積もる葉書


 逢うて嬉しや別れの辛さ
 逢うて別れがなけりゃよい
 惚れりゃしょことがないわいな

 艶を含んだ唄声と三味線の音が、船の甲板に響く。
 普段は船員の姿もあるが、今はカナダに停泊しているためか、見える範囲に人の姿はない。
 三味線を弾いているのは、濃紺の外套を着こみ、フードを目深に下ろした船員――ミスルトウである。

 妬くのは野暮と知りながら
 あの忘られぬ甘口に
 他所でもそれと胸に針
 嬉しがらせた罪じゃぞえ

 三味線の音が消えるか消えないかというところで、ミスルトウの頭上から小さな拍手が降ってきた。
 おや、とばかりにミスルトウがフードをおさえ、首をあおる。
「いたのかい、紅花ホンフア
「いたネー」
 ひらひらと手をふり、マストから滑るように下りてきたのは、中国出身の船員・紅花ホンフアである。
「トウが外にいるノ、珍しいネ」
「少し、声を出したくなってね。それにたまにはこれも弾いてやらなきゃ。やつがれの勘も鈍るしね。そういえば紅花ホンフア、杏と一緒に外で大立ち回りをやったんだって?」
「暴れてたノハ杏だけどネ。それでマダ肩の具合が悪いッテ」
「肩? ああ、そういえば杏、露西亜ロシアで肩を外したって言ってたね。……いや、それで暴れてたのかい? 相変わらず無茶苦茶だなあ」
 ミスルトウの声に、呆れがにじむ。
 フードで隠された顔にも、呆れの色が浮いているであろうことは想像に難くない。
「今停まっているのは……加奈陀カナダだったかな? 蟲は――」
「嫉妬ネ」
「嫉妬か。また厄介な感情だね。まあ、蟲が喰らう感情に厄介でないものはないのだけれど、嫉妬は特別厄介な気がするよ」
 そうネ、と相槌を打ちながら、紅花ホンフアは甲板で柔軟体操をはじめている。
 もっとも、骨の存在を疑うほど身体を曲げ伸ばしするそれを“体操”と呼ぶのも、それを平気な顔で実行できるのも、船員の中では彼女くらいであろう。
 大きく身体を反らして足首を手でつかみ、両足の間から笑顔を見せた紅花ホンフアに、今度はミスルトウが拍手を送る。
此方こなたの骨はどうなっているんだい?」
「秘密ネー。あ、嫉妬ッテ言うト」
 ぐにゃりと身体を曲げたまま、紅花ホンフアが言葉を続ける。
「類ッテ怪物の肉ヲ食べるト、嫉妬が起きなくナルらしいネ」
「中国の伝説かい?」
 そうそう、と言いながら、紅花ホンフアがゆっくりと身体を戻す。
「嫉妬を抑えるのは珍しい気がするね。やつがれが知っているのは女が嫉妬から妖怪になる話ばかりだもの。嫉妬心が帯に変じる蛇帯だとか、嫉妬する女の髪にこもる髪鬼だとか、あとは宇治の橋姫と……ああ、般若もそうだったかな」
「お面ノ?」
 ひょいと紅花ホンフアが両手の人差し指を立て、頭にあてる。
「それそれ。あれは嫉妬を表した能面だそうだよ。どうも女と嫉妬とは切っても切れないと言われているようだね」
 男だって妬くのにね、とミスルトウが肩をすくめる。
「トウは……妬ク?」
やつがれが? いや、別段妬かないねえ。今で十分、満足しているもの」
 ミスルトウが、口元ににこりと笑みを刻む。
 うなずきつつ、こともなげに片手で倒立した紅花ホンフアに、ミスルトウが視線を向ける。
「妬きはしないけれど、此方こなたの身体の柔らかさはうらやましいね」
「小さいトキから練習してたカラネ」
「継続は力なり、かい?」
「そういうコト」
 素直に賞賛を送り、紅花ホンフアと別れる。
 三味線を入れたケースを背負い、杖の音だけを響かせて船内を歩く。
 ミスルトウが履いているのはすっかり履き古された革の靴で、足音くらいはしそうなものだが、一切足音がしない。
「あら、ご機嫌よう。今日は部屋を出ていらっしゃるのね」
 ちょうど行きあった船員に声をかけられ、ミスルトウは足を止めた。
「やあ、アンネリース。それに御令姉様も、御機嫌よろしゅう。少し声を出したかったのだよ」
 綺麗な所作で、ミスルトウが頭を下げる。
「あなた、これから外に行かれますの?」
「うん、近々出ようと思っているよ。せっかく停まっているのだしね」
「それならお気をつけあそばせ。ずいぶん空気が刺々しくなっていましてよ」
「気に留めておくよ、有難う」
 二人に会釈をし、いったん部屋に戻ってから、身支度を整えてミスルトウは外に出た。
 時刻は夕飯時をだいぶすぎている。それでも道を歩いていると、時折どこかからふわりといい匂いが漂ってくる。
 空気が刺々しい、と言っていたアンネリースの言葉は間違いではなく、心なしか、街の空気はどこか緊張していた。
