鳥の段 第二話

 商売の神、胡子を祀る廟、胡宮の傍には、参拝者向けの茶店が何軒も並んでいる。
 そのうちの一軒、〔玉〕と暖簾を出した茶店は、店主が手ずから作る焼団子が名物である。焦げ目のついた、もちもちとした団子にとろみのついたタレが絡んだ焼団子を目当てに、胡宮に来る者もいるほどだ。
 店主は六尺豊かの大男で、いつも愛想よく笑っている。
 夕方、昨日からの雨がようやく止んだ頃、湿った土をさくさくと踏んで、男が店先に現れた。
「いらっしゃい。うん? やあ、アツヤ。どうした、見世はいいのか?」
「ご無沙汰してます。アンキさん、ユウがこちらに来ていませんか」
 慣れた手付きで火にかけた串を回しながら。アンキが首を傾げる。
「中で待ってな」
 はあ、とアツヤが素直に中に入る。しばらくして、アンキが皿に乗せた焼団子と茶を一杯持って入ってきた。
「で、何がどうしたって?」
「ユウが……タオが逃げたんですよ」
 勧められた団子を手に取りながらも、頬張りはせず、アツヤはぶっきらぼうに答える。串を持つ手首からは、白い包帯が覗いていた。
「ユリンが? なんでまた」
「知りませんよ。どうせ行く場所もないくせに」
「いつ分かったんだ?」
「今朝方ですよ。シギンの家、ご存知でしょう」
「ああ、あの大家の」
「そこの若旦那のオウリさんが前からタオにご執心で、昨日もお越しだったんですが、今朝、ものすごい剣幕で降りてこられましてね。タオが消えた、お前たちが隠したのだろう、とまあ、とんでもない剣幕で」
「隠した、ってのは?」
「それが、若旦那、どうやらタオと心中するつもりだったようで。朝から剃刀振り回して、タオはどこだ、隠さずに出せ、あの世で夫婦になるのだと気も狂乱の体たらく。ハオランは顔を切られるし、俺も手首をやられました。アンキさんがいたらと思いましたよ。アンキさんならあんなうらなり旦那、あっさり取り押さえたでしょうに。結局、若旦那、興奮が過ぎて泡吹いて倒れたんで、医者を呼んでる間にタオを探したんですが、影も形もなくて、こりゃ足抜け(脱走)だろうって、こうして探しに出てきたわけです」
「へえ、ああそういやオウリの若旦那、確かに妓楼通いがすぎるって噂になってたな。で、なんでここに?」
「アンキさん、タオとも親しかったでしょう。もしやあいつが頼ってはいないかと思いまして」
「なめてもらっちゃ困るなあ。これでも連理の楼主様には世話になった身、もしここに来てたら、きっちり意見して妓楼まで送るぜ。それにユリンが頼るとしたら、ここじゃなくてほら、白陶町の〔九千クゼン〕じゃないか。確かユリンの親が身請けされたのはそこだろ」
 アツヤが首を横に振る。
「そこならさっき行ってきましたが、木で鼻をくくったような扱いをされましたよ。そんな女はここには来ていない、第一あれなぞ娘とも思ってはいない、二度と顔を見せるなと散々でした」
 ふう、と息を吐いて、アツヤが少し温くなった茶を飲む。
「庇ってるんじゃないか?」
「まさか。タオの母親がどんなだったか、アンキさんだってご存知でしょうに。タオを庇ったりしませんよ、あの人は。顔を見たら叩き出すことでしょうね」
「だろうなあ。しかし足抜けとはねえ。そんなことはしないと思ってたが」
「同感です」
 出された団子を食べ終え、失礼しました、とアツヤが頭を下げる。
 少しの間考え込み、店を仕舞ったアンキは、店の奥の部屋へと入り、
「いいぞ、降りてきな」
 そう、声をかけた。
 かたりと天井の一部が開き、吊り上げられていた梯子段から、はあい、と、赤い髪の娘が答える。
 アンキは台所に立ち、手早く夕飯の支度を整える。
 タレに漬け込んだ鶏肉を刻んで卵と共に炒め、炊きたての飯にかける。それと白身魚の切り身の入った味噌汁を添え、部屋に運んできた。
 いただきます、と手を合わせ、ユリンが早速飯を頬張る。
 妓女の脱走は大罪である。ユリンがここに留まっていることが知れると、アンキにも累が及ぶ。
 二人ともそれは承知していたのだが、実のところ、ユリンに留まるよう勧めたのはアンキの方だった。
「心中に誘われたんだって?」
「ええ。オウリの若旦那は、別に嫌いじゃなかったですけど。でも心中するほど、好きでもなかったですよ」
「しかしなんでまた、逃げたりしたんだ。掟を忘れたわけじゃないだろうに」
「まあ、知ってますけど。嫌になっちゃって」
「嫌に?」
