胡蝶の夢
頬に、固いものが触れている。
肌に触れる空気は冷えていた。
ゆっくりと身体を起こす。身体のあちこちが軋みをあげた。
どうやら、死んだわけではないらしい。
頭がくらくらして、思わず顔をしかめる。
周りは暗い。
手探りで壁を探し、そのまま立ちあがる。
そのまま壁を探っていると、スイッチのようなものが指先に触れた。
それを押すと、ぱっと周囲が明るくなる。
その眩しさに、ミスルトウは思わず目を閉じた。
しばらくして、そろそろと目を開け、自分の現状を確かめる。
石造りの小部屋。
天井への階段が伸びているのを見るかぎり、地下室なのだろう。
一隅には、古そうな本やスクラップブックが積みあがっている。
題を見るかぎり、黒魔術の本らしい。
一番上にあったスクラップブックを取り、頁をめくる。
『――通りで事故発生 幼児が死亡』
――■■通りで■日、飲酒運転の車が歩行者の列に突っこみ、■人が死傷する事故が発生した。
――この事故で、一歳のヤーナ・グローニンちゃんが即死。
記事に添えられていた写真は、確かにエフィムに見せられた、あの子供のものだった。
天井から、軋む音。
足音が、ゆっくりと階段をおりてくる。
「……見たのですね」
氷のような声だった。
「見たね」
ミスルトウも淡々と答える。
ふりかえって見たエフィムの顔は、緑の斑点が斑になっていた。
ぐいと腕を引かれ、階上に連れて行かれる。
どうやら、もう夜になっているようだ。
窓の外から月光がさしこみ、窓硝子に屋内が映っている。
リビングの奥のドアを、エフィムが開く。
同時に、ずっと感じていた甘ったるい臭いが強くなった。
思い出した。
この臭いは――死臭だ。
部屋に連れこまれる寸前、壁に立てかけられていた自分の杖を、ミスルトウは素早く手に取った。
奥の部屋は、子供部屋らしい。
ベッドの上には、白いドレスをまとった、小さな骸が寝かされている。
部屋は室温が低く、他の場所よりも多くの消臭剤が置かれていた。
「娘さんかな」
「……そうです。妻が死んでから、この子は私の全てだった!」
亡骸には、おそらくは葬儀屋の努力であろう、修復の跡がうかがえた。
「それで、僕にどうしろというのかな」
「娘をよみがえらせる、贄となってください」
エフィムがベッドに近寄り、亡骸を優しく撫でたあと、サイドテーブルに置かれた香炉に火を入れる。
「つまり、僕に、死ね、というのかな」
「……そう、です」
香の匂いが、死臭と混ざりあって鼻を刺す。
わずかに顔をしかめたものの、ミスルトウの面上にはそれ以外の動きは現れなかった。
「死者が生き返ったとき、彼らが一番望むことは何か――わかるかい」
静かに投げかけられた言葉に、娘の身体をそっと抱きあげたエフィムは、
「生きることを望むのでしょう」
震える声で、そう答えた。
「いいや」
赤い瞳がきらりと光る。
「死を――望むのだそうだ。死者にとって、此岸は耐えられない場所なんだよ」
「嘘だ!」
エフィムの顔に、斑点が増える。
その後ろに、蟲がいた。
普通に蟻と聞いて浮かべるものよりも、飛び抜けて大きい蟲。
それを認め、ミスルトウが杖を構える。
「それに、今のままではその子が可哀想だ。その子がいるべき場所はここじゃない。何より――此方が嘆いてばかりでは、その子が苦しむことになるよ。僕の国では、親より先に死んだ子供は、親を悲しませた罪で――地獄に落ちるのだ」
「嘘、だ。こ、子供が、この子が、地獄になど」
――一重組んでは父のため
不意に、誰のものともつかない声が聞こえてきた。
弱々しい、幼児のような声。
青ざめたエフィムが部屋を見回す。
――二重組んでは母のため
「だ、誰だ!」
絞り出すような、裏返った声でエフィムが叫ぶ。
響く声の調子が変わった。
――やれ汝らは何をする
おどろおどろしい、唸るような声。
――娑婆に残りし父母は
――追善供養の勤めなく
ひい、とエフィムが娘を抱いたまま、笛のような声をあげて腰を抜かした。
――親の嘆きは汝らの
――苦患を受くる種となる
足音もなく、ミスルトウが一歩近付く。
少し捻りを加えて抜き打った杖の中から、玉散る刃が滑り出た。
娘を庇うようにかき抱いたエフィムの横をすり抜け、蟲へ向けて白刃をふるう。
一閃。
それだけで、蟲はあっさりと霧散した。
「それに、魔術に僕なんかを使っちゃいけないよ」
呆然としたエフィムの背後から、ミスルトウは穏やかに声をかける。
「僕がアルビノだから、黒魔術には最適だと思ったのだろうけど――僕は忌み子だからね」
部屋を出ていこうとするミスルトウを、エフィムは止めなかった。
そもそも、見えていなかったのかもしれない。
「そうだ、上着、乾かしてくれて有難う」
乾燥機の中からローブを取り出して袖を通す。
いつものようにフードを深くおろし、テーブルの上のハンカチを取りあげて、ミスルトウは静かに家を出た。