籠の段 第二話

 ユリンが十四のときだった。このころ、彼女は新造として妓女インフアに従い、ときに彼女の代わりに客の相手をすることも――肌を重ねることはなかったが――あった。
 その日、ユリンがインフアの部屋に向かったのは、揚屋への客の到来を聞き、それを知らせるためだった。
 インフアの部屋に行くには、表の廊下を使うよりも若衆用の通路を使ったほうが早い。勝手知ったる連理楼、早足に通路を進む。
 部屋に向かって声をかけようとしたとき、部屋の中から話し声が聞こえてきた。
「カグノ……」
 低くおんなの本名を呼ぶその声は知っていた。幼い頃からの馴染みである。馬の合わぬ相手とは言え、声は覚えている。
 とっさにするすると、足音を立てずに後ずさり、物陰でそっと息を吐いた。
 心臓の鼓動が辺りに聞こえるかと思われるほど、どきどきと音を立てていた。
 彼が客であったなら、問題はない。だが、彼は客ではなく、この楼で働く若衆の一人である。
 妓女と若衆との恋は、どこの楼でも御法度である。妓女が客の中に本命の相手──間夫を持つのは許されていても、その相手が若衆だと分かったが最後、多くは若衆が見世を追われるか、最悪殺されて、引き離されるのが常であった。若衆と恋仲になった妓女は、その男に義理立てて、客を取るのを嫌がることが多いためである。
 見世にとって妓女は商品。稼いでもらわねば困るのだ。
 彼もそれは知っているはず。きっと何かの間違いだ。そうに、決まっている。
 息を潜めていると、まもなく妓女の部屋から、一人の男が、辺りをはばかる様子で廊に出てきた。
 そのまま歩きかけた男の足が、ふと止まる。目の前に、さも今来たと言わんばかりに、ユリンが歩いてきたからだ。
「何の用だ。お前が通るのは表廊下だろう」
「カグノ姐様、っと、インフア姐様にお客様だって、伝えに来たの。遅れちゃ大変だもの。そっちこそ今、ここに用はないでしょ、ヤオ、じゃなかった、アツヤさん」
「それなら、もう、伝えてある。さっさと用意にかかれ」
「言われなくても」
 すいと横を通り抜け、ひと声かけて、部屋に入る。中にいたインフア――カグノが、ぎくりとした様子でユリンを見た。
「姐様、お客様です。ご準備なさいませ」
 素知らぬ顔でそう伝え、部屋に入る。
「ああ、もうそんな時間? ありがとう」
「姐様、何か良いことでも?」
「え? ふふ、そう見える? うん、ちょっと、ね」
 花が咲いたように、カグノが笑う。
 カグノの着物選びを手伝って、自分の用意も整えて、カグノに連れられて道中に出る。
 インフアの名を持つ彼女は、艷やかな緑の黒髪を結い上げ、菊と蝶をあしらった色打掛をまとって道を歩く彼女は、衆目を引きつける。
 揚屋から妓楼へ、宴は続く。
 その夜、見世が引けた後も、ユリンは中々寝付けなかった。
 一番いいのは、誰かに告げ知らせることだ。カグノとアツヤが恋仲らしい、と一言言えば、ことがことだ、すぐに楼主の耳まで達する。
 そうなれば、アツヤはここを追われるだろう。折檻の末に殺されるようなことにならなければ、だが。
 この妓楼で産まれ育った彼に故郷はない。見世の妓女とねんごろになったという話は、あっという間に花街中に広まる。そうなればこの花街のどこの妓楼でも、彼を雇う者はいるまい。
 そっと寝床を抜け出して、けれどもどうしても、人に告げる、その決心がつかない。
 理由は簡単だ。カグノの笑顔を見たからだ。
 カグノは、二年ほど前にこの妓楼に売られてきた。ちょうどそのころ、連理楼で売れていた妓女の一人が身請けされて妓楼を去り、その妓女についていたがために手が空いたユリンが、カグノの世話をすることになった。
 カグノは大家たいけの娘らしく、仕込まずとも芸事の類は一通りこなし、礼儀作法も心得ている。だがいつも、ユリンが身の回りの世話をしながらあれこれと、妓楼での暮らしを語るときには悲しげな顔で聞いていて、笑顔など、一度も見たことがなかった。
 客をとるのも苦痛だと、ぽつりとこぼしたこともあった。
 たとえそれが楼の決まりに逆らうことであっても、そんなカグノが、ほんのいっとき、つかの間だけでも笑顔になれるなら、それならそれでいいのではないか。自分の胸ひとつにおさめておける間は……。
