想いの行く先 前

 チャーリー・ヒュー・グレゴリーは、幼い頃から嫉妬心が強かった。彼は自分にないものを持っている人間をたいそう羨んだ。のみならず、そのものを手に入れずにはおかなかった。これがものであればまだ良いのだが、時として人であったりすると、しばしば彼の嫉妬心はトラブルの種になった。それでも多くの場合、彼は望みのものを手に入れたし、それでいて彼が罰せられるようなことはまずなかった。
 これはひとえに、彼が裕福な家の出であり、またあちこちの有力者と彼の家に繋がりがあるからだった。例えば――名前は伏せるが――某市会議員は彼の叔父であったし、彼の父方の祖母は、彼が通っていた大学の理事の一人だった。親も親で、父親は会社の重役、母親もその秘書をしており、その人脈の広いことと言えば蜘蛛の巣のようだった。
 こんな家の生まれだったから、チャーリーは欲しいものを手に入れるのに、苦労するようなことは無かった。あれこれと手を用いて望みのものを手に入れ、不満が出れば、時には金で、時には交渉で解決していた。
 彼の嫉妬心の源は、彼の身体にあったのかも知れない。チャーリーの背には、大きな傷が生々しく残っていた。それは幼いころに、事故に巻き込まれてできたもので、彼はこの傷をたいそう恥じていた。服を着てしまえば隠れる傷跡ではあったが、彼はその傷が外に見えないように、用心に用心を重ねていた。
 そんな彼が、その女を見てしまったのは、運が悪かったと言うべきなのか。左半面に斜めに走る傷跡を堂々と人目にさらし、連れらしい娘と楽しげに話している。
 それを見て、ふっとチャーリーの胸の内に、いつもの羨みが浮かんできた。先ごろ、どうしても欲しかったものを、ついに手に入れられなかったことが尾を引いていたのか、その感情はそれまでよりも強かった。
 羨ましい、羨ましい……妬ましい。
 自分は服一つ選ぶのにも、絶対に素肌が見えることのないように苦心しているというのに、あの東洋人の女は、大きな傷跡を衆目にさらし、恬然として恥じ入る気色すらない。
 女が笑う度、物を言う度、傷跡は引き攣れて、それなのに女は、それを気にした様子もなく、笑い声をあげ、連れに話しかけている。
 許せなかった。妬ましかった。
 既に彼の思考は、常のそれから外れていたのだろう。
 それに気付くこともなく、チャーリーはゆっくりと懐に手を入れた。



「プリンスエドワード島?」
 カナダで蟲が観測されたため、停泊の連絡を掲示板で見てから、アイビーはやけにそわそわしていた。ちょうど暇つぶしもかねて料理を作っていた杏が、試食を名目にどうしたのかと聞いてみると、返ってきたのはそんな言葉だった。
「『Anne of Green Gables(赤毛のアン)』って、知らない?」
「『赤毛のアン』? あー、そういやちっさいときにアニメで見たっけ」
 確か、親戚が録画したビデオをくれたのだった、と思い出し、その作品がどうしたのかと重ねて訊ねる。アイビーは、そんな杏に、若干呆れた目を向けた。
「そこ、作品の舞台。グリーンゲイブルズが今でもあるみたいだから、行ってみたいなあ、って」
「よし、行くか」
 即決だった。ぽかんとアイビーが口を開ける。おろおろした様子で杏を見ているアイビーには構わず、杏はちょうど台所を覗きに来た紅花ホンフアをつかまえて、この小旅行に誘っていた。
 いいネー、と、紅花ホンフアが賛成する声が聞こえてくる。
「って、ほんとに良いの? 蟲が出るかもしれないし……」
「んなこと気にしてどうすんの。蟲が出たら倒せば良いんだよ」
 ぱしん、とアイビーの肩を叩く。アイビーは少しばかり顔をしかめたが、その顔はどこか嬉しそうだった。
 支度を整え、歯車の扉から外へ出る。冷えた空気に、冬の訪れが感じられた。
 ちょうど、今いる場所の近くから、プリンスエドワード島のシャーロットタウンまでのバスが出ているらしい。一日に二便しか出ておらず、始発のバスは出てしまっていたが、次の――というより最終の――便が出るまでにはまだ十分な時間がある。
 なら町の中を見て歩こうか、などと言い合っているところで、鞄をごそごそと探っていた紅花ホンフアが、あー、と声を漏らした。
「どうした」
「財布忘れた。取って来るネ」
 杏にそう答え、軽い足取りで、紅花ホンフアは来た道を歯車の扉に向かって駆けていく。
「カナダって、メープルシロップくらいしか思いつかないんだけど、他何かあったっけ?」
「んー、サーモンとか、あとお酒も有名みたいだけど」
「酒か、いいな。そういやアンタが言ってた『赤毛のアン』って、確か酒飲んで酔っ払う場面がなかったっけ?」
「ちょっと違うよ。アンがいちご水と間違って、葡萄酒を親友のダイアナに飲ませて、ダイアナが酔っ払うんだよ」
 ああ、そうか、と記憶を辿る。はっきりとは覚えていないが、そう言われればそんな場面だった、と思う。
 このときに風が吹かなければ、そしてその風が、杏が被っていた帽子を吹き飛ばさなければ、この後の事件は起きなかったに違いない。
