑い声が針のようにアイビーに突き刺さる。
日頃からうつむきかげんの顔をさらにうつむけて、アイビーは鞄を肩にかけ、足早に学校を出た。
他の生徒に比べると、アイビーはひどく場違いな、あるいは道化のように見えた。実際彼女は小学校に入学してからずっと、クラスメイトの間の道化だった。
濃い金にも見える薄茶の髪をショートカットにし、白い無地のTシャツにジーパン。顔からはいつも、おどおどした色が消えなかった。
歩道に落ちているチューインガムのかすや、煙草の吸殻やキャンディの銀紙などを見ながらバス停まで歩く。
アイビーへの嘲笑の発端はささいなことだった。彼女の眼の色が他と違うと、ただそれだけだ。アイビーの眼は左が緑色、右が青色をしていた。
そしてひとたびはじまった嘲笑は、広がるばかりでおさまることを知らなかった。
はじめのうちは、アイビーも努力はした。何か言われたら言い返し、眼のどちらかに、色を揃えるためにカラーコンタクトをいれたいと両親に言い出たこともある。
しかし言い返したところでいじめはおさまらず、コンタクトはそんなことをする必要はないと頭から叱りつけられた。
「ちょっと、変なものがついているわよ」
バスを待っているとき、初老の女性にそう声をかけられた。
何かを剥がす音。
『私を蹴って』
そう書かれた紙を見て、アイビーの顔が羞恥で真っ赤になる。
胸のうちに何かがたまる。何か、どろどろとしたもの。
「ただいま」
家に帰ってくると、リビングの方から笑い声が聞こえてきた。
「あら、おかえり」
母方の叔母、エルシー・ブルースミスが、五歳になる息子のトミーをつれて、遊びに来ていたらしい。ちらりと母・ジェシカがアイビーを見る。叔母さんに挨拶しなさい、と眼が言っていた。
「こんにちは、叔母さん」
それだけ言って、アイビーは二階の自室へ駆け上がった。
部屋の棚には、裁縫箱と作りかけのコサージュが乗っている。友人のキャロルの誕生日にプレゼントしようと、この間から作っているものだった。
アイビーはそれを取り、注意深く続きを進めていた。白いオーガンジーの布で、薔薇の花を作り、ビーズで飾りをつけるつもりだった。
階段を上がってくる、軽い足音。ノックもなくドアが開いて、トミーが入ってきた。
「アイビー、ねえ、あそんでよ」
「だめ」
トミーが唇を尖らせる。
「なんでさ、ねえ、あそんでよ。あそんでってば、ねえ!」
ぱしんとトミーがアイビーを叩く。ほとんど痛くはなかったが、その拍子に持っていた針が、ちょうど彼女の指先を突いた。
鋭痛。指先にぷつりと、赤い玉が盛りあがる。
「アイビー、ねえ、あそんでよ、ねえってば!」
「うるさい!」
言葉が走り出ていた。乱暴にはらいのけられ、尻餅をついたトミーが、甲高い泣き声を立てる。
すっと頭が冷えた。
(今……)
自分は、何をした?
ばたばたと、母と叔母が走ってくる。
アイビーが弁解するより早く、母が平手で彼女を打った。
「何をしたの!」
問い詰める母に対して、また、あのどろどろしたものが、蛇が鎌首をもたげるように、頭を持ち上げる。
「わ、私のせいじゃない! トミーが叩いてくるから、だから――」
「アイビー・メイ・トラントゥール!」
母の鋭い声に、ひゅ、と笛のような音を喉で鳴らして、アイビーは渋々謝罪を口にした。
その夜、帰ってきた父のカスパルからもひどく叱られ、土曜日は一日外出禁止を言い渡され、アイビーは自室でベッドに座り、苛立った顔でふてくされていた。
階下では、両親が今夜も言い争っている。内容はいつもの通り、アイビーのことだ。
――なぜあいつはああなんだ。お前のしつけが良くないんじゃないのか!
――知らないわよ、そんなこと!
