陽炎
歯車の扉から一歩外に出ると、じっとりと絡みつくような蒸し暑さに包まれた。
顔を隠すように、深くかぶったフードの下できゅっと眉を寄せ、ミスルトウは首をあおって空を見た。
晴天。
雲ひとつない、抜けるような青空。
好天と、地平を囲む山々の緑の鮮やかさが目に痛い。
(さて……どうしたものかな)
今ミスルトウがいるのは、実家の近くだった。
(六……七十年? くらいは経っているはずだから、変わっていることは覚悟していたけれど……)
目の前に広がる光景は、自分の記憶とまるで違っている。
かつては土を踏み固めただけだった地面は綺麗にアスファルトで舗装され、田畑が広がっていた場所には小綺麗な家が何軒も建っている。
「今浦島、だねえ」
誰に言うともなく、独りごちる。
それにしても蒸し暑い。
アルビノである自分には、紫外線は普通の人間以上に害になる。
そのため普段から極力肌を出さないような格好をしているのだが、夏場にはそれが仇になる。
気温が高いだけでなく、湿度も高いのだからよけいに辛い。
故郷は盆地で、夏は蒸し暑く、冬は冷えこむ土地だというのは、住んでいたのだから知っている。
(それにしても、昔より気温が上がったのじゃないかな)
目に入る汗を拭いつつ、道の端を歩いていると、ずっと左手に続いていた塀が急にとぎれた。
おや、と、何気なくそちらを見て、
(あ……)
ミスルトウはつかのま、雷にでもうたれたかのようにその場で立ちすくんだ。
木々と家屋敷に挟まれた、急勾配の長い坂道。
記憶とは若干差があるものの、それでも見間違いはしない。
その坂は、生家に至る坂だった。
すぐそばで鳴った鋭いクラクションの音に、ミスルトウははたと我にかえった。
目の前に、白い車が停まっている。
車から降りてきた男を見上げ、
――あ、殴られる。
反射的に、ミスルトウは両腕で頭をかばうようにして上体を引いた。
背中が板塀にぶつかる。
耳朶に響く、鮮やかな蝉の声。
その合間に、別の声が混ざる。
大丈夫ですか。
立てますか。
「どうしました?」
柔らかな、男の声。
ようやくミスルトウは、自分が道端に座りこんでいることに気が付いた。
ああ、とも、うん、ともつかない曖昧な声を出して立ち上がったとたん、ふらりと足元が乱れる。
これは倒れるな、と、冷静に考えている自分がいて、それがどことなく滑稽だった。
とはいえ、それはただの錯覚で、かしいだ身体は男にしっかりと支えられていた。
薬の匂いが鼻をつく。
家で休んでいきませんか、とすすめられ、ミスルトウは車に乗りこんだ。
車が坂の上に向かう。
そこには記憶にある日本家屋ではなく、白壁の家と、併設された診療所が建っていた。
その側には古めかしい、どっしりとした土蔵がまだ残っていた。
診療所の入口には、『やどりぎ医院』とかかげられている。
水分をとり、上着を脱いで、空いているベッドを借りて横になる。
ちょうど昼の休診時間だからか、屋内に患者の姿はない。
外の暑さが嘘のように、診療所の中は涼しかった。
首を動かす。
首筋を冷やしている氷嚢の中で、氷がごろりと動いた。
生家はずっと、同じ姿で残っているものだと、漠然と思っていた。
(自分が変わらないのだものね)
よく考えるまでもなく、変わっていてもおかしなことではないのだ。自分が生家を出てから、何十年と経っているのだから。
それでも、世界では時間が流れていて。
年を重ねるごとに、その差は広がっていく。
壁にかけられた丸い時計の秒針が、小さな音を立てている。
(あの土蔵には、時計がなくってよかったな)
時間がわからなかったから、わりあい平気ですごせたのかもしれない。
「気分はどうですか」
男の声に、ゆっくりとふりかえる。
ここでようやく、ミスルトウは男をまともに見た。
壮年の男である。
黒い髪にはきちんと櫛が入れられ、白衣にもしわひとつない。
穏やかな、真面目そうな、男だった。
「ん、だいぶ、楽になったかな」
「それはよかった。熱中症ですね。今日は暑いですから。ところで、どこかに行くところだったのですか?」
「ええと……明仙寺に行くつもりで」
少し口ごもったものの、ミスルトウは落ち着いて記憶にある菩提寺の名を出した。
「ところで、ここは寄生木、静馬さんとかかわりがあるのかな」
「……父ですが、どういう関係で?」
「そうか。此方は御子息か」
確かに男の面立ちは、記憶にある上の兄と似通っている。
「御両親はお元気かな」
「母は亡くなりましたが、父は元気でいますよ」
「そうか。いや、昔、僕の身内が御両親に大変お世話になったそうでね」
「その方の名前を聞いても?」
「古谷阿刀といったよ」
いぶかしげに男が眉をひそめたとき。
誰かが怒鳴る声が聞こえた。
「せ、先生、琢馬先生、大変です! 西河さんが急に暴れだして――」
飛び出した男に続くように、ミスルトウはそっとベッドを降りた。
仕込杖を拾い、足音もなく騒ぎのほうへ向かう。
受付の奥にある更衣室。
床には私物か備品か、小物が散乱し、奥のロッカーの前に、銀に光る鋏をかまえた看護師の女が、まなじりを決して仁王立ちをしていた。
琢馬や他の看護師がなんとか女をなだめようとしていたが、女はますます激昂する。
(ふむ)
部屋を見回すと――いた。
女の背後に隠れるように、小さな影。
「通してもらうよ」
「おい、君!」
止めようとする琢馬の手を、そっと外す。
「悪いけど、これは僕の仕事なんだ、先生」
すたすたと女に近付く。
振り下ろされた鋏を杖で弾き飛ばし、物陰の蟲を勢いよく突く。
蟲がさらさらと霧散すると同時に、女は床に座りこんだ。
夕方の墓地。
『寄生木家之墓』と刻まれた墓石に、ミスルトウは手を合わせた。
「義姉さん、兄さんに、会ってきたよ」
長兄・寄生木静馬は戦後、某大学の医学部を出て診療所を開いた。今は引退して息子の琢馬に診療所を任せているが、今でも土地では親しまれている。
次兄の静弍はどうしているかと訊ねてみると、彼は民俗学者として、その方面では名が知られているという。
「やっぱり、僕は船に乗ってよかったのだよ。……でも、義姉さんとは、もっと話をしたかったな」
義姉さんと話すのは、本当に楽しかったのだもの。
それじゃ、と立ち上がり、ミスルトウは墓地を出ていく。
後に残った線香から、白い、細い煙が茜色の空に立ち昇っていた。