 吹き飛ばされた帽子は、道の反対側まで飛んでいく。帽子を追って道を横切ったものの、手を伸ばした瞬間、黒い帽子はまた吹いてきた風に煽られて、転がるように杏から遠ざかる。
 ち、と舌打ちをもらしつつ、小走りに追いかけて、立っていた場所から三軒隣の酒屋の前で、ようやく杏は帽子を捕まえた。
 それとほぼ同時に、後ろからくぐもった悲鳴が上がる。かすかに耳に届いたそれに、振り返った杏の横を、エンジン音を鳴らして走り去るワゴン車が走り去る。
 人のざわめき。女の子が。警察に。
 いたはずの場所に、アイビーがいない。代わりに、どこか強ばった顔で、紅花ホンフアが走って来るのが見えた。
「何があった」
「アイビー、さっきの車に連れ込まれたネ。一瞬だったケド、ちゃんと見たネ」
 素早く辺りを見回す。
「貸して!」
 杏が声をかけたのは、ちょうど何か用でもあったものか、近くに止まった大型バイクだった。強引にバイクにまたがり、エンジンをふかす。
紅花ホンフア!」
 紅花ホンフアが身軽に後ろに飛び乗る。ヘルメットを着けたまま、所在なげに立つ持ち主を尻目に、バイクはワゴン車が走っていった方向へ走り出した。
 ワゴン車は思ったよりも早く見つかった。念のために紅花ホンフアに確認すると、肯定の返事が返ってきた。
 ぐいとスピードを上げ、ワゴン車の横に並ぶ。ちらりと横目で見ると、運転手と目が合った。
 窓にはフィルムが貼られており、運転手以外に誰がいるのかは分からない。
「杏、このまま並んでてネ」
 言うなり紅花ホンフアは足を引き上げて、バイクの上に屈むような体勢になった。
 バイクの上で身体を動かし、紅花ホンフアはワゴン車に向き直る。口の中で、一、二、三と数え、三を数えると同時に、紅花ホンフアは腕を振り上げ、そのまま身体を引き上げるようにして宙に飛び上がった。
 一拍置いて、紅花ホンフアの身体はワゴン車の上に着地する。ひゅう、と杏が口笛を吹く。契約による身体能力の向上の恩恵か、元々の能力なのか、紅花ホンフアは、こんなこともさほど苦も無くできた。
 ウエストバッグから、愛用のヌンチャクを取り出す紅花ホンフア。その後ろに、道路標識が迫る。
紅花ホンフア!」
 杏が叫ぶとほぼ同時に、紅花ホンフアがワゴン車の屋根を蹴る。見事に標識を飛び越え、紅花ホンフアは再びワゴン車の屋根に着地した。その着地点は、飛び上がった場所とほとんどずれていない。しかも本人には、杏に向かって笑顔を見せる余裕すらあった。
 杏もにやりと笑い返し、ハンドルから左手を離して懐に入れた。そこに入れていた、冷たく、硬いものを引っ張り出す。
 黒い、武骨な自動式拳銃。乗船するときに、実家からエアガンとともに持ってきたものだ。ここ数年は持ち出しもせず、部屋に置きっぱなしになっていたが、ロシアで襲われたこともあり、やはり護身用に持っていたほうがいいかと、外に出るときに対蟲用のエアガンと共に、ジャケットの下に着けたホルダーに入れておいたのだった。
 右手を手前に捻り、更にスピードを上げる。ワゴン車を追い越した杏は、身体を捻って銃口をフロントガラスに向けた。
 運転手が一人、後部座席に二人。
(最低三人か)
 引き金を引く。一瞬の轟音とともに、硬い金属音がした。
 崩れかかった体勢を素早く整え、少しスピードを落とす。
 それを待っていたかのように、ワゴン車が杏の方に寄ってくる。屋根の上では、紅花ホンフアがまたしても迫ってきた道路標識を飛び越えていた。
 杏は躊躇うことなく、銃口を横に向けた。窓ガラスをぶち抜いた弾丸は、運転手の鼻先を掠め、外へと飛び出していく。
「さあ、その脳味噌ぶちまけたくなけりゃ、さっさと乗せてるものをこっちに渡しな! そいつはアタシの妹分なんだよ!」
 答える代わりに、ワゴン車がまた杏の傍に寄る。エンジン音に紛らせて舌打ちをしながら、杏はバイクのスピードを緩めた。そのままワゴン車の後ろに付く。
 屋根の上の紅花ホンフアは、ヌンチャクを片手に屋根の上に膝を付いた。片手で屋根の縁、手掛かりにもならないような場所を手掛かりにし、弓のように反らせた身体を、手を、そして握られたヌンチャクを、思い切り振り下ろした。
 一撃、そして間をおいてもう一撃。フィルムが貼られた窓ガラスは、砕け散りこそしなかったが、蜘蛛の巣のようにひび入った。
 中からは怒声と、アイビーのくぐもった声――口を塞がれているのだろう――が聞こえてくる。
 だが、聞こえてくるのはそればかりではなかった。遠くから聞こえてくる、サイレンの音。
 紅花ホンフアが笑顔を消し、車の中ではそれまでとは違うざわめきが起こる。杏も素早く拳銃をホルダーに戻し、両手でバイクのハンドルを掴んだ。
「ち、警察サツかよ!」
 今の状態で警察に捕まれば、それこそ面倒なことになる。警察に捕まるわけにはいかない。この点だけは、彼らに共通していた。
 一気にワゴン車がスピードを上げる。それに合わせて、杏もバイクのスピードを上げた。