怒鳴る父の声。ヒステリックな母の声。
この二人にも若いころがあったとは、アイビーには信じられなかった。
今は、あのどろどろとした感情は去っていた。それでもまだ胸の奥に、何か棘のようなものが残っているようだった。
手を伸ばし、サイドテーブルの人形を腕に抱く。“ホリー”と名付けたこの人形は、友人のキャロルがくれたもので、アイビーと同じ、青と緑の眼をした、金色の髪をしている。
柔らかな人形の感触は、いくらかアイビーの心をしずめてくれた。
一日おいて日曜日。アイビーは課題のための資料探しに、図書館に行こうかとバス停まで歩いていた。
「そこのお姉さーん! ちょっとお願いがあるのー!」
呼びかけられて足を止め、アイビーがきょろきょろとあたりを見回す。
底抜けに明るい声で自分を呼び止めたのが、空色の髪をポニーテイルにした、見知らぬ少女だと気付き、顔に浮かぶ困惑がいよいよ強まる。
困惑とともに、警戒の色もほのみえる。
「えっ、と、何か、用?」
眼を輝かせた少女が、首を縦に振る。
「お姉さん、ウチとランチしない?」
予想外の言葉をかけられ、たっぷり十秒、アイビーの思考が止まる。
誰かの悪戯だろうか。いつも自分をいじめて笑いものにするイレーナ・ジャンセンの?
さりげなく周囲に眼を走らせてみたが、特に知っている顔は見えない。
分かった、という代わりにうなずくと、少女の顔がぱっと輝いた。
その後、近くのカフェで、二人は向かいあって座っていた。二人の前にはソーダ水の入ったグラスが置かれている。
ソフィアと名乗った少女は、これまでアメリカのあちこちに住んでいたらしい。これまでに住んだ町の話を一通りして、ふとソフィアがじっとアイビーの顔に眼を注ぐ。
「Hmm,ねえ、お姉さん。もしかしたら、このごろ怒りっぽくなってるとか、ない?」
どきりとアイビーの心臓が跳ねる。
「別に……ないけど」
「そっか、Sorry! 変なこと聞いちゃったね! そうだ、お姉さん、このあとまだ時間ある? よかったら一緒にスイーツ食べに行かない?」
「うーん……ごめん、これから、図書館行くから」
非常に残念そうなソフィアと別れ、どこか名残惜しさも感じつつバスに乗る。
そういえば、キャロル以外で他人と比較的打ち解けて話せたのは、久しぶりだった気がする。クラスメイトと打ち解けて話すことなどろくになかったし、キャロルが大学に進学してからは、ほとんど会っていなかったから。
図書館に着いて目的の本を借り、家に引き返す。
(そういえば……)
道々、見慣れない顔を何度か見かけた。先のソフィアもそうだが、バスを待っている間にも、茶髪を一つにまとめたアジア系の女や、金髪を三つ編みにし、トランクを下げた少女と、その隣を歩く、瓜二つの少女。
何か催しでもあっただろうか。そんな話は聞かないのだが。
観光客だとしても、この町に観光客が集まるような場所はない。
「お姉さん、ここのバス、A――に行く?」
ふらりとやってきた東洋人の女が、アイビーに話しかける。鋭い眼光と左眼を貫くように走る傷跡に、内心びくりとおののきつつ答える。
「はい、行きます」
よかったー、と女が破顔する。
「いやー、アメリカって一区画が広いって聞いてはいたけど、ほんと広いな。大変じゃない?」
「いえ……別に」
「そっかー、住んでるとそんなもんか」
女は一人でうなずいている。
「おい、お前アジア人? どこの出身?」
さきほどからこちらを見て、何か話していた青年たちの一人が、おもむろに近づいてきた。アイビーは彼らを知っていた。校内でも有名な不良、ヘンリー・ノーランとその取り巻きたちだ。
「日本人だけど」
「日本人だってよ!」
初めに話しかけてきたビリーが声を上げる。ヘンリーたちが近づいてくる。その顔には明らかな怒気があらわれている。
すくんでいるアイビーとは逆に、女はほんの少し、眉を寄せただけだった。
「おい日本人、なんだってこんなところに来てんだよ。国から出てくんじゃねえよ」
「ああ、悪いけど仕事でね」
けっ、とヘンリーが唾を吐く。
「仕事なんだったら金持ってるよな? 出せよほら、早く。出したら許してやるからよ」
すい、と女の目が細められる。すぐにその顔がしかめられた。傷跡の残る左半面が引きつれる。
「ったく、当たりかと思ったのに。いらん手間増やしやがって」
「何だと!」
