笑う女

 車軸を流すような雨の中をひた走る。
 やたらに立ち並ぶ天幕の間を、濡れるのも構わずに走り続ける。
 前に出した足が、何かにつまずいた。勢いのついた身体はそのまま、泥濘でいねいの中に倒れこむ。
 息を切らせ、身体を起こしてふりかえる。
 そこには、黒い髪の娘が横たわっていた。
 白い首筋からいまだ溢れ出す鮮血が、雨と混ざって広がっていく。
「――?」
 名を呼んでも、彼女の目はもう開かない。
 気付けば手の中には、血塗れのナイフが握られていた。


 星空が見えた。
 大小様々の星が輝いているのを、甲板に横になったまま、呆と眺める。
「だ、大丈夫ですか?」
 黒い髪の女性が、逆さまに目に映る。
「……青娘チンニャン?」
「え、あの、紅花ホンフアさん?」
 名を呼ばれ、ようやく意識と状況がはっきりした。
 蘇嫣然スー・イェンランが、不安げに紅花ホンフアをのぞきこんでいる。
「大丈夫ですか?」
「平気平気。ちょっと失敗しただけネー」
 ゆっくりと立ち上がり、甲板に張っていたロープを片付ける。
 曲芸の練習をしていたのはいいが、そのときにバランスを崩して落ちたのだった。
 とはいえ特に怪我もなく、頭も打っていない。
「何かあったのか?」
 ふらりと入ってきた男を見やり、紅花ホンフアが一瞬笑みを固くした。
カン……さん。別に、何も」
 軽く頭を下げ、横をとおりすぎようとした紅花ホンフアを、カンが引き留めようと手をあげかけ、スーに気付いて手をおろした。
 部屋に戻る途中、厨房のそばを通りかかると、中から良い匂いがただよってきた。
「お、紅花ホンフア。ヒマだったからご飯作ってたんだ。ちょっと食べてみてくれない?」
 厨房から、ひょいと杏が顔を出す。
 いつもなら二つ返事で引き受ける紅花ホンフアだったが、この日の彼女は苦笑して首を横にふった。
「今は気が乗らないカラ……悪いけどまた今度ネ」
「そっか、なら仕方ない」
 アイビーかカンでも呼んでくるか、と杏が言うのへ、それがいいヨ、と答えて部屋へ戻る。
 その後ろ姿を見送りながら、杏は首をかしげた。
(どうも、異文から戻ってから様子がおかしいような気がするんだよなあ……)
「厄介なことにならなきゃいいんだけどな、っと!」
 火にかけていた鍋が吹きこぼれそうになっていることに気付き、杏は慌てて火を止めた。
 そのころ甲板では、
「あら、これは……」
 紅花ホンフアがいた場所に、鞘に入った小さなナイフが落ちていた。
 ナイフの柄には、黒ずんだ染みがついている。
(血――?)
 それを見たスーカンの頭に、ほとんど同時にその単語が浮かんだ。


 自室に戻り、ごろりとベッドに横になる。
 ぐるぐると、まとまらない雑念ノイズが頭の中で回っている。
 泅魏しゅうぎを離れてからずっと、この雑念が消えない。
 雑念は隙を生み、隙は無駄を生む。
 その隙と無駄は、場合によっては死につながる。
 そう教わってきたし、そう自分に課してもいた。
 しかし、何をやってもこの雑念が晴れない。少し動けば気も晴れようかと、身体を動かしてみれば先の始末。どうにも行き詰まった形である。
 顔に貼りつけた笑みを消し、眉を下げる。
(あれ?)
 どこか違和感を覚え、ズボンを探る。ポケットにいれていたはずのナイフがなくなっていた。
(落とした?)
 と、すれば場所は甲板だろうか。
 起き上がり、ぐっと口角を持ちあげる。
 二、三度鏡を見ながら表情を作って、紅花は部屋を出た。
 甲板ではカンが一人、手すりに寄りかかって星を眺めていた。
 その後ろ姿に、ざわりと胸が騒ぐ。
 扉の開く音を聞きとがめ、カンが首をふりむけた。
 紅花ホンフアの覚えている黄康ホアン・カンと、船に乗ったカンは別人とはいえ、その仕草も、左目を少し細める癖も、紅花ホンフアの知る黄康ホアン・カンと変わらない。
 胸の奥が鈍く痛んだ。
「どうかしたのか?」
「……あー、その、ナイフ、見てない?」
「ナイフ? ああ、それならさっき、スーが渡しに行くって出ていったが……」
「そう、ありがとう」
 立ち去りかけた紅花ホンフアを、カンが呼び止める。
「何?」
「聞きたいことがある。お前は、俺と知り合いだったのか?」
「……あなたと、じゃない」
 答える声は、ひどく平坦だった。
 カンが何か言う前に、紅花ホンフアは足早にその場を後にした。
紅花ホンフアさん、良かった。これ、落とし物です」
「あ、やっぱり落としてタ? ありがとネ」
 部屋の近くで出会ったスーからナイフを受け取る。そのまま去ろうとしたスーを引き止めようと手を上げかけ、紅花ホンフアは結局黙って手をおろした。


 また、あの日の夢を見た。
 ベッドに横になったまま、じっと天井を見つめる。
 この部屋に時計はない。故に今の時間を知る方法はない。もっとも時空の狭間では、時計はあっても意味はないだろうが。
(風にあたってこようか)
 ふと、そう思って部屋を出る。
 遮るものがないからなのか、甲板は空調が行き届いている船内よりもいくらか涼しかった。
 熱を持っていた額が程よく冷やされて気持ちがいい。
 胸のざわつきはまだ残っているが、少しは気分がましになったように思う。
 とはいえ、巣食っているこの雑念ノイズは問題だった。
 杏にでも話してみようか。
 そう思いかけ、いいや、と首をふる。
 杏には以前、事情を話したことがある。一度話したことを、また聞かせるのは気が進まない。
 考えるうちに一人、話せそうな相手が浮かんだ。
 しばらく後、紅花ホンフアの部屋で紅花ホンフア蘇嫣然スー・イェンランはさしむかいに座っていた。
「急にごめんネ。なんか最近煮詰まっちゃってネ、話したら気分も変わるかなーっテ」
「いいえ、大丈夫ですよ」
「ありがと。ワタシの昔の話だし、途中で嫌になったら言ってネ」
 苦笑いのような、自嘲のような笑みが一瞬浮かべ、紅花ホンフアはゆっくりと話しはじめた。