父と子と
抑えられた破裂音。
目の前で、走ってきた男の身体が、がくりと傾く。
少年は、ただそれを見ていた。
男に向かって伸ばされた手は届かず、むなしく空をつかむ。
どう、と、男が地に伏した。
ウェルナーは朝から自室の掃除に取りかかっていた。かつては夫婦で使っていた部屋で、その名残が今でもそこここに残っている。ダブルベッド、手製のラグ、片隅の小さな丸テーブルと椅子が二脚。
壁にかけられたカレンダー、紙の端が黄色く変色してしまっているそれを見て、年月が違うことに気付く。記された年は、今から五年前を示していた。
外そうと伸ばした手が、ふと止まる。五月二十三日。赤ペンで花丸がつけられたその日は、自分の誕生日だった。
――いつ帰って来るの?
今思えば、彼女には、虫が知らせていたのだろうか。ひどく不安そうな様子だった。
――できるだけ早く戻ってくるけど、それでも今日明日、ってわけにはいかなそうだ。
――そう……。でも二十三日には戻って来てね。みんなでお祝いしたいもの。
――うん。そのころには帰れると思うよ。
かわした会話がよみがえる。
彼女はずっと待っていたのだ。自分が帰って来るのを。
ウェルナーは静かにため息をついて、手を下ろした。もう一度手を伸ばしてカレンダーを外し、それを細く丸めてごみ袋に入れる気はなくなっていた。
(取り替えるなら、新しいものを買ってきた後でもいいさ)
そう胸の内で呟く。何だか言い訳じみたその言葉に、彼は一人苦笑を浮かべた。
カレンダーをそのままに、ベッドの傍の、小さな戸棚を開けると、そこには埃を被った、赤い革で装丁された日記帳がしまわれていた。
XX. XX. XXXX
ナーヴェール
昨日まで、母さんはコンコルディアの外の町にいました。どうしても、あなたに素敵な贈り物がしたかったのです。
そこで、良いものを見つけたの。何かは内緒。あなたの誕生日まで、秘密にしておくわね。
ああそれと、町で面白いことをやってたの。十年後への手紙を書いて、十年たったら、その手紙をラジオで読み上げるんですって。
私も一通、書いてきたの。今度、お父さんがラジオを買うそうだから、その日になったら、みんなで聞きましょうね。
十年後のあなたは、どんな子に育っているでしょう。楽しみね。
愛をこめて
ニコラ
中が気になって開いたページには、紫のインクで、小さく整った文字がつづられていた。他のページにも同じように、ナーヴェールへの言葉がつづられている。
――これ? いつかナーヴェールに渡してあげるの。これがあれば、あの子も、私達があの子を愛してるって分かるでしょ? ええ、もし私達がいなくなっても。
ニコラの笑顔を思い出し、そっと日記帳を閉じたウェルナーは、それを静かに傍に置いて、棚の中を丁寧に磨き始めた。埃を拭き取り、綺麗になった棚に、日記帳を戻す。棚の、両開きの扉に手をかけたウェルナーは、その戸を閉めはせず、じっと日記帳に目を注いでいた。
不意に、ウェルナーは弾かれたように戸棚から離れ、床の上に腰を下ろしたまま、両手で顔を覆った。その胸はけいれんを起こしたように波打ち、その口からは、嗚咽こそもれなかったが、かわりに激しい息遣いが聞こえていた。
一時の情動がようやく静まると、ウェルナーは、また掃除を再開した。
あらかた掃除を終えたとき、ウェルナーの目が、タンスの上に置かれていた、小物入れにとまった。中には、丸いコンパクトが入っていた。鏡のついた蓋の部分が、開いたときに外れるようになってしまい、ウェルナーが修繕を頼みに、店に持っていくはずだったコンパクト。ウェルナーが初めて、ニコラに贈ったコンパクト。
またしても、激しい感情が胸に突き上げてきた。そして今度は、彼はそれを押し戻すことができなかった。ウェルナーは床に膝をつき、両腕の間に顔を埋めた。その口から、低い嗚咽がほとばしった。
