阿吽が消えた日
よく冷房がきいたスーパーから一歩外に出ると、一瞬で真夏の熱気に包まれた。
じりじりと日差しが照りつける。
焼け付くような陽射しの下を、古谷杏は、うんざりだと言わんばかりの顔で歩いていた。
杏は二十五歳になったばかりで、藍の薄物に青みがかった白の帯を締め、白足袋に白い下駄を履いている。
色の白い瓜実顔に、鋭い、意思の強い目。まとめた黒髪をアップにしている。
手には小さなバッグと、商品の入ったレジ袋をさげている。
白いレジ袋には、今にもはち切れそうなほど商品が詰めこまれている。
細くなった持ち手が掌に食いこむ。
(手伝い、頼めばよかったな)
一人で買い物に来たことを後悔しつつ、止めていた車まで歩く。
途中、すれ違った年配の女が杏に気付いてそそくさと足をはやめる。
周囲からもちらちらと視線が向けられる。しかし杏がそちらに目をやると、さっと目がそらされた。
祭りでもない普通の日に、和装をしている若い女が珍しい――という視線ではない。向けられる視線には、明らかに恐れが混じっていた。
駐車場の隅に止めていた車の後部座席に置いたクーラーボックスにレジ袋を入れ、バッグを助手席において運転席に乗りこむ。
しばらく車を走らせ、車は大きな門のある屋敷に入った。
門柱には“古谷京十郎”とある。
この町に古くから根をおろしているやくざ、古谷組の首領・古谷京十郎の屋敷である。
この古谷京十郎は、杏の実父だった。
「ただいま」
「アン、おかえり」
「ケイ、荷物運ぶの手伝って。もう手が痛くって」
車の音を聞いて出てきた双子の兄・京に手をぱたぱたふってみせる。
京と杏。どちらもキョウと呼ぶ名であるので、家族の間ではケイ、アンと呼ぶのが習慣だった。
「そう言うんじゃないかと思った」
「さすがケイ」
京はクーラーボックスを軽々と肩に担ぎ、台所へ運ぶ。
お礼、と買ってきたチョコレートアイスを渡すと、京は小躍りしながら自室に戻っていった。
買ってきたものを冷蔵庫に詰めながら、夕飯はどうしようかと考える。
(野菜がいっぱいあるし……カレーでも作るかな)
「お嬢、こちらでしたか」
ちょうど来ていたらしい若頭の高遠が顔を見せる。
「どうしたの?」
「組長が、話があるので夕飯の後で部屋に来い、と」
「父さんが? なんだろ、何か聞いてる?」
「いえ、何も」
「そっか。うん、わかった」
慣れた手つきでたすきを掛け、夕飯の準備に取りかかる。
米を炊き、その間に肉と野菜を切って煮こみ、頃合いを見て火を止め、ルウを入れて再び火をつける。
台所にも冷房はついていたが、火の傍にいる杏の額には汗がにじんでいた。
その後、夕食のときには、テーブルの上にはカレーをはじめ、サラダや漬物、スープといった副菜が並んだ。
母は仲のいい親戚と泊りがけで旅行に行っていて不在ではあるが、父や自分たち兄妹、住みこんでいる組員の分があるので、食卓はいつもどおり皿で埋め尽くされている。
夜に入っても暑さは中々引かなかったが、それでもカレーはよく売れた。二日分は作ったつもりだったが、結局ほとんど残らなかった。
片付けをすませたあと、杏は父の部屋を訪れた。
古谷京十郎は浴衣でくつろいでいた。
近ごろ白くなってきた髪をきちんと左わけにして、その男ぶりも悪くはなく、スーツでも着ていれば何処かの会社の重役のようである。
とはいえ今は座椅子によりかかり、浴衣も着崩しているので、それほど風采よくは見えない。
部屋に入ってきた杏へ、京十郎が封筒を差し出した。
中を見るよう言われ、封を切る。
「釣書……? 秋庭、眞人……秋庭って、鬼頭会の、あの秋庭?」
