胡蝶の夢

 ざわざわと、喧騒が耳に届く。
 人の多い広場。
 地元の住民か、それとも観光客か、目の前を大勢が行き来する。
 今回の停泊地はロシア。
 季節としては夏だが、北の大地の空気は涼しい。それに湿度も低いせいか、蒸し暑くなくて過ごしやすい。
 ベンチに座り、ミスルトウは目の前を通る人々を眺めていた。
 夏だというのに長袖のローブを着、フードを深くおろして口元だけがのぞいているミスルトウを、近くを通る人々がちらちらと見る。
 もっとも当の本人は、それを気にする様子など欠片もない。
 ふわりと近くの屋台から、いい匂いが漂ってくる。
 そちらに顔を向ける。
 フードの下からじっと目を凝らし、ピロシキの屋台が出ているのを見つけた。
 船員には食事は不要とはいえ、美味しそうな匂いにはつい誘われる。
「いらっしゃい。……ずいぶん変わった格好だね?」
「うん、実家のしきたりでね」
 様々な種類のピロシキから、煮たりんごが入ったものをひとつ買う。
 ベンチに座り、頂きます、と手を合わせてピロシキをかじる。
 火が通ったりんごはとろりと甘い。
 舌にはあまり馴染みのない味だが、甘くて美味しい。
 ゆっくりと食べながら、周囲に目を配る。
 今回の蟲は“執着”。
 大型の蟲や様々な種類の蟲が確認されている、と、外に出る前に見た船内の掲示板に書かれていたのを思い出した。
(大型、とはまた)
 フードの下で、眉をひそめる。
 ロシアは国土が広いぶん、多種の蟲が発生するのだろうか。
 ピロシキの最後のひと切れを飲みこみ、御馳走様でした、と手をあわせたとき、
「すみません、隣、座ってもいいですか?」
「どうぞ」
 大荷物を抱えた若い男が、大きく息を吐いて腰をおろす。
 薄茶の髪にはしばみ色の目。
 黒縁の、度の強い眼鏡をかけている。
 もう一度息を吐き、汗を拭った男は、ちらちらとミスルトウに視線を向ける。
「そんなに珍しいかな? ……珍しいか」
「あ、す、すみません!」
 男がぱっと目をそらす。
「気にすることはないよ。やつがれの外見が珍しいのは承知しているし、見られることには慣れているからね」
 自分の外見は衆目を集めるものだとは、重々承知している。
 好奇の視線を向けられるのも、二度や三度ではきかない。
「観光ですか?」
「まあ、そんなところかな。此方こなたは買い物かな?」
「ええ、つい買いすぎてしまって」
 言いながらも、男の声は笑いを含んでいる。
 よく見れば、男の買い物は菓子や子供の服、それに子供靴のようだ。
 地面においた荷物から、それらしいものがいくつものぞいている。
「お子さんへの買い物かな?」
「え? ええ、そうなんですよ」
 男の声が弾む。
「いくつになるのかな」
「もうすぐ二歳になるんですよ」
「それなら可愛い盛りだね。男の子? 女の子?」
「女の子です」
 本当に可愛いんですよ、と男はポケットから何やら取り出して少しの間触ってから、それをミスルトウに向けた。
 スマートフォン、というものだったか、と思いつつ、画面に目をやる。
 子供用のサマードレスを着た、茶色い髪の子供が写っていた。
 目元のあたりが、隣に座る男によく似ている。
「可愛らしいお嬢さんだね」
「そうでしょう?」
 他にもあるんですよ、とさらに何枚か写真を見せてもらう。
 男はエフィム・グローニン、娘はヤーナというそうだ。
「奥さんは?」
 何気なく口にした問いに、エフィムは顔を曇らせる。
「娘を産んで、すぐに」
「……失礼」
「いえ、そろそろ帰って準備をしなくては。失礼します」
「うん、お嬢さんによろしく」
 エフィムが軽く頭を下げ、荷物を抱えて立ちあがる。
 それを見送りながら、少し、子供ヤーナが羨ましくなった。
 自分が産まれたときには、親はきっと、喜ぶよりも落胆したか、あるいは恐怖しただろう。
 白い子供は忌み子だと。
 今の世の中では、何の根拠もない迷信だと断じられる事柄。
 だが、あの時代のあの場所では、その迷信は生きていた。
 軽く頭をふる。
 今更言ったところではじまらない。
 確か、この広場の近くには大きな百貨店があったはずだ。
 せっかく近くまで来たことだし、たまには買い物でもしてみようか。
 蟲が確認されたとはいえ、今のところは蟲の姿も、喰われたらしい人間の姿もない。
 そう思って、ミスルトウは百貨店へと足を向けた。