隣の居間で、アツヤはその声を聞きとがめて、今しも紙の上にペン先を下ろそうとしていた手を止めた。同じようにそれを聞いたナーヴェールが、寝室へ向かおうとするのを止め、小さく首を振る。
ナーヴェールは、すぐにアツヤの言わんとすることを悟ったらしい。すなわち、放っておけ、と。ぐっと口をへの字に曲げたナーヴェールは、床に座りこむと、アツヤの手が、字をつづるのを眺めていた。
十分ほどして、嵐がようやく鎮まると、ウェルナーはぐいと目元を拭い、コンパクトをベストの左胸のポケットに入れた。タンスの上を――小物入れも含めて――埃ひとつないように拭き、すっかり埃だらけになった古タオルを、傍の小さなバケツで洗い、乾かすために窓枠にかける。
そこまでやって、バケツを片付けようと立ち上がったとき、ウェルナーは戸口に小さな影が立っているのを見つけた。
ナーヴェールがそこにいた。緑の目が、じっとウェルナーを見上げていた。ウェルナーは微笑んだが、ナーヴェールはにこりともしなかった。
「どこか……外に食べに行くか?」
日曜だし、と付け加える。この家には日曜日を祝うような習慣はなかったが、何か理由がいるような気がしたからだ。
ナーヴェールは唇を尖らせ、少しの間その提案を自分の中で吟味しているようだった。やがて、少年は一つ頷いて、その提案を受け入れた。
アツヤにも声をかけたが、彼は行かないと首を振った。
「どうぞ、お二人でごゆっくり」
「いいのかい?」
「ええ、どうぞ。俺はあまり、外に出ない方がよさそうですしね」
外は綺麗に晴れていた。ナーヴェールはウェルナーの隣を歩いていたが、彼の方を見ようとはしなかった。
二人の仲は、悪いわけではなかった。だが、二人の間にある溝は深かった。ウェルナーはできるかぎり、前と同じようにふるまっていたが、ナーヴェールのほうは、ウェルナーに対して素っ気なかった。
無理もないことだ。ウェルナーはそう口の中で呟いた。
二人が昼食の場所として選んだのは、アナグマキッチンだった。扉をくぐり、馴染みのある喧騒に、わずかに頬を緩める。
記憶と違うのは、奥の厨房に立っているのが、中年の男ではなく、まだどこか幼くも見える青年だったことだ。黒いエプロンを着けた黒縁眼鏡の青年は、手際よく複数の料理をこなしている。
焜炉の上のフライパンや寸動鍋では、後はほとんど盛り付けられるだけとなった料理が、最後のひと手間を待っている。
店に入ってきた二人を、厨房から青年――リュリュがいらっしゃいませ、と明るい声で迎えた。
奥の空いている席を見つけて座ると、ウェルナーは、つと、メニューをナーヴェールの前へ押しやった。
「何がいい?」
「ハンバーグ」
このときばかりは、ナーヴェールもわだかまりを忘れたらしかった。ハンバーグとミンチコロッケ、オニオンスープを頼む。わくわくした様子で厨房をじっと見つめているナーヴェールの様子に、またウェルナーの頬が緩む。
「お待たせしました」
やがて、頼んだ料理が次々と運ばれてくる。皿を受け取りながら、ウェルナーはありがとう、とリュリュに微笑む。
「……前のご主人は?」
「別の街の、娘さんのところに引っ越されたんです。お孫さんが生まれたそうで。娘さんが夫婦で経営されてる食堂を手伝いに。今は、僕がこの食堂を引き継いでいます」
「そうだったのか。あー……しばらく三区を離れていたものだから、知らなかったんだ。でも大変だろう、一人で切り盛りするのは」
「前に住んでいた街でも、料理店をやっていましたし、料理は好きですから、大丈夫です」
確かな誇りを柔和な笑みの中に見せながら、厨房へ戻るリュリュに、ウェルナーはありがとう、ともう一度声をかけた。こちらの言葉の方が、彼にふさわしい気がした。
ナーヴェールは、運ばれてきたハンバーグにさっそくかぶりついている。口の周りにソースをつけて。