「そうだ。どうしても会いたいと言ってきた。今度の日曜、会うことになったから空けておけ」
「え、日曜? でもその日は……わかった、空けとくよ」
予定がある、と言いかけて、じろりと射すくめられて肩をすくめる。
父が強引なのはいつものことだ。逆らったところで無駄なことはよく知っている。承諾するほかなかった。
座卓に置かれた煙草を、一本頂戴、と抜き取り、封筒を手に部屋を後にする。
縁側に腰をおろし、煙草を咥えて火をつける。
杏が時々吸うものよりも、この煙草は強かったが別段それはかまわなかった。
味わっているわけではない。口寂しさから吸っている。
身体によくないのはわかっていたが、時折どうしても吸いたくなる。
夜空に紫煙が溶けていく。
封筒から写真を出し、あらためてじっくりと眺める。
線の細い青年である。広い額に茶色く染めた髪がかぶさっている。
アイドルでもやっていそうな顔立ちだが、どことなく気障に見える。
この青年が、鬼頭会の会長・秋庭巽の一人息子、秋庭眞人である。
鬼頭会は隣町に拠点を置くやくざの組で、規模も歴史も古谷組とほぼ同等である。
昔から、古谷組と鬼頭会は時に対立し、時に協力してきた。
ここ何年かはあたらずさわらず、といった関係の二組だったが、どうやら京十郎と巽の間で手を組むことが決まったらしく、その話が進んでいると杏も聞いていた。
日曜の見合いの目的も薄々察しつつ、杏は写真を封筒に戻した。
眞人に会ったことはほとんどなかった杏だが――子供のときに二、三度くらいだ――彼が何をしているかは聞いたことがあった。
今は大学院生として、少し離れた町で一人暮らしをしているらしい。
杏とは同い年だが、学校も住んでいる地域も違っている。それでも眞人の評判は京から聞いたことがあった。
眞人はかなり遊んでいるようだ。親が親だからか、かなり豪勢に金を使っているらしい。
おそらく眞人も親に言われて来るのだろう。それなら話がまとまることはまずあるまい。
そう考えると、少し気が楽になった。
そもそも、女遊びに現を抜かすような男はどれだけ顔が良かろうが金持ちだろうが杏の好みではない。最初からお断りである。
もしかするとその嗜好も、自分の生まれへの反抗心からなのかもしれない、と時々思う。
父は母ひと筋の愛妻家だが、ヤクザの間では妻以外に愛人を囲っている者もいると聞く。
実際、京十郎の知人の一人などは、妻こそいないが何人もの愛人を持ち、その二号さんやら三号さんやらに何かしらの商売をさせて暮らしているという。
家に来ては酒を飲み、酒気で顔を赤くして大声で自慢するその男を、杏は好きになれなかった。
父の知り合いでもあることだし、会えば愛想よく挨拶もしたが、内心では助平爺、と吐き捨てていた。
そんな杏が、遊んでいるという眞人を気に入るわけもない。
しかし父の命令では行かないわけにもいかず、杏は日曜に会う約束をしていた友人に電話を入れるために自室に戻った。
友人に謝り、それからしばらく通話をしていると、部屋のドアが叩かれた。
「アン、花火やろうぜ、花火」
「後で行く。先にやってて」
そう答え、さらにしばらく話を続けてから、杏は庭へ出た。
庭に出ると、パチパチと火が爆ぜる音や歓声が聞こえてくる。
「お嬢! お嬢もやりましょう!」
まだどこか子供っぽさが抜けきらない組員・細田から手持ち花火を一本受け取る。
地面に立てられた蝋燭で、花火の先端に火をつける。
シュッ、と音を立てて、鮮やかな火が吹き出した。
ぱらぱらと火花が落ちる。
小さいときは、花火だけでは飽き足らず、車を出してもらっては蛍を取りに行ったものだ。
京にいたっては昆虫採集をするからと、朝早くから虫取り網を片手に、町外れの林を組員と駆け回っていたことさえある。
