笑う女

「全員集まれ、今度の演目の配役を発表するぞ」
 翌日、稽古の後で建新ジェンシンがそう告げた。
 次の興行での演目は『笑う女』。
 王子服おうしふくという若者と、彼が出会った女・嬰寧えいねいの話で、中国に昔から伝わる物語である。
 この演目はこれまでに幾度も演じられ、人気もあるものだった。
 一つ一つ配役が発表され、残るは子服と嬰寧のみとなった。
「王子服はカン、嬰寧は……紅花ホンフア
「え……」
 ぽかんと建新ジェンシンを見返す紅花ホンフアをよそに、周りから拍手が起きる。
「……ワタシ、ですか?」
「そうだ。お前にも嬰寧をるだけの実力は充分ある、やってみろ」
「……はい!」
 知らず、声が弾む。
 これまでは、嬰寧の役はいつも可馨クーシンのもので、紅花は女中の役がせいぜいだった。
 嬰寧の役に憧れることはあったが、可馨クーシンの嬰寧は紅花ホンフアからすればはまり役で、自分がかわって演じるなどと、思ったこともなかった。
(でも……)
 ちらりと横目で可馨クーシンを見る。
 可馨クーシンは青ざめ、こわばった顔で爪先を見つめていた。
「それから、劇の前に可馨クーシン雪花シエフア、二人の演舞をいれることにした。この後説明するから、少し残ってくれ。カン、『笑う女』の台本はいつもの場所に置いているから、紅花ホンフアに渡しておいてくれ」
「わかりました。こっちだ、紅花ホンフア
 カンについて、建新ジェンシンの使っている天幕に行き、台本を受け取る。
「何だか浮かない顔だな、もう緊張してるのか?」
「え? ううん、そんなことないよ、ホラ」
 ぐっと笑みを作る。目を細めて、口角をあげて。
「そういえば、次の清――市には春鈴シュンリンさんがいるよネ。呼ぶノ?」
「姉さんか。呼んでもいいな。甥っこも喜ぶだろうし、後で知らせておこうか」
「あ、そういえば、青娘チンニャンカン兄さんに用事があるって言ってたッケ。ちょっと待ってテ」
「ん? ああ、分かった」
 稽古場に行くと、ちょうど可馨クーシンが出てくるところだった。
青娘チンニャン
「何?」
 声がいつもより尖っているように聞こえて、一瞬たじろぐ。
カン兄さん、座長の天幕にいるヨ。あれ、渡してきたら?」
「あ……そうする! ありがと、紅花ホンフア
 走っていく可馨クーシンの背を、紅花はにこにこと見送っていた。
 その翌日から、清――市につくまで、紅花は毎日稽古に追われていた。
 それゆえ可馨クーシンとはあまり話す時間もなかったが、それでも折に触れて、紅花ホンフア可馨クーシンの鋭い視線を感じることがあった。


 妬ましい。
 どうして彼女が。彼女なんかが。
 あの役も、彼のそばにいる立場も、自分のものであるはずなのに。
 やり場のない感情が渦巻く。
 それを理性で抑えながら、それでもなお、妬ましいと胸の内で叫ぶ声がある。
紅花ホンフアさえ、いなければ)
 白い手が、ナイフを握った。