「どうした、ユリン。寝る時間はとうに過ぎてんぞ」
 一人、廊に佇んでいたユリンを見咎めたのは、ちょうど夜の見回りを終えたアンキだった。
「あ、アンキさん」
「なんだ、浮かない顔をして。火遊びか? そいつはよくねえぞ」
「なんで。違うよ。ちょっと、眠れなくて。……ねえ、アンキさん。アンキさんは、どうしてここに来たの?」
「俺か? 面白い話でもないぞ、別に。まあ、聞きたいってんなら話してやろうか。寝物語にはなるかもしれん」
 場所を変えようと、裏庭に出る。
「俺ぁ、こっから南の村の生まれでな、幾つのときだったか、親に売られたんだよ。生まれたときから大きくてな、飯は人の倍も三倍も食うんで、親も養いきれなかったんだ。何せ家は貧しかったし、兄弟も多かったからな。どっかの旅の一座に売られて、力持ちの芸なんか見せてたんだ。米の俵を二つ三つ担いで、少し大きくなってからは、米俵の上に子供を乗っけたりしてな」
 ふと、アンキが言葉を切り、目を伏せる。少しの間言葉を探して、また話し出す。
「でも座長が、ひどいやつでな。思う通りに稼げなかったら怒鳴り散らすだけで飽き足らず、殴る蹴る、鞭打つのもしょっちゅうだった。こんなふうに、な」
 月明かりでも分かる。片肌脱いでみせたアンキの肌の上には、縦横に傷痕が走っていた。
 目を丸くしたユリンにふっと、いつもの明るい笑みを見せ、アンキが肌をおさめる。
「まあ、それで……たまりかねて、逃げ出した。後は……あっちこっち、流れ歩いて、ここに落ち着いたのさ。どうだ、つまらん話だろう?」
 ユリンは何とも言わず、ただ曖昧に笑っていた。
「大体みんな、若衆の人はそうやって流れてここに来るって言ってるね」
「ああ、妓楼の若衆はたいてい訳ありさな。望んでここで働きたがるやつってなあ、聞かないねえ。いたところで三日で出ていくだろ、そんなやつは」
「訳あり、かあ。それってどういう訳なの、他の人は?」
「うん? そりゃあ、あんまり話すもんじゃあねえ。そういうのは探るもんじゃねえんだよ」
「言えないこと?」
「そうさな。お前はまだ小さいが賢い。俺なんかよりな。だから俺が言ってることは分かるだろ? ここにいる若衆や姐さんたちだけじゃない、人ってのは、生きていく上で、多かれ少なかれ、何かを背負うんだ。何かを背負って生きてるもんなんだ。それは人によって違うものなんだよ。傍から見たら軽いものかもしれん、大したことなく見えるかもしれん。でもそれを背負うかどうか、それが重いかどうか、決められるのは本人だけなんだ。だから、な、人が何を負ってるかなんて、不用意に探っちゃならねえんだ」
「そうなの?」
「ああ。人に話したくないこともあるからな」
「分かった。もう聞かない。でもあと一つだけ聞いていい? 訳を聞くんじゃないから」
「なんだ?」
「ここでも外でも、決まりはあるよね?」
 頷きながら、何を言い出すのかと少女を見る。紺青の目が、真剣にアンキを見つめている。
「もし、その決まりを破った方が、その人にとって良いことに思えたら、アンキさんはどうする?」
 何か心当たりでもあるのかと、アンキは言いかけてやめる。
「そうさな……。それをしてのける度胸があるんなら、もしそれが公になって、自分がその責任を取ることになっても構わないと覚悟ができてんなら、俺はお天道様に背を向けるさ」
「……そっか。ありがとう、アンキさん」
 じゃあね、と、寝間着がひらりと翻る。とっとと寝ろよ、と、その背に声を投げかけて、アンキは夜の裏庭で、一人苦笑した。
「ああ、全く。人殺しが一人前に、子供に説教なんて、なあ」
 手を月にかざす。太い指、厚い掌。汚れてはいないが、それでも、アンキの目には、べっとりと血に染まった己の手が見えていた。
 ユリンには黙っていたが、アンキはただ逃げただけではなかった。彼は座長を刺し殺して、そのまま逃げてきたのだ。
「はは、覚悟だとよ。そんなもん、昔も今もねえくせに。よくまあ言ったもんだ。一生、お天道様に顔向けできねえくせして、よ」
 こぼした自嘲は、ただ月だけが聞いていた。