目を細めてその様子を眺めながら、ウェルナーは自分もミンチコロッケを口に運んだ。まだ熱い油と、閉じこめられていた肉汁とが、挽肉と一緒に口の中に溢れてきた。
三つの皿は、半時間もしないうちに空になった。ナーヴェールのためにオレンジジュースを一杯頼み、運ばれてくるのを待つ間に、その緑の瞳で、じっと息子を見た。
癖のある亜麻色の猫っ毛の下から、夏の草原を思わせる、鮮やかな緑の目が、ウェルナーをじっと見返していた。その目はまだ少年らしい輝きを放っていたが、その奥には、深い諦めがあるように見えた。
「ナーヴェール」
いつもと違う声音に、ナーヴェールは飲みかけのオレンジジュースを置いてウェルナーを見返した。
「しばらく……家を離れないか。今は、この辺りも危ないから」
「一人で?」
「いや、父さんも後から行くよ。ちょっと……用事を片付けてから。すぐに追いつくさ」
「前もそう言って、すぐには帰って来なかったじゃないか」
ナーヴェールは一語一語、単語を区切ってそう言った。それでもその唇は震えていて、その声はいつも以上に甲高いものだった。緑の目――ウェルナーの目よりもニコラの目に良く似ていた――には、はっきりとした非難がこもっていた。口で言うよりも、もっと。
今度はすぐに追いつく。本当さ。
そう言おうとしたが、その言葉はウェルナーの口から出ることはなかった。
もう戻ってこないんだろ、今度は。
ナーヴェールの目が、そう言っているのを聞いてしまったから。
「ナヴェル、いいかい。ここは危険なんだ。だから……しばらくの間は、安全なところにいた方がいいと思うんだ」
真昼の食堂でする話じゃないな。そう思いながらも、彼は息子を説き伏せようと言葉を探した。
「いやだ!」
甲高い、うわずった声がそう叫ぶとほとんど同時に、椅子が倒れる大きな音と、ガラスのコップが床に落ちて割れる、高い音がした。昼過ぎのアナグマキッチンの喧騒がそれに遮られ、いっとき、しんと静かになる。
「ナーヴェール!」
ウェルナーの厳しい声に、ナーヴェールは一瞬だけ足を止めた。べそをかくように顔を歪ませ、それから、ぷいとそっぽを向いて、外へ飛び出していく。
「大丈夫ですか?」
リュリュが床に広がったオレンジジュースをモップで拭き取り、割れたコップの破片を集めながら声をかける。
「ああ、すまない」
リュリュの言葉で我に返り、ウェルナーは謝罪を口にする。大丈夫ですよ、と青年は笑みを見せた。
「それよりも、追いかけてあげてください」
「さて……いいものかな、僕が追っても」
ええ、とリュリュは強く頷く。
「ナヴェくんも、きっと、本当は分かっていると思いますよ」
それには答えを返さず、ウェルナーは軽く頭を下げて立ち上がる。
少年の姿は、すでに見えなくなっていたが、ウェルナーは迷いなく、辺りを見回すことすらせずに、足を踏み出した。
走る。人の間を縫って。
走る。周りの何にも目を向けずに。
ナーヴェールがどこにいるのか、ウェルナーには確信があった。
相手は物ではなく、意思を持った人間だ。仮にナーヴェールはその場所を覚えていたとしても、そこにいるという保証はない。
だが、その確信が裏切られることはなかった。
二区と三区の境、そしてコンコルディアの端ともいえる場所。昼下がりの光に照らされた、崩れかけた東屋の残る、小さな公園。
昔は、よく三人でここに来たものだ。そして思った通り、ぽつんと一人、少年は立っていた。
そして、その死角に、もう一人。
背に、氷でも入れられたかのような冷たさが走る。
「ナーヴェール!!」
はっと、目を見張ったナーヴェールの背後の物陰から、男が滑るように出てくる。黒い手袋をはめた手に、拳銃を握って。
「ケ、イッ!」
呼気と共に、男の名を吐き出す。ウェルナーの足が、強く地を蹴ったその刹那、消音器の付いた銃口から、抑えられた銃声を伴って、ウェルナーの心臓をめがけて、鉛弾が放たれた。