 清――市での初日の興行は、大成功に終わった。
「お疲れ、紅花ホンフア
 舞台衣装のまま、楽屋がわりの天幕に戻ってきた紅花ホンフアを、可馨クーシンが出迎える。
「慣れてるト思ってタケド、緊張スルネ。いつもやってる青娘チンニャンはすごいネ」
 渡された水をぐいと飲み、ふうっと息を吐く。
「でも、紅花ホンフアもすごく上手だったよ。初めてだとは思えなかったもの。そうだ、明日はもっと上手にできるように、ちょっとコツを教えてあげる。ご飯食べたら、向こうのトラックのところにおいでよ。他の人には内緒でね?」
「わ、ありがと」
 私服に着替えて遅い夕食を取る。
(そうだ)
 天幕を出ようとしたとき、稽古用のヌンチャクが目に止まった。
 後で練習をしようと、ヌンチャクをケースに入れ、腰につけて外に出る。
紅花ホンフア、今日は良かったぞ。明日からもがんばってくれ。ところで、カンを見ていないか?」
「ありがとうございます。カン兄さんは……見ていません」
「そうか、見かけたら、俺が呼んでいたと伝えてくれ」
「わかりました」
 可馨クーシンに言われた場所――興行の道具を積んだトラックの陰――には、誰もいなかった。
「……青娘チンニャン?」
 後ろで、土を踏む足音。
紅花ホンフア!」
 はじめは、何があったのかわからなかった。
 勢いよく突き飛ばされ、尻餅をつく。
 同時に、くぐもったうめき声が聞こえた。
カン……兄、さん?」
「逃げろ……紅花ホンフア……」
「え、でも……」
 カンの足元に、血が滴り落ちる。
 その向こうには
青、娘チンニャン?」
 カンの腹からナイフを抜き、可馨クーシンが彼ごしに紅花ホンフアを睨む。
 苦痛に顔をゆがめながら、カンが横を通ろうとした可馨クーシンを押さえつけた。
 可馨クーシンが怒声を上げ、ナイフをふりまわす。
可馨クーシン――」
 カンの首から、血がしぶいた。
 ぽつりと、空から雨滴が落ちてくる。いつの間にか、空は黒雲に覆われていた。
(人、呼ばないと……)
 雨はすぐに激しさを増し、大粒の雨が叩きつける。
 倒れかかったカンを押しのけ、可馨クーシン紅花ホンフアの眼前に立つ。
青娘チンニャン、なんで……?」
「あんたなんか、いなくなればよかったのに」
 血塗れのナイフがふりあげられる。
 刹那、銃声が聞こえた。
 糸が切れたように、可馨クーシンがその場にへたりこむ。
青娘チンニャン!」
「…………あ、紅花ホンフア、どうした、の……?」
 可馨クーシンの目が、事切れたカンと、手の中のナイフを往復する。
「あ……」
 可馨クーシンの喉から、絶叫が上がった。
「止めろ!」
 どこからか走りこんできた、黒い髪の女が怒鳴る。
 しかしそれより一瞬早く、可馨クーシンはナイフを己が喉にあて、横に引いていた。
 紅花ホンフアの顔に、温かいものがかかる。
 人の声が近付いてきたのに気付き、紅花ホンフアはとっさに、可馨クーシンの手からナイフを取りあげた。
 彼女にこれを持たせてはいけない。
「どうした、一体何の――」
 座員の一人が顔を出し、その場に広がる光景に絶句する。
 誰も動かないその隙をついて、紅花は立ち上がり、身をひるがえして走り出した。
「待て!」
 声にかまわず走り続ける。
 しばらく後、紅花の姿は街中の路地裏にあった。
 息を切らせ、地べたに座りこむ。
 パトカーのサイレンが聞こえてくる。自分を探しているのだろうか。
 全身が濡れ、髪は顔に貼りついていたが、寒さは感じていなかった。
「っと、こんなところにいたか」
 声のほうへ顔を向ける。顔に大きな傷のある女が一人でこちらへ歩いてくるところだった。
 紅花ホンフアをじっと見、女は眉間に深くしわを刻む。
「んー……違う、よな?」
「何が、違うの?」
 女は少し黙ってから、こっちに来い、と手招いた。
 近くの建物の軒下で、女――古谷杏から話を聞く。
 人の感情を喰らう『蟲』。それに喰らわれた人間は、負の感情が暴走し、様々な事件を引き起こすこと。『蟲』を認識し、倒すことができるのは、契約した人間だけで、契約した人間は即座に世界からいないものになること。
「それじゃ、可馨クーシンも?」
「ああ、悪ぃな、もうちょっと早く気付いてたらよかったんだけど」
 そのとき、表の方から、悲鳴が上がった。
 雨の中、女が二人、罵り合いながらもみあっている。
「……当たりか、くそ、こんなときに!」
 言いながら、杏が飛び出していく。
 つかみ合っている二人の姿に、可馨クーシンカンが重なる。
(また、死ぬの?)
 脳裏をよぎる、鮮やかな赤。
 それは、嫌だ。
 これ以上、誰かが死ぬのは嫌だ。
 それが家族一座の誰かなのは、もっと嫌だ。
 そう思ったのとほとんど同時に、目の前に紙と羽根ペンが現れる。
「契約したいなら」
 杏の声が、耳に届く。
「それに自分の名前を書け」
 杏の腕から、ぱっと血が飛んだのが見えた。
 羽根ペンに手を伸ばす。
紅花ホンフア
 一瞬、何もかも与太話かと思った。しかし、その疑念はすぐに晴れる。
 紫色のもやが、騒ぎの中心にいる二人の女にまとわりついていた。
 その陰に、バッタのような蟲が見えた。
 女のうち一人の注意が、紅花ホンフアに向く。
 とっさにケースからヌンチャクを抜き、地面を蹴って飛び上がり、迫ってくる女の肩を蹴って、一息に蟲との距離を詰める。
 そのままヌンチャクをふると、蟲はあっさりと霧散した。