 どこかで何か口に入れようかとあたりを見回す。
(おや)
 何気なく目をやったさき、英字に混じって見慣れた漢字が目に飛びこんできた。
 近付いてみると、そこはどうやら和食を専門とする料理店らしい。
 たまには故郷の味もいいだろうと店に入る。夕飯時の混雑がひと段落したからか、店内はだいぶ空いていた。
 ミスルトウの風体に怪訝な顔をされたものの、すぐに席にとおされる。
 メニューを見、白飯と味噌汁、少し考えて刺身を注文する。
「まったく、あの子ときたらまともに仕事もできないくせに、ちょっと歳が若いってだけで特別扱いされているとでも思ってるのかしら。毎日毎日、ずっと媚を売ってばかりで見苦しいったらないわ」
 隣の席から苛立った話し声が聞こえ、ミスルトウはちらりとそちらを見た。
 隣のテーブルには、仕事帰りなのだろうか、白っぽいカーディガンとズボン姿の四十代くらいの女と、そうですね、と気のない様子で返事をしている、黒っぽいブラウスと灰色のスカート姿の二十代くらいの女が座っていた。
「結婚を考えている相手がいるんですって? ろくな礼儀も知らない、仕事もできないような若さだけの女と結婚するような男が本当にいるのかしら。私のほうがよっぽどいいのに。貴方もそう思うでしょう?」
「そ、そうですね」
 年配の女の前には、空のグラスと鶏の唐揚げが乗った皿が並んでいる。
 聞くともなしに話を聞き、見るともなしに二人を見つつ、ミスルトウは心中で考えこんでいた。
 話の内容はともかく、蟲に喰われた兆候は今のところ見えない。
 だが、
(気に留めておいたほうがいいかもしれないな)
 そこへ、ミスルトウが頼んだ料理が運ばれてきた。
 フードの下で目を輝かせ、頂きます、と手を合わせる。
「ちょっと、あなた!」
 隣席から飛んできた声に、ミスルトウは箸を取りかけた手を止めた。
「え、ちょっと……」
 若い女が、流石に慌てた様子で声をかける。年配の女のほうは、耳を貸す様子はない。
やつがれに、何か御用かな」
「あなたね、子供のくせにそんな贅沢をしていいと思ってるの? そんな高いもの、年上に譲るのが当然でしょう。わかったらよこしなさい」
 皿に伸びてきた手を、軽く叩く。
「はしたないよ、お嬢さん。さあ、戻って静かに食事をしたまえ」
 一瞬の間の後。
 異様な叫び声をあげた女が、大きく腕をふった。
 卓上の皿が次々に床に落ちて割れる。味噌汁がさっと白い床に広がり、米飯と刺身がそこへ散らばる。
 同時にミスルトウは、女に薄くまとわりつく青いモヤと、女の陰に隠れるように飛ぶ、蜂に似た蟲を認めた。
「まったく。いいかい、食べ物を粗末にするものじゃない。これだけ作るのにどれくらいの労力がかかると思っているんだ。罰が当たるよ」
 ミスルトウの言葉は無視し、何事かと飛んできた店員を、女が怒鳴りつける。
「何よ、この子供が立場もわきまえずに刺身なんか頼んでいるのが悪いんでしょう!」
「いや、騒がせてしまってすまないね。お代はこれで足りるかな」
 落ちついて代金を払い、ミスルトウは店を出た。
 その後から例の二人連れも――こちらはミスルトウと比べるとだいぶ強引に――店を出されたようだった。
 二人の後をつけるつもりだったミスルトウだが、
「あなた、何様のつもりなの!」
 青いモヤに絡みつかれた女が目ざとくミスルトウを見つけ、怒声とともにつかみかかった。
 顔を歪め、目を見開いたその顔はまさしく般若面のようだった。
(まったく、鬼退治なら――)
 布が破れる音。
 地面に背を打ちつけ、息が詰まる。
 首に、手がかかった。
 どこかで鋭く呼子が鳴る。
 霞む視界と意識の中、杖を持った左手を勢いよくふりあげる。
(――橋の上だろうにね)
 杖で強く打たれ、喉を締め上げていた手が緩んだ。
 咳きこみながら、渾身の力をこめて手をはらいのける。
 嫉妬に燃える女の目を見上げる。乱れた髪が広がっている。
 再び喉に手がかかる前に、さっと仕込杖を抜きはらう。
 刃先に傷つけられた女が悲鳴をあげた。
 女の首めがけて、白刃を送りこむ。首から血を流して倒れた女を押しのけて立ち上がり、ミスルトウは今しも物陰へ隠れようとしていた蟲へむけて刃をふるった。
 杖をひとふりして血をはらい、鞘に収める。
 警官が来る前に、薄暗がりにまぎれてその場を離れ、路地裏で息を整える。
 ミスルトウの外套の襟元は大きく破れ、白い肌には点々と返り値がはねている。
 しばらくして、手の甲で血を拭ったミスルトウはゆっくりと立ち上がり、少しふらつきながらもその場を立ち去った。


