想いの行く先 後
やがてワゴン車は郊外に建つ小屋の前で止まる。止まるためにスピードを緩めた瞬間、紅花は地面に飛び降りた。素早く物陰に隠れ、手足を拘束され、口にもガムテープを貼られたアイビーが小屋の中に連れて行かれるのを見届ける。
そこへ、『私有地につき立ち入り禁止』と書かれた看板を当然のように無視し、エンジン音を響かせて、杏がバイクを走らせてきた。
二人の前に、銃や鉄パイプを持った男が四人立ちはだかる。四人の身体には、青いモヤがまとわりついているのが、二人の目に見えた。
「ここに四人、中には少なくとも三人、か。しかも蟲にやられてるときた。こっちが二人だけじゃ、分が悪いね」
「どうすル?」
「紅花、ちょっと船に戻って応援呼んできて。足ならそこにあるから」
「杏は人使い荒いネー。あとコレ、ガス欠寸前ネ」
紅花の言葉に、杏は鋭く舌打ちを漏らした。転瞬、杏が思い切り紅花を突き飛ばす。
破裂音。紅花がいた場所を、銃弾が通り過ぎる。
「紅花」
「分かっタ」
低い杏の声に、紅花も笑みを消して答える。遠ざかるバイクのエンジン音を聞きつつ、四人の前に仁王立ちになった杏は、にやりと唇を吊り上げてみせた。
四人が杏を取り囲む。杏は臆した様子もなく、足を肩幅に開いて、唇に浮かんだ笑みを深めて見せた。インタビュアーのマイクのように、自身に向けられた銃口や鉄パイプの先端など気にも留めていないように。
ばさり、と、杏が羽織るジャケットが落ちた。露わになった肌を見て、幾人かが思わず息を呑む。
杏の背、大きく背が開いたタンクトップから覗く素肌は、鮮やかな彫り物で彩られていた。
杏の背中の左半分には黒い髪を振り乱し、口からは牙を覗かせ、手には大振りの刃物を持った夜叉が、右下には口を閉じた吽形の狛犬が、タンクトップから顔を覗かせるようにこちらを見、両肩のあたりには紅い牡丹の花が描き出されている。
「どうした? かかって来いよ三下ァ!」
すかさず背後から放たれた銃弾を、上体を低く下げて避ける。次の瞬間には杏は身体を起こし、振り下ろされた鉄パイプをその手で掴んでいた。
数秒力を入れ、ぱっと手を放す。大きくバランスを崩した男の項に、杏は容赦なく肘を打ち込んだ。
残る三人から一旦飛び離れ、人を食ったような笑みを浮かべる杏。さっとエアガンを引き出し、銃口を三人に向けた。
パン、と乾いた音と共に、発射されたBB弾が一番左にいる男の肩を射抜いた。
銃声。放たれた弾丸が杏を掠めて飛んでいく。
「は、弾の一発で怯むかよ!」
ホルダーから拳銃を引き抜き、一切の躊躇いなく、杏に銃口を向けた男に照準を合わせて引き金を引く。
破裂音が三度。その全てが、男の左胸に集中していた。
目の前の二人から発せられる殺気が強くなった。
(無傷、って訳にゃ、いかないね)
杏が考えているところへ、小屋の横に建つガレージから更に三人が走り出てきた。顔をしかめ、ち、と再び舌を鳴らしたところで、どこからか飛んできた銃弾が、中の一人、ショットガンを持った男の肩を貫通する。
それとほぼ同時に、五人のうちの一人が、胸から剣を生やして倒れこむ。
何事かと一瞬思った杏だったが、金の髪を風になびかせて、一言も発さずに飛び込んできたルシャーチを見て理解する。
「な、何だおま――」
ルシャーチに銃を向けた男の手首が、一刀のもとに切り落とされた。銃を握ったままの手が、ぼとりと地面に落ちる。
悲鳴を上げかけた男の首筋に、ルシャーチの剣が送り込まれた。鋭く輝く刃先が、男の頸動脈を切断する。
その向こうでは、冷たい目をした紅花が、ヌンチャクで蜂を叩き落していた。
後ろから、鉄パイプを振り上げた男が、杏の脳天に凶器を振り下ろそうとした瞬間、正確に飛んできた弾丸が男の手首を貫いた。苦痛の声を聞いて振り返りざまに振り上げられた足が、男の頭に叩きつけられる。
間もなく、五人が地に転がるのとほぼ同時に、狙撃銃を背負ったジャックが姿を見せた。
「無事か?」
「ああ、助かったよ、ジャック」
「これで全員……じゃなさそうだな」
ジャックが言い切る前に、中からぞろぞろと更に十人が手に手に武器を取って出てきた。
「ったく、なんだってこんなに人がいやがんだ」
苛立ちも露わに杏が呟く。何かあったのかと問うジャックに、中にアイビーがいることを伝えると、みるみるジャックの顔色が変わった。その様子を見て、杏が付け足す。
