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風切 零SS 非日常的日常 #7

 学校からの帰路、風切零の姿は自宅近くの公園にあった。
 ベンチに腰かけ、暇つぶしにスマートフォンをいじる。
 そろそろ黄昏時で、普段ならもう帰宅しているはずの零が公園で時間を潰しているのにはわけがある。
 こちらもいつものように写真部の活動をすっぽかして下校し、家の近くまできたとき、零は隣家の前で犬を連れた人影が隣家の主婦と話しこんでいるのを見かけた。
 犬を連れているのは、自宅から少し離れたところに住む尾上という中年の女であることを零は知っていた。
 尾上の飼う犬はフクという秋田犬で、何故か零を見ると親の仇のように吠え立てる。そのせいか、尾上は零がこっそりとフクに何かしているのではないかと思っているようで、たまに零と道で出会うとぎろりと鋭い視線を向け、時には刺々しい嫌味を言うこともある。最も、犬という犬がとにかく苦手で、近寄ることはおろか見ることさえ嫌う零がちょっかいを出すわけはない。
 遠目にうかがうかぎり、どうやら二人はずいぶん話が弾んでいるようで、中々尾上が立ち去る様子はない。
 そんなわけで尾上の家とは逆方向にあるこの公園に逃げてきた零は、そろそろ家に入れるだろうかとベンチから立ち上がった。
 そのとき、ポケットに入れたスマートフォンから着信音が鳴り、零は慌ててスマートフォンを取り出した。
 メッセンジャーアプリの着信画面に、『風切弘海ひろみ』と父の名が表示されている。
「もしもし?」
「あ、零か? 俺だけど」
「うん、何?」
「実は――」
 ぷつりと電話が途切れる。
 何か操作を間違っただろうかと思っていると、再び父から着信があった。
「もしもし? 悪い悪い、ちょっと電波が弱かったみたいで。それで、実は出張の期間が伸びてな、多分今年いっぱいはまだこっちにいることになりそうなんだ」
「そうなの?」
「ああ。ただ、ちょっとまとまった休みが取れたし、日本でやらないといけないこともあるから、二月いっぱいはそっちに帰るよ」
「母さんも?」
「いや、こっちでも仕事があるから今回は俺だけ。あ、でも今度! 今度は二人で帰るから!」
「うん、わかった。いつくらいに帰ってくる?」
「ええと……来週の水曜日の昼ごろ……だからお前は学校か?」
「うん。何か用意しておくものある?」
「うーん……あ、朔花堂のどら焼き買っといてくれ!」
「うん、わかった」
 それじゃ、と通話を終えた零は、口元に笑みを浮かべた。黄昏学園への入学が決まったと同時期に両親の海外出張も決まり、零はかれこれ二年近く一人で暮らしている。以前に一度帰ってきたことはあったのだが、それも二、三日という短い期間で慌ただしくすぎていった。
 鼻歌混じりに、弾むような足取りで家に帰る。幸い立ち話も終わったらしく、家の周りには誰もいなかった。
 正確にはハロウィン以降、家の前に軍人らしい霊は佇んでいるのだが、零にとってはそれも見慣れた日常風景である。
 視界の端で軍人を捉えたとき、
(……?)
 ふと、脳裏に覚えのない光景がよぎる。
 南瓜を被って歩く人影。
――トリック・オア・トリート。
 目の前で燃える南瓜頭の人影。
(何だっけ、これ?)
 よく思い出そうとしても、夢を思い出そうとしているようで、よぎった光景はすぐに曖昧なものになっていく。
 ちらりと訝しげな色を浮かべたものの、その色はすぐに喜色にまぎれて消え去った。