避けるひまも、余裕もなかった。焼けつくような痛みと共に、視界が傾く。
撃鉄を起こす音。それに気付いていながら、ナーヴェールは動かなかった。動けなかった。緑の目を呆然と、手を伸ばせば届くところに倒れているウェルナーに向けていた。
そうだ。いつもそうだ。
大事なものは、いつだって手から滑り落ちていく。妹も、母も、そして、父も。
すとん、と、草の上に膝をつく。
「……はは」
乾いた笑いが、こぼれ落ちた。
その頭に、薄く煙を上げる銃口が近付けられる。
「パパのところへ送ってやろうか」
声が、耳を通り過ぎていく。
ケイが、引鉄を引こうとしたその瞬間、何かに弾かれた拳銃は手から離れ、発射された弾はあらぬ方向へ飛んでいく。大きな傷のついたコンパクトが、一瞬陽光を反射してきらめき、くるくると回転して草の上に落ちた。
「貴様、なぜ……!?」
「言っただろう。俺の息子に、手を出すな、と」
半身を起こしたウェルナーが、ゆっくりと立ち上がる。冷ややかな顔には、明らかな怒気が現れていた。その脇腹からは、じわりと血が滲んでいたが、彼はそんなことなど気にかける様子もなかった。
彼に気圧され、じり、とケイが後ずさる。
「お、俺を殺す気か?」
「その方が、良いだろうとは思っている」
「俺が誰だか分かっているのか? おい、長い付き合いを――」
ケイに皆まで言わせず、ウェルナーが腹に蹴りを叩きこんだ。ケイは身体を二つに折り、蛙が潰れたような声を漏らす。
「それについては後悔している。さっさと縁を切っておくべきだったな」
淡々と言うウェルナーの、容赦のない拳がケイを襲う。
「や、やめろ、やめてくれ! 俺はあいつらに……異端者に操られていたんだ!」
つかのま、ウェルナーの殴打が止んだ。腫れあがった顔で、ケイが、すがるような目を向ける。
「それがどうした?」
言葉を続けようとしたケイの顎を殴りつけて昏倒させ、ウェルナーは少し息を乱しながら、落ちていた拳銃を拾い上げた。慣れた手つきで撃鉄を起こし、無造作にケイに向ける。
鈍い銃声。
利き手である右手を撃ち抜かれたケイの、掠れた悲鳴が響いた。
その声に、銃口をその口に突っこんで引鉄を引き、、二度と悲鳴を上げられなくしてやりたい衝動がわき上がる。事実、ウェルナーははそれをやりかけていた。かつての自分、気を抜けば命が奪われるような日々が日常だった頃の自分に立ち返って。
横合いからおずおずと伸びてきた手が、ウェルナーの腕を取った。その感触に、我に返る。
「ナヴェル」
もう一度昏倒させたケイから離れ、息子の名を呼ぶ。ナーヴェールの唇が、ひくりと震える。その手には、丸いコンパクトが握られていた。
「怪我はないか?」
「う、ん」
ほっと表情を緩めて、その身体を引き寄せる。ウェルナーにすがりつき、肩に顔を埋める形になったナーヴェールが、ようやく堰を切ったような泣き声をあげる。
ナーヴェールを抱き上げ、その背を優しく擦る。激しい泣き声が、かすかなすすり泣きに変わるまで。
泣き疲れて、そのまま眠ってしまったナーヴェールを背負ったウェルナーが、三区の自宅に帰りついたときには、高く昇っていた日は傾きかけていた。
家の中に人の姿はなく、居間の低いテーブルの上には、アツヤの手で、ちょっと出てきます、と書置きが残されていた。
彼が出歩くことは珍しく、どうしたのだろうか、と眉を寄せる。そのとき、玄関で音がした。
「戻りました……あ、お帰りなさい」
「どこかに行ってたのかい?」
「ええ、まあ。知り合いのところに」
どこか苦い顔でそう言ったアツヤが、ウェルナーの脇腹に目を向ける。もう血は止まっていたが、服には血が黒ずんで残っていた。
「何かあったんですか?」
「まあね。後で話すよ」
そう言って、二階の部屋へとナーヴェールを抱いていく。ベッドに寝かせた後も、ウェルナーはしばらくその傍から離れずに、じっと少年を見守っていた。