水底の掟
海底に、さえた灯りがひとつ揺れていた。リンコウクラゲの発光器を利用して作られた懐中電灯の青白い光は扇形に広がって前方を照らし、その灯りを頼りにノインは海底の道を歩いている。リュックを背負い、腰にも小さなポーチと水中拳銃をつけた、小柄な女である。
目の前が明るい分、周囲はなおさらに深い黒に沈んで見えた。鋭く尖って続く岩の峰は、話に聞く地上の山峰のように思われた。
ノインは海底で生まれ、海底で育った海の民の一人である。しかし彼女の父親は地上の人間で、幼い頃からノインは、父から地上の話を聞いていた。地上の山には"キ"や"クサ"が生え、"ハナ"が咲いているという。草は知っていても、"キ"や"ハナ"は海底にはない。父に聞けば、どんなものかは教えてくれただろうし、ノインも幼い頃は、何度も地上の話をせがんでいた。だが、地上のことを話すたびに、父が哀しい顔をすると知ってしまってからは、ノインは地上の話をせがまなくなった。父のことは好きだったけれど、哀しい顔は嫌いだったから。
光に誘われて、深い場所で暮らす魚がすいと寄って来る。襟元で切った黒髪の、毛先だけを薄青く染めたノインの髪を、餌と間違えてつつく、そそっかしいものもいる。この辺りはまだ海の国・ノクス・マレの領内で、ゆえにひとを襲うような魚はまずいない。
ノインは魚を払いながら、比較的平坦な道を選びつつ、目的の場所――海底にその身を横たえる大きな帆船――へと進んでいく。
この船は、ノインが生まれた頃には、もうここに沈んでいた。船体はそこここが崩れ、暗い孔が開いている。
国境の向こうに沈む帆船がはっきりと見えてくると同時に、国境を示すアカクサが生え並んでいるのも見えた。ノインはそこで足を止めてリュックをおろし、中から手に握りこめるほどのボンベを二つ取り出した。
腰のポーチを開いて、柔らかなホースの、マスク状になっている先端で口元をおおい、取り出したボンベを、パチリと音を立ててポーチに収められた呼吸器にはめこむ。間もなく、ヴヴ、という稼働音と共に、ボンベからは新鮮な空気が送られ始めた。
海底にあるとはいえ、ノクス・マレの領内では、魔法によって呼吸器がなくとも生活に支障はない。だが国の外にまではその魔法の効力は及んでいないため、国境を越えるときには、こういった呼吸器は必須と言えた。
国境ではあるが、この辺りには警備の兵もいない。海の底は平和で、争いとは無縁の場所だった。
懐中電灯の先端を曲げ、持ち手の部分をポーチについているホルダーに差して固定すると、ノインは船体に両手をかけた。
両肘と両膝の力だけで、ろくな手がかりもない上にぼろぼろの船体をよじ登り、中に入る。どこから入ってくるのか、時々小魚がノインの目の前を横切る。
ノインは見つけた部屋に入ってみたり、船窓から外を眺めてみたりしながら、しばらく沈没船の中をうろついていた。すでにノクス・マレの兵らや、一部の探検家などに散々調べられたであろう船内は、特に目ぼしいものも目新しいものもなかったが、ノインは気にする様子もない。
のんびりと探索しているように見えるノインだったが、扉の開いている部屋に入る前には、懐中電灯で中を照らすことを忘れなかった。
こういった船には、まれにオオウツボが住み着いていることがある。多くは甲板にある船橋を巣穴代わりにしているが、船内に入りこむことも全くないではない。赤黒い身体をしたこの生き物は、巨体ではあるが気性は荒くなく、積極的に攻撃してくることはない。しかしばっくりと裂けた大きな口と、ぎょろりとした目は恐ろしく、また積極的に攻撃することはないとはいえ、不用意に近付けば襲ってくることもあり、危険な存在ではあった。
だがオオウツボは光に弱いため、あらかじめ入る部屋を灯りで照らしてやれば、仮に住み着いていたとしても、奥に引きこもってしばらくは顔を出すことはない。その際に鳴き声も上げるため、それがウツボのいる印にもなっていた。
今のところ、ノインはウツボには出くわしていない。少し休憩することにして、傍の部屋に入ったノインはリュックを降ろし、壁に背を預けて座りこんだ。
部屋は船員の誰かの船室らしく、棚やベッドの残骸が懐中電灯の灯りに照らし出される。
