寄生木が枯れた日

 一九四五年八月十五日。
 まず広島に、続いて長崎に恐ろしい爆弾が落とされたと聞いてから数日後、戦争が終わった、日本は負けたと知らされた。
 それを聞いたとき、阿刀の胸には何も湧いてこなかった。
 そう、とだけ言うと、この報せを持ってきたお里はまじまじと阿刀を見た。
「それだけですか?」
「うん」
 だって何とも思わないもの。
 そう言うと、お里は奇妙なものを見るように阿刀を見た。
 父に散々殴られたあの日から、阿刀は無口になり、お里ばかりでなく、静弍ともほとんど話をしなくなった。
 自分の中で何かが変わったことに、阿刀は気付いていた。それを周りに話すことはなかったが。
 お里が出ていき、土蔵の扉の鍵をかける音が聞こえる。
 阿刀は黙って本を取り上げ、頁をめくりはじめた。
 人と話すことが減ったかわりに、本を読む頻度と量は増えた。ときには食事が遅れているのをいいことに、ひたすら字を追っていることもあった。
 本はいつでも同じように阿刀を迎えてくれたし、文章に耽溺している間は、空腹も寂しさも、日々の辛さも忘れていられた。
 阿刀が日々本を読みふけっている間にも時は過ぎ、十月になった。
「阿刀様、静馬様が帰って来られるんですって!」
 夕餉を運んできたお里が、いつになくはしゃいだ様子で開口一番、口を開く。
「本当?」
「ええ、お友達の方から知らせがあったんですよ。怪我もしていないし無事でいる、次の便か、次の次の便で帰る、ということですよ」
「……よかった」
 花は喜ぶだろう。兄嫁の顔を思い浮かべ、阿刀の口元がほころんだ。

 静馬が復員してきたのは、阿刀がその知らせを聞いてから数日後のことだった。
 外から聞こえる声に、兄が帰ってきたことを悟ったものの、阿刀はその場を動かなかった。
 かわりに窓に貼られたままの黒紙を少しめくり、外をうかがう。
 兄らしい、背の高い影が見えた。それに近寄っているのは兄嫁だろうか。
 その夜、布団にくるまってうとうとと眠りかけていた阿刀は、扉の開く音を聞いてはっと目を覚ました。
 ゆっくりと、重い足音が階段を登る。
 布団の中で、阿刀は息を殺し、身体を強張らせていた。
「阿刀」
 そろりと布団の中から顔を出す。
 最後に見たときからやつれ、疲れた顔の静馬が、優しく笑っていた。
 阿刀も敷布団の上に正座し、兄を見上げた。
「ただいま」
「兄様、お帰りなさいませ」
 何か言いたげな兄を遮って、母屋に戻るよう促す。
「帰ってこられたばかりで、お疲れでしょう。今日はもう戻って、お休みになってくださいませ」
「……そうだね。お休み」
 ぎ、ぎ、と階段が軋み、扉が閉まる。
 兄も無事に帰ってきた。これでもう、万事順調だと、阿刀は根拠もなくそう思った。このときは、そう思っていた。
 そして、朝晩が冷えこむようになり、例年よりもいくぶん早く雪が降ったある日。
 母屋の方で、けたたましい悲鳴があがった。
 何事かと、耳を澄ます。
 幾人もの女の悲鳴。どれも覚えのある声だった。
――静弍様、せいじさま、お止めください、おやめください。
――静馬様は、決してそのような――。
 扉が開く音。
 同時に。
「阿刀様! お逃げください!」
 お里の叫びと、断末魔が聞こえた。
 仕込杖を手に、階段を降りる。
 戸口に、下の兄が立っていた。
 冬の陽が、朱に染まったその姿を照らし、血塗れの軍刀がぎらりと光る。
(――ずるい)
 命の危機に抱くには、あまりにも場違いな感情。
 だがその感情は、阿刀の中で異常に膨れ上がっていた。
 自分は兄たちのようになれない。せめてまともに産まれていたなら、こんな思いもせずにすんだのに。
「――ずるいわ、お兄様」
 ぽろりと、言葉が落ちる。
 兄は――。
 当然、激昂した。
「それは俺の言い分だ! 静馬もお前も、陰で俺を嗤っていたのだろう! 同じ出来損ないなら、お前も道連れにしてやる!」
 軍刀がふりあげられる。
 はっとした阿刀は身を翻し、隅の長持に駆け寄った。
 蓋を開け、仕掛けを動かして底を開き、間一髪で抜け穴に飛びこんだ。
 腰をかがめ、抜け穴を走る。後ろから、静弍の怒声が聞こえる。
 兄よりも小柄なぶん、穴を抜けるのは阿刀のほうに分があった。
 抜け穴の終端には長持にあったのと同じような仕掛けがあり、隠されている鉄の棒を押すと出口が開くようになっている。
(早く、早く……!)
 どうにか通り抜けられるほどの隙間が開くと、阿刀はその割れ目に身体を滑りこませた。
 祠から飛び出そうとしたところで、襟首を掴まれる。
 反射的にふりはらい、追いついた兄に向きなおる。
 軍刀がふりおろされる。
 杖の中から白刃をするりと引き抜き、軍刀をはねあげる。
 思ってもみなかった妹の反撃に、静弍が一瞬ぽかんとする。
「兄様、止めて……止めて、ください」
「黙れ! 俺に指図を、するな!」
 横薙ぎにふるわれた刃をかろうじて避け、姿勢を低くして踏みこむ。
 足を斬られ、静弍が顔を歪める。
 血濡れの刃先が阿刀の肩を切り裂く。
 青白い肌の上に、血が浮きあがる。
 静弍はそれでも止まらなかった。
 今度こそ阿刀の息の根を止めんと、軍刀をふりかぶる。
 それをするりとかいくぐる。
 細い刃先が、静弍の首筋を裂く。
 鮮血がしぶいた。
 兄が小さく口を動かし、正気にかえった様子で阿刀を見て――事切れた。
「遅かった、か」
 詰襟姿の青年ともう一人、金髪の青年。
 どちらも村で見たことのない顔だった。
 つかのま放心していた阿刀は、この二人の姿を見てぎくりと身体を強張らせた。
「どなた?」
 シドとクジャク。二人はそう名乗った。
 そして、阿刀は兄の乱心の原因――人の感情を喰らう“蟲”の存在と、それを倒すための力を手に入れるかわりに、世界から存在を消された船員の話を聞いた。
 兄は、【劣等感】を喰われたのだという。
 そういえば、数日前から、静弍の様子はどこか妙だった。何かに苛立っているような、何かを耐えているような。
 それから二人に頼みこみ、兄の死骸を家に運んで、阿刀はようやく、その惨劇を知った。
 母屋は血塗れだった。
 両親と長兄夫婦はそれぞれの部屋でずたずたに切り刻まれていた。中でも長兄の遺体はもっともひどく、服でようやく見分けられたほどだった。
 廊下や台所には女中の亡骸があり、血痕は土蔵まで続いていた。お里は、そこに倒れていた。
 それを認めて、阿刀はその場にうずくまった。
 胃の中身を吐き出す。喉がひりついて痛んだ。
 これは――自分が喚んだ凶事か。
 ここにとどまっていては、いつまた自分が凶事の引鉄になるか知れない。
 なぜなら――自分にも、劣等感は確かにあったからだ。
 息を落ちつかせ、立ちあがる。
「契約を交わす方法は、ありますか」
 言うと同時に、目の前に紙と羽ペンが現れる。
「これに署名を。そうすることで、君は世界に嫌われる」
 シドの声。
 羽ペンを取り、名を刻む。