 父親の帰国が翌日になった日、零は学校帰りに朔花堂に立ち寄った。この店のどら焼きは父親の大好物なのである。
 零の家と朔花堂とは方向がまるで違うので、学校帰りに寄るとかなり遠回りになるのだが、今日の零にとっては些細なことである。
 どら焼きの箱が入った袋を提げて、やや小走りに道を歩いていると、
「おや、風切君。どうしたんだ、こんなところまで」
 同じ解決部の榎本沙霧が首を傾げて立っていた。
「あ、榎本さん。明日父さんがドイツから帰ってくるから、買い物してたんだ。ここのどら焼き、お父さん好きだから」
「そうか、すると風切君のお父さんは普段はドイツにいるのか?」
「うん、わたしが高校入るくらいのときに出張が決まったんで、普段は母さんとドイツにいるんだけど、久しぶりに休みが取れたんだって。うちの親、昔から出張多くて、特に海外だと二、三日帰ってこられればいいほうだったから、一ヶ月もこっちにいるの久しぶりなんだ」
「それは良かったな。風切君のご両親は何をしているんだ?」
「二人ともM――って商社に勤めてるんだ。なんか、ドイツに支店ができたみたいで、去年からそれ関連で出張してる」
「そうなのか。……ああ、引き止めて悪かったな」
「ううん。それじゃ榎本さん、また明日」
 榎本と別れ、駆け足で家路につく。茜色の景色の中、黒い影が後ろに長く伸びていた。

 翌日。
 学校から帰ってきた零はいつものように、鍵を回してドアを開けた。
 玄関には男物の革靴があり、零はそれを見て口元をほころばせ、ただいま、と中に向かって声をかけた。
 パンパンとラップ音が響く中、お帰り、と声がかえってくる。
「父さん! お帰り!」
 ぱたぱたと居間に走りこんだ零に、居間にいた風切弘海ひろみがにこりと笑いかける。
「ただいま。学校はどうだ、楽しいか?」
「うん。母さんはどうしてる?」
「母さんも元気だぞ。着替えておいで」
 はーい、と自室に戻り、私服に着替える。
 そのとき、スマートフォンから何かの通知音が鳴った。
(何だろ?)
 スマートフォンを取り上げる。ロックを解除すると、メッセンジャーアプリからの通知と、解決部の掲示板からの通知だった。
 メッセージは母親からで、
――元気ですか? お父さんにあんまりお酒を飲みすぎないように言っておいてね。
 掲示板には依頼が二つ。通常の依頼と迷宮の依頼。
 依頼に一通り目を通して降りていくと、父はどら焼きをかじっていた。
「やっぱりこれだな。お前も食べるか?」
「うん、ひとつ貰うね」
「今日はどうする。せっかくだし、どこかに食べに行こうか」
「ほんと? やった!」
 ぱっと相好を崩した零に、父も目を細めて笑い――ふとその顔を引き締めた。
「ところで育子さんから聞いたけど、何か新しい部活に入ったんだって?」
「え、うん」
「どんな部活なんだ?」
「んー、色んな人の手助け? 探しものしたりとか、そんなのだよ」
「ああ……なんだ、育子さんがあんまり深刻なこと言うから、危ないことでもしてるのかと心配になったよ」
「しないよ、そんなこと」
 思わず口を尖らせる。
「育子さんも心配なんだろうよ。お前なら大丈夫だろうけど、ま、あんまり危ないことはしないようにな。夜はどこで食べたい?」
「どこでもいいけど、父さんは?」
「俺はビールが飲めるならどこでもいい」
「何それ。向こうで飲んでるんじゃないの?」
「いやあ、母さんが厳しくて。たまには飲みたいんだよ」
「母さんがあんまりお酒を飲みすぎないようにって言ってたよ」
 言いつつ、零は駅前のファミリーレストランの名を挙げた。父親も二つ返事で承知し、二人で駅前に向かう。
 好きなものを選べ、という父親に甘え、ドリアとハンバーグプレートを頼む。父も向かいで唐揚げ定食とカキフライ、和風ハンバーグとビールを頼んでいる。
「父さん、相変わらずだね」
「お前もな」
 互いに学校でのことやドイツでの話を語る。話が尽きるより先に、皿のほうが空になった。
 その帰り道でのことである。
「なあ、零。どうだ、一緒にドイツに来ないか?」
「え?」
「いや、元々は一年だけの出張のつもりだったんだけど、どうも会社のほうで出向になりそうだし、それならいつ日本でまた働けるかよくわからないからな。それにハロウィンのときに何かあったんだろ? 一人で住まわせておくのはよくないって育子さんにも言われたし、それならお前も連れてきたほうがいいんじゃないかって母さんとも話しててな。ドイツの新学期は八月からだから、夏休み前に向こうの学校に入ることになるけど……いや、すぐ答えてくれって話じゃないんだ。まあ、考えておいてくれないか」
 うん、と答えたものの、零の顔はふと陰った。