休んでいたノインの耳に、異様な物音が聞こえてきた。覚えのある呻きにも似た鳴き声に、ノインはさっとリュックを掴んで立ち上がった。
それはウツボの鳴き声、それも、何かを襲っているときの声だった。
誰かが襲われているのかと、声の方へ走り出す。早まった呼吸に、呼吸器の稼働音が、少しその音を強める。
床には腐っている箇所もあるにもかかわらず、ノインの走りは確かなものだった。走りながら、リュックに入れていた閃光弾を取り出した。
間もなく、甲板に出たノインの薄青の目が、船橋から大口を開けて頭をのぞかせたウツボと、その影から立ち上る、細かい気泡を捉えた。誰かが、いる。
「目を閉じろ!」
ノインの声に、オオウツボがこちらに注意を向けたその瞬間、ノインは閃光弾を起動して投げ、きつく目をつぶった。
炸裂した閃光に、一瞬、古びた船体が浮かび上がる。瞼を閉じたその裏にも、焼けつくような光が感じられた。
キイィ、と鳴いたウツボは頭を引っこめ、その陰に隠れていた人影が姿を見せる。その人影が、白っぽい潜水服を来た人間らしいと気付き、ノインは思わず駆け寄りかけた足を止めた。
海の国の人間は、潜水服を見につけることはない。どう見ても、それは地上の人間だった。
海底には、ノクス・マレ以外にも国はあるが、そのどれにも共通しているのが、『地上のものに姿を見られてはならない』という掟が存在することである。地上の人間に海底の国の存在が知られれば最後、平穏な暮らしは泡沫のごとくに消えてしまうだろうということを、かれらは熟知していた。特にノクス・マレは、他の国よりも浅い場所に栄えており、魔術で見つからないようにしているとはいえ、民の、地上への恐れは大きかった。
かれが着けているヘルメットからはホースや線が伸びており、近くに垂れ下がっているホースからは、小さな丸になった気泡が、上へ上へと向かっていく。
迷いは一瞬。ウツボが頭を引っ込めている隙に、かれに駆け寄ったノインは、その身体を引きずって、さっきまで休憩していた部屋までとって返した。後で思い返しても、筋力は人並み、さして怪力というわけでもない自分が、どうしてそんな真似ができたのか、ノインにはどうしてもわからなかった。
リュックから予備のボンベとマスクを取り出し、ボンベの先を押しこんで栓を抜くと、空気を吹き出し始めたボンベの先に、手早くマスクを取り付けた。ヘルメットを取り外し、口にマスクをあてがって固定する。これだけの作業を、ノインは電光のような素早さでやってのけた。
ヘルメットの下から現れたのは、まだ若い、ノインとそう年も変わらないだろう、金髪の男の顔だった。
ついでに自分の呼吸器のボンベも取り換え、ノインは好奇心と警戒心が混ざり合った表情で、男を見ていた。
男が目を覚ます前に、この場を去った方がいいのは分かっている。
ノクス・マレでも、地上人はノインの父くらいしかいない。他の国では、地上人は存在そのものがお伽話のように扱われていると聞いたこともある。それゆえに、警戒心を好奇心が上回っていた。
やがて、薄く目を開いた男は、ノインを見て勢いよく起き上がった。丸くなった青い目を見開き、肘をついたまま後ずさる。危うく下からの頭突きをくらいかけたノインは、マスクの下で唇を尖らせ、きゅっと眉根を寄せて男を見た。
男が何か言ったが、ノインには彼の言葉が分からない。
「地上の人ね、あんた」
言ってはみたが、ノインの言葉も男には通じていないらしい。だがどうやら、少なくとも男は命が助かったことは理解したようで、その表情は少し和らいでいた。
「ノイン」
自分を指さし、そう言ってみる。ついで指を男に向けると、男は目をぱちくりさせた。もう一度自分を指して、ノイン、と繰り返す。
ようやく男も彼女の意図を悟ったらしく、同じように自分を指して、ウィル、と呟いた。
手真似で、ウィルに、地上には戻せないと伝える。地上の人間に姿を見られたのなら、その人間は地上に返してはならない。それがノクス・マレの掟だった。
初めは、手真似も通じなかったようだが、やがてウィルにもノインの言わんとすることが伝わったらしい。落胆するか、それとも抵抗するかと思っていたが、ノインの身振り手振りを理解したウィルは、案外あっさりと頷いた。
立ち上がり、ウィルの手を引く。
二つの影が、ノクス・マレへの道を辿っていった。
→ 幸せは傍に