蛭子堂という人間について、その人となりを知る者はそう多くない。
他人に与えうる第一印象としては、まともでない、とか胡散臭い、といったあたりだろう。まず風体からして胡乱である。
糊のきいた白いワイシャツに黒い、細いネクタイ、黒い細身のスラックスはよいとして、その上に羽織っているのはジャケットではなく着物――たいていは訪問着である。
肌の色は白いほうで、それも病み上がりを思わせるような青白さである。
長い白髪を結い上げて右のひと房だけ肩へ垂らし、両手に黒い革手袋をはめ、右手の五指にはそれぞれデザインの異なる銀の指輪をはめている。
細面に切れ長の目をしており、左目は髪で隠れ、右目は菫色をしている。鼻が高く、唇が薄く、どこか儚げで気弱そうに思われる面立ちだが、それでいて凛としたその瞳は当人の意志の強さをあらわしているようだ。
この蛭子堂が営んでいる店こそが本来の〔蛭子堂〕である。
〔蛭子堂〕は俗に言う『何でも屋』である。失せもの尋ねもの、恋愛成就から口には出せないような頼みごとまで、店主が承諾したことならそれがたとえ法に反するものであっても叶えてくれるという噂である。
それなら店はさぞ繁盛している、と思いきや実際は真逆で、店は年がら年中閑古鳥が鳴いている。
なにせこの店があるのは表通りを外れた裏路地で、加えて店の外観がとうてい客商売をしているとは思われない。建物そのものが古いうえ、一階の通りに面した窓には数年前の催しのポスターが貼られたままになっている。四隅を留めているセロハンテープは変色し、今にも剥がれ落ちそうになっている。そうでなくとも窓硝子は土埃かなにかで曇っており、中を覗くことはできない。
建ったばかりのころは白く塗られていたであろうドアはところどころペンキが剥げ、木地がむき出しになっている。
少しでも力を入れて引っ張ればあっさりともぎ取れてしまいそうな金属製の楕円のドアノブの上方、おおよそひとの目の高さのあたりには、珍しいものがかけられている。狂言で使われる恵比寿面である。
ドアのそばには『蛭子』と記された木製の古い表札がかけられており、これが出ているときは店が開いているということになる。
つまりは外装が民家だか店舗だかわからないうえ、そもそも店とは考え難い構えであるので、客が来ないのも道理であろう。
客が来ないのだから、店主は年中おそろしく暇である。それにこの店主は商売気が薄いようで、店を空けては昼間から表通りの喫茶店で茶を飲んでいたり、リサイクルショップや骨董屋をまわっていたりする。店が目立たないのとは逆に、一風変わった風体のうえ、左足が不自由で杖をついている店主はおおいに人目を引く。
今日は朝から天気がぐずついているせいか店主は店におり、奥のカウンターに頬杖をついてクロスワードパズルの雑誌を広げている。
蛍光灯で照らされていながら店内はどこか薄暗く、物置とでも形容するのがしっくりくるほど物が雑多に置かれている。アンティーク調の一人がけのソファや木製のスツール、低いガラス天板のテーブルといった家具や古い置き時計、金属製の本を読む猫の置物、積み重ねられた洋書を模した収納箱など、興味のおもむくまま無作為に集めたといったふうである。
入り口から見て左手には茶器やグラス、小皿と電気ポットが納められた戸棚がある。
「御前、お茶はいかがですか」
戸棚から湯呑を取った若い男が店主に声をかける。
黒髪を耳の下あたりで切りそろえた、紺の作務衣を着た青年である。右の人差し指には「蛭」の一字が彫りこまれた金の指輪がはまっている。
冷ややかな雰囲気の、表情にとぼしい青年だが、店主に声をかけるときにはその雰囲気が和らいだように思われる。
ちょうど、縦のカギの最後のひとつに当てはまる単語を万年筆で書き入れていた店主は、んー、と生返事をして顔を上げた。
「なあに、信乃?」
「お茶はいかがですか、御前」
御前、という時代がかった呼び方に苦笑しつつ、もらうよ、と店主が答える。
やがて信乃は緑茶の入った湯呑と饅頭の乗った皿を運んできた。
相好を崩して饅頭を頬張る店主を見、信乃もつりこまれて口元をほころばせる。