 翌日、町では興行に訪れた旅芸人の一座が何者かに襲われ、座員が殺されたというニュースでもちきりになっていた。
 可馨クーシンを襲った蟲は、嫉妬を喰らう蟲であったという。
 建新ジェンシンのもとへ、見知らぬ娘から白い菊の花が届けられたのは、葬儀の日の午後のことだった。


 話を終え、紅花ホンフアはひとつ息を吐いた。
「それは……大変でしたね」
 口調は静かに、けれども面は固くして、スーが言葉を落とす。
「大変でしたね──って、いつもなら言うところ、なんですけども……。何なんでしょうね、うまく言えないんですけど、本当に、本当に意味がわからない」
スー?」
 いつも穏やかなスーが、いつになく苛立っているように思えて、紅花ホンフアはきょとんと赤い目をしばたたいた。
「あ、これ、紅花ホンフアさんや一座の方々は関係ありません。ただ……今の私、すごく憎い人がいて、話を聞いてたら、なんだか思い出してしまって……。無性に腹が立って……今蟲がいるなら八つ当たりしたいくらい。……もしかしたら、何かできたんじゃないかって……ああしていれば、助けられたんじゃないかって……思って……勝手に、こんなこと言ってすいません」
 ううん、と首を横にふる。
「あの……可馨クーシンさんのこと、今はどう思ってますか?」
「親友」
 迷いはなかった。
 たとえそれが一方的な感情だったとしても、ずっと可馨クーシンからは妬まれていたのだとしても、紅花ホンフアにとって、可馨クーシンは親友だった。
「とても、仲が良かったんですね」
 そうネ、と紅花ホンフアはうすく笑った。


「気になることがあるんだが」
「うん、何? 何か変なものでも入ってた?」
 不意にカンが口を開いたので、杏は作ったばかりの野菜炒めを食べる手を止めて正面に座るカンを見た。
「いや、料理の話じゃない。……紅花ホンフアのことだ」
紅花ホンフアの?」
「ああ。……ずっと何かを隠されているような気がしてな」
 ふうん、と、杏が肯定とも否定ともつかない声を出す。
「心当たりは?」
「ない」
「なら本人に聞くのが手っ取り早いんじゃないか?」
「聞いたことはあるが……別に、と。しかしどうにも、本当とは思えない」
「まあ……ここんとこ紅花ホンフアの様子がおかしいとは思ってたけど。本人が話さないんなら、無理に聞かないほうがいいんじゃないのかい?」
「それはそうだが……やはり気にかかる」
 それが悪い結果を呼ばないかどうか、気になるんだ、と、カンは顔を曇らせて付け加えた。

 

 

 船がフランスに停泊すると案内があったのは、この数日後だった。