その手に再び銃を
見上げた空は青かった。
街角に佇み、大きなボストンバッグをさげて、黄康は空を見上げていた。
「お兄さん、花はいかが?」
視線を正面に戻す。
色とりどりの花が入った籠をさげた、金髪に青い目の娘が立っていた。
大きなリボンがついた帽子、赤いスカート、黒いエプロン。この地方の民族衣装である。
「花?」
「どうぞ、綺麗ですよ」
どうしたものかと思っているところへ、
「お待たせ」
近くの喫茶店でサンドイッチを買ってきた古谷杏が、包みを手に戻ってきた。
娘がきょとんと目を瞬いて二人を交互に見る。
「……花、いかがですか?」
杏が籠を見、一本取る。
「それじゃ、これ」
「ありがとうございます」
小銭を受け取り、娘が離れる。それを見送って、杏が康にサンドイッチを差し出した。
礼を言って、まだほのかに温かい包みを受け取る。
香ばしいバゲットにハムとチーズが挟まれたサンドイッチはフランスでは定番らしい。
隣で早速サンドイッチを頬張っている杏を真似て、自分も一口かじってみる。
「…………」
「あ、口に合わなかった?」
「いや、こういうものに慣れていなくて」
「ああ、そっか。そういやさっき空を見てたけど、何かあった?」
「別に。青空だな、と」
記憶にある故郷の空は、硝煙でくすんでいた。
そもそも、ゆっくりと空を見ている余裕もなかった。
「日本に行ったときは土砂降りだったんだっけ。こういう光景はまだ慣れない?」
「まあ、な。東はともかく、西は敵国だったわけだし」
「ま、肩の力抜いて。蟲が出なきゃ観光で終わるんだし。どっか行きたいところ、ある?」
「と、言われてもな……。何があるんだか知らないんだ」
「うん、アタシもよく知らない。とりあえず、このへん歩いてみるか」
「そうだな」
うなずいて、通りを歩き出す。
町には笑顔が溢れていた。
「戦争のない場所は、どこでもこんなものなのか?」
「まあね。でもどっちかというと泅魏が特別かな」
隣で康が首をかしげる。
「異文、だったか」
「それそれ」
杏がうなずく。
「特別、と言われても、俺にはあれが日常だったからな……」
「ま、色々な場所があるからねえ」
他愛もない話をしながら歩く。
歩きながら、康はしばしば周囲を気にしていた。
「どうかした?」
「どうも、視線を感じる気がする。……あまり、よくない類の」
「どうする?」
「しばらくはこのまま……」
「了解」
傍目には何も変わらず、通りを歩く。
しかし隣を歩く康が、ひどく張り詰めているのを杏は察していた。
「お兄さん」
呼びかける、声。
「俺かな」
康がふりかえった先には、先の花売りの娘が立っていた。
「私とお茶しませんか?」
笑う娘。その面に浮かぶ、紫の斑点。
「あー……当たり引いたな」
呟いた杏が、ち、と舌を打つ。
「悪いけど、他を当たってくれるかな」
「……どうして? そっちの人がいるから、ですか?」
花籠に娘が手を入れる。野次馬が何事かと三人を囲みはじめる。
「皆、絶対に相手がいるんですもの。私にだって、いてくれたっていいでしょう?」
さっと娘が手を抜き出した。昼の光にぎらりと包丁の刃が光る。
周囲で悲鳴があがった。駆け去る足音、しかし思っていたよりも少ない。
周囲から聞こえる声。他人を羨むような呟き。
康の背を、冷たい汗が伝った。
「ひい、ふう、み……全部で五人とは。さっさと片付けるか」
「ああ」
ボストンバッグに手を入れ、使い慣れた小銃を取り出す。杏もサマーベストの下から愛用のエアガンを取り出した。
二人の目の前で百足に似た蟲がちらりと姿を見せ、人影に紛れるように姿を消す。
「二、三人倒せば流石に出てくんだろ」
言いつつ横から伸びてきた腕を掴み、気合とともに杏が相手を路上に叩きつける。
囲まれていないのを幸い、後退って銃を構える。
殺すつもりはない。腕か足を狙えば充分、動きは止められる。
それはわかっていた。だが――
目の前に顔がちらつく。
男、女、壮年、年配。
引鉄にかけた指から、力が抜けた。
「康!?」
「……撃てない」
呻きにも似た呟きを聞いて、杏が一瞬顔を強張らせる。
「……っ、それを早く言えこの野郎!」
呆然とする康を尻目に、杏が目の前の男に勢いよく頭突きを食らわせた。鈍い音とともに、男が倒れる。杏の額からも、ぱっと血が飛んだ。
康のほうへ、顔を紫の斑点で斑にした壮年の男が走ってくる。手に石塊を持って。
とっさに銃を置こうと屈んだ康の頭を、石塊がかすめて飛んでいった。
銃を置いて屈んだ姿勢から伸びあがるように立ちあがり、康が男の腹に当身を食らわせる。
悶絶した男には目もくれず、銃を拾う。
花売りの娘は青い顔を強張らせ、杏に刃先を向ける。
突き出された包丁を難なく避け、そのまま杏が娘を地面に押さえつける。
娘の背後から、蟲が現れる。
「康!」
銃を取り、蟲に狙いを定める。
今度は落ちついて、引鉄を引いた。
放たれた弾丸が、蟲を貫く。
さらさらと蟲が消えていく。それを見届けて、杏が立ちあがった。
「大丈夫か?」
「ん? 平気平気、これくらい」
額から流れる血が、その顔を赤く彩っている。それでもけろりとした様子で、杏は肩をすくめた。
それから半時間ほど後、二人の姿はカフェの中にあった。顔の血を拭い、額に包帯を巻いた杏は頼んだチョコレートケーキを食べていたが、康のほうは紅茶にさえ手を付けていなかった。
「ひとつだけ、確かめておきたいんだけどさ」
「ああ」
「できないのか、やりたくないのか、どっち?」
「……できないほうだ」
「そっか。泅魏では結構無理してた感じ?」
「……」
その沈黙は、肯定でもあった。
「それはアタシじゃどうしようもない。アンタが自分で折り合いつけなきゃなんない話だから。でもできることなら手伝うし、相談にも乗るよ」
半ばうなだれていた康が、顔をあげる。
「そう一人で抱えこむなって。時間は充分あるんだし、ゆっくり折り合いつけていけばいいさ」
「……そう、だな」
ようやく、康が口の端を少し持ち上げて笑顔を作った。
→ 蒼穹に朱は散る