「よっぽどのことがなきゃ、大丈夫だろうとは思うけどな。アイビーはかなり内気なだけで、大人しいってわけじゃないから」
薄暗い地下室に、アイビーは一人で転がされていた。遠くから、断続的に物音が聞こえてくる。
小屋に連れてこられてからアイビーがされたことと言えば、荷物を取り上げられてガレージの地下に閉じ込められたことだけだが、この先どうなるのかわからない。
不自由な身体でごろごろと転がりつつ、何とか戒めが緩まないかと手足を動かす。
しばらくそうしていると、手首の縄が少し緩んだらしかった。縄を引っ張るようにして上下に動かしていると、どうにか手が抜けそうなほど緩んできた。
傍の棚に右腕を押し付けて固定し、左腕を力を込めて引き上げる。二、三度繰り返していると、ついに左手が縄から抜けた。
続いて右手も縄から引き抜き、足の縄を解いて口に貼られていたガムテープを引きはがす。
「出ないと……」
手探りで辺りを調べていたアイビーの手が、金属の棒に触れた。梯子だ。見上げると、細い四角形の光が目に飛び込む。
アイビーはきゅっと唇を噛み、梯子を上り始めた。頭が天井に触れるぎりぎりまで上ると、片手を梯子から離し、頭上の跳ね上げ戸を押し上げた。
頭だけを床上に出し、辺りの様子を伺う。遠くから銃声や怒声、悲鳴らしきものが聞こえてくる。
(杏と紅花、来てるのかな)
それなら、自分がここにじっとしているわけにはいかない。
地下室から出て目に入ったドアを開ける。物置として使われているのか、雑多に工具などが置かれているほか、アイビーのウエストポーチと鞭もあった。
軽く中を確かめ、ポーチだけを腰につけ、鞭は手に持つ。
そこへ、足音と共に、髭面の男が走ってきた。何事か毒づいている男には、青いモヤがまとわりついている。
「逃がすか!」
銃口が向けられる。アイビーは素早く手に持った鞭を短く持つと、男に向けて振った。緩やかにしなった鞭の先端が男の手を打ち、男が銃を取り落とす。
男が怒鳴るより早く、アイビーが再び振った鞭が、男を強打した。倒れた男の口から歯が落ちる。
痛みと衝撃で失神した男の横をすり抜け、廊下へ飛び出した。荒く息をしてはいたが、アイビーはその場で立ち止まることはせず、外に出ようと廊下を走る。
アイビーの鞭の技は、母方の伯父に教わったものだった。両親すらアイビーには冷たかったのだが、伯父は自分の妻子を早くに亡くしたせいか、アイビーを非常に可愛がり、しばしばアイビーに鞭の使い方や、パチンコの使い方を教示していた。
アイビーはパチンコの腕こそ伸びなかったが、鞭の使い方は伯父が感嘆するほど腕を上げた。船に乗るとき、伯父から貰った鞭を武器に選んだのも、一番慣れているから、という理由だった。
ガレージへと繋がる扉を開きかけたとき、アイビーの肩を誰かの手が掴んだ。
外では戦闘が続いていた。小屋の中にいる人間がほとんど出てきたのだろう。相手は十人、こちらは四人と、数だけ見れば船員達が不利ではあったが、戦闘慣れしている彼らは、その数の利を自身の戦闘技術で押し返していた。
蟲を殺すのは自分たちの役目。全てを救うことができないのなら、せめて目の前の誰かを救うために、紅花は、自分の身体を、蟲を殺すモノと定義する。
今しも振り下ろされた鉄パイプを、紅花は大きく飛び上がって避け、勢いに乗せてヌンチャクを振る。首筋の急所を強打され、男が倒れたときには、紅花は別の男に向き直っていた。
ここの蟲は嫉妬心を煽る。しかし彼らが何に対して嫉妬しているのか、ルシャーチは考えようとはしない。彼の目的はあくまでも蟲の抹殺であり、たとえ誰に何を言われようとも、ルシャーチは蟲にも、食らわれた人間にも玉散る刃を振るう。
放たれた銃弾が、ルシャーチを目掛けて飛んでいく。空を切り裂く音と共に、真二つに切り割られた弾丸が地面に落ちた。
狼狽し、二発目を放つ暇もあらばこそ、大きく跳躍して距離を詰めたルシャーチの剣先が、男の胸を刺し貫いた。
この小屋に、後何人がいるのか定かではない。だが一つ確かなことは、この小屋のどこかに自分たちの仲間が囚われているということだ。
世界を救うことはできない。自分たちが命を懸けて蟲と戦っても、それで救えるのはその世界のその地域、もっと言えばその人間だけで、他で蟲に食らわれた人間、他で蟲が現れた地域、他の世界は救えない。