「アンキさん、好きでもない相手のために死ねます? どれだけ好いてもらっても、あたしは好きじゃないんです。あの人だけじゃなくて、誰も。なのに死ななきゃいけないのかって、馬鹿らしくなっちゃって。それに……見たでしょ、アンキさん。あんなことになっちゃって、もし知れたらどのみち妓女なんかやってられないですよ」
 昨晩、たまたま花街の近くへ用があったアンキは、壁を歩いて降りてきたユリンを見かけた。仰天したものの、とにかく店に連れて帰り、ユリンから簡単に話を聞いて、こうして匿っていた。
「で、これからどうする気だ?」
林果リンカの村に行きます。その後は……考えてませんけど」
林果リンカに? まあいい、理由は聞かないでおこうよ。その後、ねえ……」
 アンキが黙って頬を掻く。
「コンコルディア、知ってるか?」
「コンコルディア?」
「ずっと西にある都市……いや、都市だった場所、だな。ただ、そこにゃ、異能者って奴らがいるらしい。変わった力を持ってる連中だって話だ。そこなら隠れるにはいいんじゃないか? 木を隠すなら森の中、ってな。まあその見た目は何とかした方がいいだろうが。髪がなあ、ちょいと目立ちすぎる」
「墨でも塗って染めましょうか」
「まあ、そこは何とか考えようよ」
 飯をかきこんで、アンキが笑う。
 翌々日の朝、雨の中、人々を北部へ渡す舟の中に、アンキと、黒髪の鬘で赤毛を隠したユリンの姿があった。
「いいんですか?」
「気にするな。元々北には行くつもりだったんだ。ちょっと予定が早まっただけだ」
 出ますよう、と船頭が声を上げる。
 漕ぎ出された舟が、川の流れを断つように、水面に滑り出ていった。


 降り止まぬ細かい雨粒が、景色を曇らせている。
 林果リンカの村は、北の山裾に隠れるようにひっそりとある小さな村である。白羅は養蚕の国とはいえ、北の方は寒冷な気候も相まって桑が育たず、人々は出稼ぎに出るか、猫の額のような小さな畑を耕して暮らしていた。
 船着き場でアンキと別れたユリンは、カグノの頼みに従って、一人この村を訪れていた。道は昨日、アンキに聞いていたおかげで迷うことはなかったが、目的の家を見つけるのには、少しばかり暇がかかった。
 ようやく目的の家を見つけたとき、娘が一人、野菜の入った籠を抱えてその家に入っていった。どうやら忙しそうなその女に話しかけるのは、いささかためらわれたが、ユリンは心を決めて戸口に近付いた。
「すみません。林果リンカの村の、ナデンの家、というのはこちらでしょうか」
「はあ、そうですけれども、どちら様で?」
「カグノ……さんから、こちらを届けて欲しいと、頼まれました」
 自分とさほど年の変わらない娘に、包みを渡す。面差しが似通っているところからして、姉妹であるらしい。
「カグノ姉ちゃんから?」
 手触りで中身を悟ったのだろう、娘が包みを開く。銀の簪を見た娘は大きく目を見開き、ユリンにその顔を向けた。
「……姉ちゃんは?」
「……」
 沈黙で悟ったのだろう、娘が家の中へと駆け込んでいく。ユリンは小さく頭を下げ、立ち去ろうと踵を返した。
「ねえ! ちょっと!」
 追ってくる声に、足を止める。息を切らして走ってきた娘は、手に竹の皮包みを提げている。
「これ、おにぎり。良かったら持ってって」
 きょとんと、青い目をまばたいて、ユリンはありがとうございます、と頭を下げた。
 竹皮包みを抱え、国境の関所に続く山道を行く。雨は止んでいたが、道はぬかるんでいる。
 道の途中、朽ちかけた廟で一休みすることにし、竹の皮包みを開いて、ユリンは目を輝かせた。
 味噌をつけて軽くあぶったおにぎりが二つと、漬菜が添えられている。
 ひと口頬張ると、香ばしい味噌の香りが鼻に抜けた。
 国境の関はもう少しだ。入用な手形などは、アンキから受け取っている。どうやったのかはわからないが、彼は一日の内に、必要なものを揃えてしまっていた。
 関までもう少し、というところまできて、ユリンは足を止め、後ろを振り返った。
 山道。遠くの方に平野が見える。二度とこの光景を見ることはないだろう。二度とここに戻ってくることはないだろう。
 未練はない。ただ、かすかに名残惜しさのようなものはあった。あるいは淡い寂寥感か。
 役人に手形を見せ、関所を通る。咎められることもなく関所を抜け、山道を歩き続ける。
 ようやく山を越えたとき、一陣の風が吹いてきた。風はユリンが被っていたフードを吹き飛ばす。
 むしるように鬘を脱いで、ユリンは朗らかな笑い声を上げた。手から、風でもぎ取られた鬘が、黒い点となって飛んでいった。