〈狩人〉への思い
キロンがいなくなると、部屋はつかのま静まりかえった。
「そうしていると、手が痛まないか」
注いだ紅茶を飲みながら、ネミッサがロストの手に目をやり、今の空模様でも訊ねるかのような調子でそう聞いた。
「手?」
言われたロストは、膝の上に置いていた手を見下ろした。全く意識していなかったが、彼の右手は、筋が浮くほどきつく握りしめられていた。
力を抜き、手を開く。掌には、爪の痕がくっきりと残っていた。認識してようやく、ずきりと掌が痛む。
「大丈夫ですか?」
「ああ、たいしたことないよ」
意地っぱり、と不機嫌な声が部屋の片隅から飛んできた。
犬と遊んでいたジュリウスが、きっとロストを睨んでいる。ロストがふりかえると、ジュリウスはぷいとそっぽをむいた。
ジュリウスがへそを曲げている理由は、ロストにも察しがついている。
二人の間のささくれだった空気に気付き、何があったのかとネミッサが訊ねる。
「昨日、あれからちょっとな」
「あの、ロストさん。なぜ、〈狩人〉になったのですか?」
「そうだな……悪魔崇拝者を許せない、というのはあった。周りはジュリウスを殺された復讐だと思っていたかもしれないが……実を言うとそのことは、かなり長い間忘れていたんだ」
「忘れていたんですか?」
「ああ。覚えておきたくない記憶だったから、無意識に記憶を封じていたんだろう、と言われたよ」
脳裏にかつての凄惨な光景がよみがえり、ロストは思わず顔をしかめた。
「それでも悪魔崇拝者のことはずっと憎んでいたから、家族と縁を切ってでも、〈狩人〉になると決めていた。〈狩人〉はその仕事として、人を殺さなければならない。だから〈狩人〉を疎んでいる人間もレピシヴァンにはいる。……まあ、〈狩人〉になるから親子の縁を切ってくれと言ったら、親父にぶん殴られたがな」
「殴られたんですか」
「それで縁を切ると思っているのか、自分を追い詰めるような真似をするな、とな」
ふと口元をゆるめたロストだったが、すぐに真面目な顔になった。
部屋の隅にいたジュリーが近付き、ロストの膝にひょいと前足を乗せる。
小さく笑ったロストは、軽くその頭を撫でてやった。
「俺が戻るときには、お前をどうしような」
「つれて帰れるものかどうか、聞いておこうか。ずっと世話をしていたんだ、ここで離れるのも辛いだろう」
「頼む。もしつれて帰れるんだったら、中央で一緒に暮らそうか、ジュリー?」
「家を出るのか?」
「ああ、そのつもりだ。いや、元々決めていたことでね。実家は兄が家族で住んでいるから、あまり厄介になってもいけないし。こっちに飛ばされてなかったら、近々実家を出るつもりだったんだ」
「そうなのか」
「ああ。〈狩人〉だったときには中央で暮らしていたから、知らない場所でもないしな」
その後。
主従二人が去った部屋で、ロストはしばらく黙りこくったまま、じっと虚空の一点に目を注いでいた。
足元で伏せていたジュリーが、自分を見上げていることにも気付かないまま。
「……知り合いを撃つのは、いつだっていい気持ちはしないな」
無意識にこぼした独り言が耳に届き、ロストはぎくりと身じろいだ。
頭の芯が鈍く痛む。
ぐったりとベッドに横になったロストは、重い息を吐いて目を閉じた。
そのままとろとろと眠っていたロストが目を覚ましたときには、もう夕近くになっていた。
(ずいぶん寝ていたな)
眠る前よりは、頭の重さは取れていた。
「アス、大丈夫?」
さすがに見かねたのか、ジュリウスが声を投げる。
「……あまり、大丈夫とは言えないな」
ジュリウスに背を向けたまま、ロストはやはり独り言のようにつぶやいた。低い声が陰々と響く。
静かに立ち上がったジュリウスはロストに近付き、そっとその肩に触れた。
びくりとロストの肩がはねる。
「アス、約束するよ。絶対に、君に僕を撃たせたりしない」
のろのろとふりかえったロストは、きっぱりと言い切ったジュリウスを呆然と見た。
「お前――」
震えた声を隠すように、ロストはぱっと顔をそむけた。
しばらくの沈黙。ロストの肩は小さく震えている。
やがて、ありがとう、と小さな声が聞こえた。
なんとなく二人の間の刺々しさが薄れたところで、扉が叩かれた。
「はい――」
ネミッサかジョンが来たのだろうと思ってドアを開けたロストは、そこに立っていたのがその二人のどちらでもなく、キロンでもなく、国王オリヴェルだったことに、思わずその場で凍ったように立ちつくした。
「かまわぬ、楽にしてくれ」
苦笑するオリヴェルにぎこちなく椅子をすすめ、ロストも手近な椅子を引き寄せて腰かける。
「身体の具合はどうだ?」
「もうすっかりよくなりました。ありがとうございます」
「それを聞いて安心した。……ところで、私が来たことは、キロンには黙っていてもらえないか」
目をしばたたいてオリヴェルを見返したロストは、どうやら彼が執務を置いてきたらしいと悟って、思わずくつくつと小さな笑い声を立てた。
「朝からずっと書類に向き合っていたゆえ、少々肩がこってしまってな」
「それでお気晴らし、というわけで?」
しいて硬い声を作ってはいたものの、ロストの目はどことなく笑っていた。
「ああ。いや、新しい〈外つ国人〉と会う機会など、なかなかないのでな」
オリヴェルが、いくらか弁解がましく付け加える。それがよほどおかしかったのか、ロストは口元を引きつらせて懸命に笑いをこらえていた。
「さて、自分でお気晴らしになるでしょうか」
しばらくして、いくらか笑いの発作がおさまってから、ロストはぽつぽつと故郷での生活を語りはじめた。
日常の細々とした話が主だったが、オリヴェルには珍しい話だったらしく、子供のように目を輝かせ、身を乗り出して聞いていた。
聞き手にこれほど興味津々といった態度をとられると、話し手のほうも舌に脂が乗ってくる。
日頃は決して多弁ではないロストだが、このときは夕食が運ばれてくるまで、あれこれと話をしていた。
「邪魔をしたな」
「いいえ。自分でお気晴らしになったのなら幸いです」
そう答えたロストの顔からは、いつしかはじめのぎこちなさは薄れていた。
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