 それから数日後、ミスルトウは街にある文房具店を訪れていた。
 いくつか並んでいる絵葉書から一枚を選んで買い求め、船に戻る。
 白い裏面に鉛筆で日付を書きこみ、棚に置いていた小箱にしまう。小箱の中には何枚もの葉書が入っていた。
 船に乗ってから、ミスルトウは自分が生命を奪うたび、葉書を一枚買うことにしていた。
 葉書を買っては生命を奪ったその日の日付を書き、箱にしまう。
 そうして溜まった葉書は決して少なくはない。三桁とまではいかずとも、二桁はある。
 人を殺すことは大罪だ。許されないことだ。それはミスルトウも理解している。ゆえにミスルトウは、自分の生命が危険にさらされたときか、その人間が生きていたほうが周囲にとって迷惑になると考えたようなときでなければ手を下すことはない。
 しかしその基準は、自らの独りよがりの基準だと承知している。
 だからこそ、ミスルトウは葉書を買うのだ。自分が誰かの生命を奪った、そのことを忘れないように。
(後は……)
 壁にかけていた外套を見やる。
 血や土の汚れは落としたものの、襟は破れ裂けたままだ。
 多少の繕いは自分でも何とかなるが、この損傷は手に余る。
 どうしたものか、と首をひねり、ミスルトウは、あ、と小さく手を叩いた。
 停泊前、医務室に検査で行ったときにちらりと見かけた船員、アルギス。船医から、腕の良い裁縫師だと聞いた。
(頼みに行ってみるとしようか)
 そう思って部屋を出たはいいが、部屋に辿りつくのには少々骨が折れた。顔と名前はミスルトウの記憶にあったのだが、本人の船室までは知らなかったのである。
 教えられた船室の扉を叩くと、一拍置いて返事があった。
「やあ、少しいいかな」
「あ、ああ」
 部屋にいたアルギスは、突然訪ねてきたミスルトウに戸惑った視線をむけた。
 さほど面識のない――加えて顔を隠している――船員が突然訪ねてくれば、そういう顔になるだろう。
「急に来てすまないね。実はこの間、服を破ってしまってね。できれば修理を頼みたいのだけれど、大丈夫かな」
 外套を確かめ、大丈夫だとうなずいたアルギスに、ミスルトウは有難う、と微笑した。

※作中の小唄引用元

『逢うて嬉しや』:春日とよ芝きみの小唄と三味線の教室(埼玉県ふじみ野市)

http://shibakimi-kouta.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=139992761

『妬くのは野暮』:東京小唄・清元・三味線教室

https://kiyuumi.com/archives/2012/09/post_578.php