今思えば、いくら組長の子供だからといって、よくそこまで付き合ってくれたものだ。
「そういえば、近々何かイベントでもあるんですかね?」
思い出したように細田が訊ねる。それを聞いて、京が首をかしげた。
「いや、別に何も聞いてないけど、何かあったっけ?」
こちらに視線を向けた京に、杏は首を横に振る。
「聞いた覚えないけど、なんで?」
「若とコンビニまで花火買いに行ったときに、見ない顔のヤツを何人か見たんで、てっきり何かイベントでもやるのかと」
「あー、そういや見たっけな。でもイベントやるなら何かしら聞いてるはずだけど。観光とかじゃないか? ほら、最近駅前に新しくショッピングモールができただろ」
「別にどっかの組のやつってわけじゃないんだろ? だったら放っておけばいいじゃん。堅気に迷惑かけるもんじゃない」
杏の答えに、そうですね、と細田が頷く。
杏は線香花火に手を伸ばし、一本抜き取って火をつけた。
先端に火玉ができ、火花が飛び散る。
揺らさないように注意して、先端をじっと見つめる。
見ているうちに、火玉はぽとりと落ちた。
花火がなくなってから、杏は風呂に入って部屋に戻った。
自室で洗い髪を乾かしながら部屋でテレビを見ていると、廊下から軽いノックと声がした。
「アン、入っていいか?」
「いいよ」
浴衣姿の杏とは対照的に、京は夏物のパジャマを着ている。
「さっき親父から聞いたんだけど、日曜、秋庭と見合いなんだって?」
「うん」
「まさか、付き合うつもりなんじゃ……」
「あのさ、ケイ。アタシが助平と女ったらしが嫌いなの知ってんだろ? なのに付き合うと思う?」
「……うん、だよな!」
「だろ? 結局、それ聞きに来たわけ?」
「あはは、まあな。でもさ、アンが本当に誰かと結婚したら寂しくなりそうだよな」
「それ、父親が娘にいう台詞じゃん。兄貴が妹に言う台詞じゃねえよ。まあうちの父さんはそんなこと絶対言いそうにないけど。まあ安心しなって。アタシを嫁に欲しいなんて物好きいないだろ」
「そんなことないと思うけどな。料理も美味いし、顔だって美人だし……黙ってたら」
「一言多い! 料理ができても顔が良くてもさ、やくざの子供を誰が嫁に欲しがるんだよ」
「それは……まあ」
“古谷組の組長の子供”。
社会において、それがどれほど重い枷になるのか、同じ立場の京もよく知っていた。
二人揃って、学生時代は教員からの心証はすこぶる悪かった。何かあれば疑われたし、何もなくても何かしてはいないかと目をつけられていた。
それに杏はおそらく、やくざの子供ゆえに希望していた学校に進学できなかったことも京は知っていた。
「まあ、日曜はつつがなく済ませるよ。眞人だってアタシに会いたいわけじゃないだろうし」
「いや、どうだろうなー。アン、ほんと黙って座ってたら美人だし」
「だからいちいち一言多いって! それにそもそも釣り合うわけないだろ。こっちは高卒だし向こうは院生だし」
口を尖らせる杏に、京は小さく笑った。
見とがめた杏が、その顔面に思い切り枕を投げつける。
「ちょ、ごめんって」
「次余計なこと言ったら本気で怒るよ」
ごめんごめん、と杏が手を合わせる。杏も、全く、と言いつつさほど怒っているわけではなかった。
それからしばらく、最近のテレビ番組や俳優の話で二人で盛り上がる。
あのバラエティ番組の最近始まったコーナーは面白いとか、俳優の誰それは演技がいまいちだとか、そういった話を楽しむ。
双子、それに同じ立場ということもあって、二人は幼いころから仲が良かった。やくざの子供、という立場でも、互いがいたから折れることはなかった。