皿が空になり、店主が再び雑誌に目を落としたとき、
「あの……」
小さな、おずおずとした声とともに、緑青の浮いたドアノブがカラン、と鳴った。
「やあ、いらっしゃい」
頬杖をついたまま、店主が声を投げる。
客は焦茶のブレザーにチェックのスカートをはいた少女で、その服装を見るに近くの私立高校の生徒らしい。
「ここ、何でも願いを叶えてくれるって聞いたんですけれど」
「うん。さて、何がお望みかな?」
「望みっていうか……財布、失くしちゃって。見つけてもらうとか、できますか?」
長い黒髪をいじりながら、少女が店主を見る。
「まあ座って。財布ね、どれくらい使ってるの? ああ、だいたいでいいよ」
「えっと……三年、くらい」
「三年か。なら大丈夫か。どんな財布?」
「赤い二つ折りの財布で、あ、金のハートがついてる」
「失くした場所とかの心当たりはあるかな」
「たぶん、駅前のバス停あたり……バスに乗る前はあったけど、降りて飲み物買おうとしたら無かったから……。でも駅前の交番には届いてなかったって……」
内容を書き留め、ふむ、と店主が腕を組む。
お茶をどうぞ、と信乃が茶を淹れて持ってくる。そわそわと髪をいじっていた少女は一瞬ぎくりとして、小さく頭をさげた。
「よし、それじゃお嬢さん、これに名前と誕生日を書いてくれるかな」
「はい、でもあの……」
「うん?」
「お金、いくらくらいかかりますか? あんまりお金持ってなくて……」
「ああ、そうだねえ……。そこまで手数がかかることでもなさそうだし、路地の入口に自販機があったろ。あそこで水でも買ってきてくれればいいよ。物探しなら、うん、特にこっちから言うこともないしね。信乃、後は任せるよ」
書付を信乃に渡し、店主は二人を送り出した。
しばらく後、
「戻りました」
「お帰り。その様子だと見つかったかな」
「はい、市営バスの営業所にありました。バスの中に落ちていたようで」
お疲れ様、とねぎらいながら、店主は先の紙を黒い革張りのファイルにとじこもうと格闘している。どうやら店主は左手も不自由らしく、紙がうまくファイルにおさまらないらしい。
「私がやりましょうか」
「いや、大丈夫……うん、これで良し、っと。特に変わったことはなかったかな。三年くらいなら付喪神になってるってことはまあないと思うけど」
「ええ、特に何も。ところで御前、しばらくどこかで静養されてはどうです。休養すれば少しは手も良くなるんでしょう」
「そうしたいところではあるけど。五百子みたいに新しい付喪神が増えるかもしれないし、まあそれはいいんだけど、前みたいに厄介事に巻きこまれちゃたまらないからね。名前なんかとっくに捨てたのに、名前が売れてるのもおかしな話だけどね」
何でも屋〔蛭子堂〕の店主、名を知られていないがゆえに屋号で呼ばれるこの人物は、その筋の者には単なる店主ではなく、呪術師として知られている。その腕は、巷でこうささやかれていることでも察せられるだろう。
――その気になれば、国さえ己の意のままにできる。
もっとも当の本人は、この噂を肯定したことは一度たりともない。むしろ私欲で呪術を使うことを禁忌としているふしさえある。
唯一この店主が己のために使っているのは、付喪神を使役する術くらいである。
〔蛭子堂〕に、店主以外の人間はいない。店主以外で人の姿をとるものは全て、年経た器物が成るモノ――付喪神である。
この世界において、付喪神はなんら珍しい存在ではない。様々な形で人間と関わる付喪神がおり、人間もまた、各々のやりかたで付喪神と関わっている。〔蛭子堂〕店主もそうした人間の一人だった。
「さて、今日はそろそろ店じまいかな」
信乃がそれを聞いて外に出、表札を外して持ってくる。表札を受け取って懐に入れた店主は、カウンターの後ろに並ぶ戸棚のひとつに手をかけた。
がらりと戸棚の一部が横にずれ、人が一人入れるほどの隙間が開く。その空間には急勾配の階段が見える。
踏み板が狭く、蹴上が高い階段を、店主がゆっくりと登っていく。
店主が階段を登りきったのを確かめて、戸棚を元のように閉めた信乃も、するすると階段を登っていった。