ざわりとヘンリーたちが殺気立つ。それから女とアイビーが路地裏に連れこまれるまでは、そう時間はかからなかった。
ヘンリーとビリーが大ぶりの折りたたみナイフを取り出す。陽光にきらりと刃が光った。
素人の構えではなかった。荒事に慣れている様子が見てとれた。
相手は六人。自分より大柄な男たち、それも二人はナイフを持っている男たちを前に、女は怯んだ様子を欠片もみせない。むしろきりりと唇を釣り上げ、その眼に獲物を見つけた肉食獣のような光を浮かべていた。
「おいおい、そこの子は関係ねえだろ。ったく、これだからサンピンってのは……ん?」
女の表情がふと変わった。ヘンリーの頭上に目をやり、眼の光が強まる。やっぱ当たりか、と小さく呟くのが聞こえた。
「お姉さん、そこ、動くなよ。下手に動くと――」
女――古谷杏が言い終わる前に、ビリーがナイフを腰に構えて突きいれてきた。
杏が半身になって刃を避け、突きだされた右手を掴んで身を沈める。ビリーの身体が大きく弧を描いて地面に叩きつけられる。
その右手を踏みつけ、杏がケヴィンの腹に膝蹴りを入れる。身体をくの字に折ったケヴィンの頭上を、音を立てて杏の左足が薙いだ。
ち、と鋭く舌を打って、ケヴィンのうなじを手刀で叩いた杏が、後方に上体をそらした。彼女に向かってくりだされた蹴りが空を切る。
鈍い音と絶叫。上体をそらすと同時、跳ね上がった杏の左足に、蹴りを放ったノーマンは股間を蹴り上げられていたのである。
(わ……すごい)
アイビーがどこか場違いな感情を抱くほど、杏の動きは鮮やかだった。
残る三人のうち、ヘンリー以外の二人――ケニーとジャッキー――が、同時に杏に飛びかかる。
ケニーの拳が杏の顔を狙い、ジャッキーはさっとナイフを取り出してぶつかってくる。
息のあった動きだった。今思いついてやってみた、というのではなく、これまで幾度も同じようにしてきたのだろう。
すっと杏の身体が再び沈んだ。大きく前に足を伸ばし、その一刹那、ぺたりと前に倒した身体が平たくなったように見えた。
伸ばされた足で、ジャッキーの軸足がはらわれていた。一拍置いて、嫌というほど地面に身体を打ちつけ、ついでにナイフでどこかを突いたらしいジャッキーの呻きがあがる。
立ち上がると同時、再度殴りかかってきたケニーの腕を跳ね上げ、彼のみぞおちに拳をいれる。
ようやくヘンリーが動いた。顔は怒りのために青黒くなっている。
「こ、の……!」
「どうする、逃げるかい? ……ま、逃がしはしないけど、ね」
ね、と言い終えると同時、一気に杏がヘンリーとの距離を詰めた。白刃をかわし、すっとかがんでヘンリーの腹に思いきり肘を叩きこむ。
身体を折ったヘンリーの背を蹴って飛び上がりざま、杏がベストの内側から黒いものを取り出した。
(銃!?)
乾いた音は、しかしほとんど響かなかった。てっきり銃声が響くものと思い、反射的に腕で頭を庇って小さくなっていたアイビーは、内心首をかしげる。
「おし、何とかなったな。大丈夫か?」
「あ、はい……」
アイビーを見ていた杏が、ふと怪訝そうに首をかしげる。
「んー、変なこと聞くかもしれないんだけどさ。お姉さん、このところ急に感情が制御できなくなったとか、ない? 怒りっぽくなったとか」
「さっきも聞かれたけど……別にそんなこと、ない。なんで急に、そんなこと聞くの?」
ベストの内ポケットから煙草を取り出し、杏は一本咥えて火を付けた。
「ま、ここじゃなんだ。さっきのバス停まで戻るか」
ゆらりと、紫煙が揺れる。
「『蟲』、ってのがいる」
バス停に戻り、ベンチに腰かけた杏は、煙草をくゆらせながらそう切り出した。アイビーも、その隣に座る。
「むし?」
「そう。人の負の感情を増幅させて、暴走させる生き物……とでも言えばいいのかな。蟲に喰われた……つまり、蟲によって暴走させられた人は、本人も、周りも危険にさらす。さっきみたいに襲ってきたりとかね」
「でも……でもさっき、そんな、蟲? なんか、どこにもいなかったじゃない」
「蟲は、基本的に認識できない。蟲を見て、倒すことができるのは、契約を結んだ人間だけなんだよ」
「まさか。私、もうお化けを怖がる歳じゃないよ。そういうオカルト? とかも興味ないし」
「うん、だろうね」
気を悪くした様子もなく、杏は携帯灰皿に吸っていた煙草を押しこんだ。
