独白

 母は、よく外を眺めている人だった。長い、赤い髪を下ろして窓にもたれかかり、格子の向こうの中空を、いつまでもいつまでも、ぼんやりと見つめ続けているその姿は、今でもよく覚えている。

 たいていそんなときには、母は気に入りの着物を着ていた。鮮やかな黒と緋色地に、大輪の花があしらわれた着物。背に下りた髪の先が、畳をわずかにこすっていた。

 後ろ姿はそれほどはっきりと覚えているくせに、母の顔がどんなだったか訊かれると、そちらはぼんやりとしか思い出せない。

 きれいな人だったのは、おぼろげに覚えている。切れ長の鳶色の目、尖った鼻、小さな、紅をさした赤い口。個々の形は思い描くことができる。けれどそれらを一つの顔として、まとめることはどうしてもできない。母の顔を思い出そうとすればするほど、その面影は、他の妓達の顔に埋もれていく。

 仕方がないことだと思う。母と呼んではいるが、それは自分を産んだ人だからだ。愛情らしきものを向けられたこともないし、自分も抱いたことはない。

 それを知ると、薄情だと人は言う。親なのだから、産んでくれた人なのだから、愛さなくてはならないと。

 

 片腹痛い。

 

 自分の母という人は、自分が産んだ子に、生まれなければよかったと言うような人だ。必要な世話こそすれ、名前をつけようともしなかった人だ。

 母の自分への態度は、玩具を相手にする子供のそれだった。気分で構い、あるいは邪険にして。構われるより、邪険にされることのほうが、ずっと多かった。

 今思うと、気まぐれに構われることは、放っておかれるよりも辛かった。期待してしまうのだ。今日は構ってもらえるのではないか、と。気まぐれだと気付かなかった幼い頃はまだ、良い子でいれば優しくしてくれるのではないかと思っていた。最後まで、そんなことは無かったのだけれど。

 母はマヤという名で、十二、三の年に、妓楼へ売られてきたのだと聞いたことがある。生家は貧しく、そのくせ子供が多く、口減らしか何かで売られたという、楼ではしばしば聞いた境遇だった。一番多い境遇だったかもしれない。けれどもその生家がどこにあるのか、家の名は何だったのか、そういった話は、一度も聞いたことはない。

 母は、確か自分が六つのときに、妓楼を去った。花街があった土地の東にある、さる大店の主人に身請けされて。

 風の噂で、母は大店の女将として評判もよく、三人の子供にも恵まれていると聞いた。

 母が妓楼を去った後、会いたいか、と聞かれたことが何度かある。聞いてきたのは誰だっただろうか。楼の若衆の誰かだったかもしれない。妓女の誰かだったかもしれない。

 その質問に、会いたい、と答えたことは一度もない。

 母にとって、自分はいない方がいい存在で、自分にとって、母はいてもいなくても変わらない存在だった。会いたいと恋しがるほど、自分は母を想ってはいなかった。

 自分が最後に母を見たのは、母が身請けされ、妓楼を去るその日だった。身請けしたその男と連れ立って、妓楼を去って行く後ろ姿を、楼の窓から見ていた。母の部屋で、母と同じように、窓にもたれて。

 

 その部屋は、後に自分の部屋になった。