時計が夜の七時を告げる。 「出て行け!」 「ええ、出て行きますとも! こんな家、もう一秒だっていたくないわ!」 荒い足音が、部屋の前を横切る。 少年はそっと部屋を出て、足音の主を追った。 鞄を提げ、コートを着た女が、玄関で靴をはいていた。 「ああ、さん?」 「来ないで!」 女にヒステリックに怒鳴られ、少年は足を止めた。...
繰り返す。 繰り返す。 放課後の校舎。 物陰から、廊下の様子を観察する。 廊下にいるのは男子生徒が一人。他に人影は無い。 よし、と内心で頷いて、五百円玉を弾く。 硬貨は放物線を描き、男子生徒の後ろに落ちた。 繰り返す。 繰り返す。 同じ本を何度も読むように、同じ日常を何度も繰り返す。 迷宮に入って、何日経っただろうか。...
表通りを一本外れた路地裏に、一軒の店がある。 最も、それが店だと知らなければ、誰も店とは思わないような構えである。 土埃で曇った窓には中から大判のポスターが貼られ、店内の様子は見て取れない。 ポスターも数年前のイベントのもので、四隅を留めているセロハンテープは今にも剥がれ落ちそうになっている。...
ガタン、と物が倒れる音がした。 音の出処がすぐそばの四二六号室だと気付き、居合わせたスタッフの片岡由依と支配人の稲島克也とうじまかつやが顔を見合わせる。 「また――」 「しっ」 何か言いかけた片岡を支配人が制した直後。 めき、と。 続けざまに、物がへし折れる音が響いた。 ※ ※ フィンランド村駅。...
ぱたぱた。 ぱたぱた。 足音が聞こえる。 ぱたぱた。 ぱたぱた。 視界に茶色い毛皮が見える。 荒い呼吸音が聞こえる。 背中をぬるりと何かがつたう。 汗。汗のはずだ。 「次の問五は――風切」 はい、と答える自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。 「風切? 大丈夫か?」 「……はい」 ちゃりちゃりと、鎖を引きずる音。 手に力が入る。...
新学期が始まって数日。まだ打ち解けていない生徒もいれば、すでに打ち解けている生徒もいる。 教室でも昼休みに何人かがグループを作り、楽しげに話している。 「智樹ん家も犬飼ってんの? 見たい見たい、写真ある?」 「うん。えーっと、あ、あった、これ」 「わー! ゴールデンだ、かわいい!」...
箱猫市の駅前にあるカフェ〔prunier〕。 ドアを開けると、店員の「いらっしゃいませ」という声が飛んでくる。 「お一人様ですか?」 「いえ、連れが先に来ているはずなんですけれど……」 言いながら、店内を見回す。 店の奥の席に座っていた白髪の青年が、私を見て手をふった。 「遅くなってごめん、縫君」...
ピピピ、と電子音が鳴る。 『37.7℃』 デジタル数字が示す体温は、平熱よりも二度ほど高い。 今日は日曜で病院は休みだから、病院に行くなら明日だ。 診察券と保険証は居間の箪笥の中、一番上の右端の引き出し。よし、大丈夫。 冷えピタと解熱剤は冷蔵庫の上の救急箱の中。これも大丈夫。...
その日の朝は、夜が明ける前に目が覚めた。 枕元の目覚まし時計は、いつも起きる時間より一時間以上早い時刻を示している。 ベッドにもぐりこんでも、眠気は戻ってこない。 結局寝るのを諦めて起きだして、台所へ行く。...
カーテンが閉められた薄暗い部屋の中で、四角い光がわずかにその周りを照らしていた。 光源は、リビングテーブルの上に置かれたスマホである。 メッセージアプリから、新着メッセージの通知が届いていた。 ソファで腕を枕にとろとろと微睡んでいた佐伯縫は、その通知音で目を覚ました。...