六、血に酔う童子のこと
半刻(約一時間)ほど後、〔八総〕の二階の小部屋で、百は尾ノ上左京こと、尾上右京とさしむかいに座っていた。
開口一番、己の本名と身分を明かし、
「近ごろの辻斬りの一件、どうか助力を願えないだろうか……」
頭を下げた右京に、百は苦笑しながらも、
「いいですとも」
二つ返事で引き受けた。
「え……まことに?」
「ええ。断る道理もありませんので」
右京からすれば、謀っていた後ろめたさもあり、すげなく断られることも予想していたのだが、あまりにもあっさりと承知されたので、彼はいくらか面食らった。
「何か、そちらでわかっていることはありますか?」
「ふむ……手がかりになるかはわからぬが……」
右京が以前辻斬りに遭った話を、百は真剣な顔で聞いていた。
「なるほど、そのようなことが……。そういえば、この間襲われた同心の方は、あれからどうなりました?」
「今朝目を覚ました。しばらくは安静にしていなければならないが、心配はいらぬということだ」
「それは、ようございました」
ほっとした様子の百だったが、右京から、胡堂もやはり黒い着物の童子に斬られたと聞き、彼女は眉を寄せた。
玖善も右京も胡堂も、同じ童子に襲われている。
この井佐町周辺での被害が多いと聞いて、百の眉間のしわがますます深くなった。
「今日は、辻斬りの報告はございましたか?」
「少し聞いた話では、三件あったそうだ。いずれも命に別状はないが、かなりの深手らしい」
「……なるべく早く、けりをつけたいですね。死人が出ないうちに」
八総の女将、佳代が用意した握り飯で簡単に腹をこしらえ、二人は店を出た。
眼帯を外した百が先に立ち、少し離れて右京がついていく。
井佐町から茅町、北井佐町へ、百はゆるゆるとした足取りで歩を進める。
一刻(約二時間)近くも町を歩き回っていた二人だが、それらしい気も姿も見当たらない。さらに一刻ほどをかけて、北井佐町から南井佐町を回ったが、やはり手がかりすらつかめなかった。
「尾上様は、そろそろお役宅に戻らなければならぬのでは?」
「そうだな」
荒谷町も念のため見ておきたいと、百は同道を申し出たが、
「いや、今日はもう出てくるまい。それに歩きどおして疲れているだろう」
そう断り、右京は〔八総〕の前で、百に別れて歩き出した。
と……。
前方の闇の中から、軽やかな足音が聞こえてきた。
「子供……?」
右京の肩越しに、闇を透かし見た百がいぶかしげに呟く。
右京には、闇の中で何かが動いているようにしか思えなかったが、百の目には、金気とそれに絡みつく血の気、そしてかろうじて、着物を着た振り分け髪の童子に見える影が映っていた。
とはいえ、夜目がきく百ですら、気が視えていなければその姿を捉えることは難しかっただろう。それほどまでに、童子の姿は闇に紛れていた。
さらに目をこらす。
少しずつ、童子の姿がはっきりと見えてきた。
足音が近付く。
それが明らかに駆けてくる足音であることに気付き、百はいつでも抜刀できるよう、腰の脇差に手を添えた。
するすると右京の前に出る。
ふと、冷やりとしたものが頬に触れた。
(雪か……)
墨染めの空から、はらはらと雪片が降り落ちてくる。
不意に、百がぱっと飛び退った。
同時に、きらりと光るものが百めがけて走る。
紅い雫が散る。
百の顔の上半分が、赤く染まっていた。
額から流れ出した血が、目に入る。
はっと息を呑んだ右京が飛び出そうとするのへ、
「動いてはならぬ!」
そう声を投げ、百は脇差を鞘ぐるみ外すと、顔の前で真横にかまえた。
童子が再び百との間合いを詰める。
童子が飛びかかった瞬間、身体を沈めた百は、
「む!」
低い気合声を発し、勢いよく脇差を前へ突き出した。
妙な音とともに、きらりと光るものが地面に転がる。
「大丈夫ですか?」
「うむ、いやしかしそちらは……」
「これくらいなら、なんでもありません」
事もなげにそう言った百の足元には、黒地に金蒔絵で模様の入った短刀が落ちていた。その刃は中ほどで、見事に真っ二つにへし折れていた。
しばらくして、額の傷に血止めをほどこした百は、奉行・長谷部平内の前にかしこまっていた。
もっとも場所は奉行所の白洲ではなく、平内の暮らす役宅の庭先である。
平内のそばでは、この一件の報告を終えた尾上右京が控えていた。
「ふむ、そのようなことがあったか……。此度の助力、感謝する。俺が手の者を助けてくれたことにもな」
「もったいないお言葉でございます」
「しかし、その童子とは何者であったのか……」
「私見ですが、申し上げても?」
「おお、かまわぬ」
巷では厳酷苛烈と評判の長谷部平内だが、噂とは真逆の、にこにこと声をかける気さくな人柄に、さすがに緊張していた百も、いくらか気が楽になっていた。
「血に酔った付喪神、というところではないか、と思われます」
「付喪神、とな」
「はい。見分させていただきました件の短刀、刃に血抜きの溝が彫られているところから見て、実際に使用することを目的として作られたものと思われます。そうしたものは、付喪神となった場合も、己の本分を果たそうとするのです。特に、人に充分に使われることなく、付喪神となった場合には。そしてそれに従った結果、血に酔い、元々の目的も忘れ、使われるためでなく血を流すために、人を求めて歩くようになります。あれも、そうしたものでございましょう」
「ほう……。どうだ、この先も俺に手を貸してはくれぬか。ひと相手ならばいざ知らず、あやかしの類が関わっているようなときには、お主らのような始末屋の手も借りたいのでな」
「はい、私にできるかぎりは……」
そこへ、夫人の真冬が茶を運んできた。百の顔を見て、思わず、と言った様子で目を丸くする。
それでも親しげに、
「さ、そこでは寒かろう。こちらに上がって、お茶をおあがりなさい」
そう言ったのには、今度は百が目をぱちくりさせた。
「おお、そうだ。今一つ、お主に頼みたいことがあるのだが、受けてくれるか?」
「私にできることならば……」
「なに、難しいことではない。一人、力付けてやってほしい者がおるのだ」
茶を飲んでから、真冬が百を、役宅の奥の一室に案内する。
「さ、こちらへ」
「失礼いたします」
薬のにおいの残る部屋に入る。
息を呑む音が聞こえ、不思議に思いつつ顔を上げ――身体を起こした女と、目があった。
「紅……菊……?」
「白菊……!」
二つの声が、同時にあがった。