 寄生木 阿刀。

 名を書き終えると同時に、羽ペンと紙は溶けるように虚空に消えた。
「契約はここに成立した。ようこそ、地獄へ」
 阿刀はその言葉に、小さく笑った。


 それからまもなく、寄生木家から響いた悲鳴の原因を確かめに来た村人によって、寄生木家の惨劇は発覚した。
 現場には書き置きが一枚あり、それにはこう書かれてあったという。
『これは自分の招いた凶事である。ゆえに自分は全ての責を負って死亡するものである。 寄生木阿刀』
 しかしそのときにはすでに、阿刀なる人物の姿は何処にもなかった。そもそも、この『寄生木阿刀』という人物のことを知る者は誰もいなかった。
 寄生木家の人間は、当主の辰馬とその妻の鞠子、それに長男の静馬と妻の花、そして次男の静弍だけ・・で、『阿刀』という名の人間はいない・・・
 かわりに何人もの村人が、寄生木家のほうから、見慣れぬ人間が歩いてくるのを見ていた。
 藍色のコートについたフードを深くおろし、大きな革のトランクを提げ、肩に大きな四角いケースを負ったその人物は、黙って道を歩いていったという。
 その人物の行方は、どうしても知れなかった。

 歯車の扉をくぐる。
 荷物の重さに、小さく息を吐いた。
「あれ、新入りさん? ねえ、名前、なんていうの?」
 行きあった女に呼び止められる。
(名前――)
『寄生木阿刀』は殺してきた。それなら、今や『寄生木阿刀』ではない自分が名乗るに適当なのは。
「私――いや、やつがれは、『ミスルトウ』というのだよ」
 ミスルトウ。和訳を『ヤドリギ』。
 もはや自分は、『寄生木』の家名を名乗るに値しない。それでも全く別の名を名乗ることも嫌だった。
 変わった名前ね、と女が笑う。
「うん、やつがれの家は、だいぶ変わっていたからね」
 綺麗に微笑して、阿刀――ミスルトウはそう答え、舟に乗るときに教えられた自分の部屋へと向かった。