その日、家に帰って課題を済ませようとしていたアイビーだったが、どうにも集中できず、遅くまで部屋には灯りがついていた。
月曜。イレーナ・ジャンセンはアイビー・トラントゥールを見つけて目を光らせた。
友人たちとアイビーを囲み、はやしたてる。それは他の生徒からしてもいつものことで、だからこそ彼らは遠巻きにしながら笑っていた。
アイビーは何も言わないで、どうやらカフェテリアに向かっているようだった。
ここに船員の誰かがいたら、彼女の肌に点々と、白い斑点が浮いていることに気付いただろう。
黙りこくって歩くアイビーの、噛みしめられた口元は震えていた。
「ねえ、『馬鹿』ってどうつづるか知ってる? I・V・Yってつづるのよ」
にやにや笑いながら、イレーナが嘲りを含んだ声でそう言いかける。周りで笑い声が起こった。
その結果何が起こるのか、彼らは考えていなかった。彼らにとってはいつもの暇つぶしにすぎなかった。
カフェテリアは――昼食時をすぎていたこともあって――集まっている生徒はあまり多くなかった。
何人か、イレーナの友人たちもいて、彼らもからかいに参加していた。
「ちょっと、なんで黙ってんの。笑ってみなよ、ほら」
イレーナがアイビーを小突く。
それからのことは、そこにいた生徒たちの目には、スローモーションで見えていた。
アイビーが目の前の椅子を掴む。ふわりとカフェテリアの椅子が浮く。
一瞬の間。
そして、破砕音が響いた。
派手な音を立てて、窓ガラスが砕け散る。
ざわめきが聞こえるなか、窓に、人には見えない蟲が映ったのを、居合わせた何人かは見届けていた。
「嫌ですわ。せっかく姉様とランチに行くつもりでしたのに」
「ま、昼メシ前の軽い運動ってヤツだろ」
自身に瓜二つのマリオネットをつれた少女、早乙女アンネリースの嘆きに、あっさりと古谷杏が返す。
「よし、これ終わらせてお姉さんナンパしに行く!」
「あっちに裏口あったネ。警備もいないし、入れそうネ」
気合を入れるソフィアと、どこか悪戯っぽく、ヌンチャクで方向を示す中国人の女、紅花。
都市の高校でないのが幸いして、セキュリティはそれほどきついものではない。
再びの破壊音と共に、砕けたガラスの雨が降る。
騒いでいる生徒たちの間を縫うように、学校に入りこんだ四人が、それぞれカフェテリアに向かって駆ける。
すすり泣きにも似た笑い声。
それが自分の口から出ていると、アイビーは気付かないまま、恐怖に歪んだイレーナの顔を見下ろしていた。
「変な顔。笑ってみなよ。ほら、こうやって」
イレーナが悲鳴を上げ、アイビーがぐいぐいと口元に突きつけるガラス片から逃れようと頭を反らせる。
割れた窓から飛びこんできたヌンチャクが、ガラス片を持つ左手を強打した。血とともに、ガラス片は床に落ちる。
同時にソフィアとアンネリース、アンネリーゼ、そして杏が、カフェテリアに飛びこんでくる。
ゆらりとふりむいたアイビーの顔には、白い点が斑に浮いている。
その影から、甲虫によく似た蟲が姿を現す。
「ほら、さっさと逃げろ!」
杏が取り出したエアガンに、ほとんどの生徒が悲鳴を上げてカフェテリアから出ていった。
警察、という言葉が聞こえた。
残る数人の生徒たちの肌にも、ぞろりと斑点が浮き上がる。
近くにいた生徒がソフィアに殴りかかろうとするその鼻先を、割れた窓から飛びこんできた紅花のヌンチャクがかすめた。
隣では杏が、肉食獣の眼光を目に宿して、三人を相手にしている。
「Hey,ウチのこれを喰らいたい?」
「本当に、蟲さんは無粋ですわ。私と姉様の時間を邪魔するなんて」
ソフィアが懐から出した拳銃で、天井近くにいる蟲を狙う。それを阻むように、アイビーが天井まで飛び上がった。
本来人間ができる動きではない。
蟲に喰らわれた人間は、身体能力が向上する。それは普段、無意識下で身体にかけられているリミッターが、蟲による暴走で外れた結果、生じる現象である。
人間の身体は、そんな状態に耐えられるようにはできていない。許容を超える負荷がかかれば、当然その反動も大きい。
とん、と床に降りたアイビーへ向かって、トランクケースを手に、アンネリースが距離を詰める。
何に怒っていたのか、誰に怒っていたのか。その対象もすでに抜け落ち、ただ怒りのままに、目の前の少女に向けて腕を振る。
「残念。私はこちらですわよ」
目の前にいたはずのアンネリースの声が、横から聞こえた。
(!?)