それならば、共に時空を越える仲間だけは。 その思いから、ジャックは攻撃の手を緩めない。男達からは一定の距離を保ち、ジャックは接近戦用の拳銃を、今しも紅花に躍りかかろうとする男に向けて引き金を引いた。
船に乗る者は仲間だ。仲間なら、それは家族のように接するべきだ。それが杏が慣れ親しんできた考えだった。
内気な妹分。船に乗るような気性ではないかもしれない。けれど彼女は船に乗った。世界から嫌われることを承知で、終わりのない旅路へと足を踏み入れた。
それならアイビーは杏の仲間で、仲間なら、杏には関わる理由がある。
入れ墨の夜叉に勝るとも劣らぬ形相で、杏は目の前の男に鉛弾を撃ち込んだ。
男達は数の利に頼り切っていた。無理もないだろう。相手は四人。こちらは倍以上の十人。簡単に始末できると侮りきっていた。その報いに、今や半数近くが、血に塗れて地に伏していた。
ブンブンと、独特の羽音が耳に届いた。杏が音のする方を見ると、青いモヤでほとんど全身が覆われた男――チャーリーが、アイビーを引きずるようにして、ガレージの二階への階段の傍に立っていた。チャーリーの周りでは蜂に似た蟲が一匹、何かを主張するように飛んでいた。
「野郎……!」
立ちふさがった男の胸を躊躇なく撃ち抜き、道が開けた杏が一気にガレージへ向けて走り出す。その素肌を飛んできた銃弾が裂いたが、もとより、それで足を止めるような杏ではない。
屋内に飛び込み、二階への階段を駆け上がる。憤怒の形相凄まじく走ってきた東洋人に、流石のチャーリーも少しばかり怯んだようだった。
「その子を離しな、豚野郎。誰がアタシの妹分に触っていいって言ったよ」
杏の言葉に、チャーリーがゆっくりと手にしていた銃を杏に向けた。その表情は歪んでいる。
「お前……お前はその顔で……その醜い顔で……よくも外に出られたものだ。私など、隠すことに……傷を隠すことに腐心していると言うのに」
「それがテメエの動機か? くっだらねえ。テメエの事情なんざ、知ったことかよ!」
破裂音が、続けざまに三度。チャーリーの後ろで羽音を立てていた蜂が、ぱっと散るように消え、チャーリーの手から、未だ銃口から煙を上げている拳銃が滑り落ちた。ぐらりとチャーリーの身体が傾き、どうとばかりに床に倒れる。それを見下ろした杏は、こちらも煙を上げている拳銃をしまい、アイビーに手を差し出した。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
小さく震えるアイビーが、恐る恐る杏の手を取った。
それから数日後、プリンスエドワード島はグリーン・ゲイブルズに、アイビーと船員の一人、スーの姿があった。
「この間は、大変だったみたいですね」
スーが、労わるようにアイビーに声をかける。アンの部屋で、膨らみ袖のワンピースを見ていたアイビーは、頭を巡らせてスーの方を見た。
「うん……まあ。でも、今日来られたから、いいかなって」
結局あの後は、プリンスエドワード島に向かうことができなかった。ワゴン車とバイクのチェイスを見ていた複数人から通報が寄せられ、杏と紅花ホンフアは急いで船に戻らなければならなかったし、アイビーにしたところで、到底これから観光する気にはなれなかったからである。
幸い、歯車の扉の一つが、あの場所からさほど遠くないところにあったおかげで、警察が来る前に、彼らは船に戻ることができた。
とはいえカナダにいる間に、プリンスエドワード島に行きたかったアイビーは、友人であるスーを誘い、こうして島を訪れていた。
二人で土産物を見ているときだった。何かを見つけたアイビーが、小さく声を上げる。
「どうしましたか?」
「これ……」
アイビーが示したのは、柄に苺があしらわれたティースプーンだった。
「可愛いスプーンですね。買われるんですか?」
「ううん。もう持ってるから。……伯父さんがくれたの」
「まあ、優しい方ですね。今でも、お元気なんですか?」
スーの問いに、アイビーは黙って首を振った。あ、と、スーも表情を曇らせる。
「ご、ごめんなさい。失礼なことを……」
「ううん。大丈夫。……伯父さんね、町の酒場で、喧嘩に巻き込まれて殺されたの。急に怒り出して、暴れかけた人を止めようとして、刺されたんだって。……あ、ごめん、こんな話して」
いいえ、とスーが首を振る。それっきり、この話題に二人が触れることはなく、その日の夕方、行きと同じようにバスに乗って、二人はカナダ本土へと戻っていった。