目の前の人影はアンネリーゼに変わり、転瞬、横から振り抜かれたトランクがアイビーの腹を強打する。
息の音を鳴らして、アイビーが身体をくの字に折る。その眼にはまだ、闘犬にでる犬のような、激しい炎が揺れている。
その後ろで破裂音。ソフィアが手にする銃から、細く煙が上がっている。
銃弾を打ちこまれ、蟲は厭うように揺らいだが、まだ消えてはいない。
低くした姿勢から、伸び上がるように起き上がり、疾った腕がアンネリーゼを狙う。
だがいかに身体能力が上がっているとは言え、蟲と戦い続ける船員たちと比べれば、それは素人の動きの粋を出ない。
「Emeny,これで終わりだよっ!」
三発目の銃撃で、蟲はさらさらと崩れて消えていく。
アイビーが、糸が切れたように、ぺたりと床に座りこむ。左手から滴る血が、床に小さな円を作っていた。
その後、通報を受けた警察が駆けつけたときには、侵入者たちの姿はそこになかった。
夕方、家の自室で、アイビーは膝を抱えてベッドに座っていた。
学校ではあれから警察が来るわ、臨時休校になるわとかなりの騒ぎになったが、アイビーを含め、カフェテリアにいた誰も、何が起こったのか、説明できる者はいなかった。なにせ誰一人、起こったことをはっきり覚えていなかったのである。
父は仕事、母親は買い物に出かけ、まだ帰ってこない。
玄関の呼び鈴が鳴る。
「はい」
「見舞いにきたけど、入ってもいいか?」
覚えのある声。杏だった。
「怪我はどうだい?」
「たいしたことはない、みたいです」
アイビーの傷はガラス片で掌を切ったくらいで、そこ以外に大きな怪我は認められなかった。
「そりゃ良かった。で、ちょっと話があるんだが」
「はい」
アイビーがうなずいたのを見て、杏が口を開く。
以前も聞いた蟲の話。そして、今日の学校での騒ぎは蟲が原因であるということ。
「その……蟲、今は」
「うん。今は大丈夫」
「蟲は……誰でも喰らうの?」
「その蟲が暴走させる感情を持っている人間なら、誰でもね」
「それを、止めるには?」
「契約するしかない」
「契約……」
「うん。ただし、契約すれば世界から嫌われる。つまり、あんたは“いなかった”ことになる。誰もあんたを覚えていない」
「なんで、そんな契約を?」
「守りたい誰かがいるから。アタシは家族を蟲から守りたくて契約したし、友達を守るために契約したやつもいるよ」
アイビーは黙りこくって、じっとテーブルの一点を見つめていた。
蟲。人を暴走させ、災害をもたらすモノ。
もし、キャロルがそれに出会ったら、あるいは、巻きこまれたら?
「ねえ。契約をするには、どうすればいいの?」
一度閉じられ、開かれたとき、目に、揺らぎのない光が宿る。
杏は黙って煙草を出して火をつけ、テーブルの上を指差した。テーブルの上にはいつの間にか、契約書と羽ペンが現れていた。
杏はつかの間、痛ましいものを見るような目で、それを見ていた。
「それに名前を書けばいい。そうしたら、世界に嫌われるかわりに、蟲を倒すことができるようになる。ああでも、書く前に、荷造りと、挨拶くらいはしたほうがいいぞ。そこに名前を書いたら、その時点でいなかったことになるからな。大丈夫だ。消えはしないよ」
とんとんと、二階に上がる。鞄に財布と着替え、裁縫箱を詰め、ホリーを腕に抱える。
(あ、そうだ、あれも)
引き出しから、革の一本鞭を取り出し、鞄におさめる。伯父からもらったものだ。唯一、アイビーが得意だと言えるもの。
リビングでは相変わらず、杏が座っていた。
「いいのか?」
短い問いにうなずいて、羽ペンを取り上げる。
『アイビー・メイ・トラントゥール』
署名をすると同時、契約書はどこへともなく消え去った。
「んじゃ、船に行くか。部屋の手配とか頼まなきゃいけないしな」
道に出たとき、ちょうど向かいから、イレーナ・ジャンセンが友人とともに歩いてきた。思わず身をすくめたアイビーだったが、イレーナはアイビーを見もせずに通り過ぎていく。
「見ない顔だわ」
「誰かしらね?」
そうささやきあう声が、ずっとアイビーの耳に残っていた。
→ 笑う女