花の祈りを現世へ
子は七つまでは神のうち。だから、七つまでの子は、容易に『向こう』へ連れて行かれる。それを防ぎたいのなら、子に魔物の名をつけること。魔物の名をつけた子は、魔物からは見つからない。
だが、子が無事に七つを越えたなら、魔物の名をつけていてはならない。魔物の名を、七つを越えても名乗る子は、大人になる前に、魔物に『向こう』へと連れて行かれる。
あの子は死んでしまった。
仕方のないことだ。余命は三ヶ月。そう言われたのに、半年も生きられたのだから、それは良かった。
けれども。
日に日に私の頭から、あの子の記憶が消えていく。
あの子が死んでから半年。もうあの子の声を思い出せない。どんな声で笑っていたのか、話していたのか、もう分からない。
嫌だ。嫌だ。それは嫌だ。
次には何を忘れてしまうのだろう。顔だろうか、性格だろうか、振る舞いだろうか。
忘れることが恐ろしい。
嗚呼、『桜の子を忘れることがないように』ならないものか……。
――ある男の手記
四区の道を、ユリンは紙袋を抱えて歩いていた。買い物の帰りである。
今日は天気がいい。家に荷物を置いたら、久しぶりにどこかでのんびりと、笛でも吹こうかと考えつつ、家に向かいかけたときだった。
後ろから、ウエストポーチのベルトをきゅっと掴まれる。若干つんのめるような体勢になりつつ、ユリンは足を止めて振り返った。
目の前には、人影はない。
(……?)
もしや、と視線を下に落とす。と、いた。
童話から抜け出してきたような、赤いフードの付いたケープを来た、緑のワンピースの少女。五、六歳くらいだろうか。フードをすっぽりかぶり、琥珀色の目が、じっとユリンを見上げている。
「どうしたの?」
屈んで少女と目線を合わせる。少女からは、鼻を刺す、すっとした香りと、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「ねえ、」
少女が、口を開く。
「私を忘れないで」
周りの音が遠ざかり、その言葉が、はっきりとユリンの耳に届いた。
きょとん、と、目をまたたく。
ユリンは、人の顔と名前を覚えることは得意なほうだ。だが少女には、見覚えはない。他の区の子供か、それとも、最近、四区に来た子供だろうか。
「えーっと……どういう意味、かな?」
ユリンの言葉に、今度は少女が、きょとんとした顔になった。気付けば耳には、いつも通りの街の喧騒が戻っている。
(聞き違い、かな)
ここ三日ほど、毎日流しに出ていた。だから少しばかり、寝不足なのだろう。きっと。
そう考えて、改めて少女に訊ねる。
「どうしたの、お嬢ちゃん」
「あのね。まいごになっちゃったの」
「四区の子? お家、探してあげようか?」
またこっくりと頷いた少女は、ユリンに手を指し伸ばした。
紙袋を右腕に抱え、左手で少女の手を取る。その手は、ひやりと冷たかった。
「どっちから来たの?」
そう訊ねると、あっち、と少女はユリンが歩いて来た方向を指差した。
「そうだ、お嬢ちゃん、お名前は?」
「スリジエ」
ユリンと歩く間、スリジエは泣きもせず落ち着いていた。
(気丈な子だな)
自分がこれくらいの頃は、ここまで落ち着いてはいなかった気がする。
来た道を戻り、パン屋の近くまできたとき。
「スリジエ!」
パン屋の前で、青ざめた顔で周りを見回していた男が、二人に気付いて声を上げた。
駆け寄ってきた男が、スリジエを抱き上げる。
「だめじゃないか、勝手に離れちゃ!」
「ごめんなさい」
娘が戻って来たことで頭がいっぱいの男は、ユリンに気付いた様子はない。どうやら自分の役割は終わったらしいと、ユリンはそっとその場を離れた。
ユリンの住居はオセロ・アパートメントの三階にある。とんとんと螺旋階段をのぼっていくと、上から赤銅色の髪を揺らしながら、ソワイエが降りてくるのが見えた。
挨拶を交わしてすれ違い、そのまま階段を上りかけたユリンを、怪訝な顔のソワイエが呼び止めた。
「どうかした?」
「……いや、何でもない。悪いな、勘違いだったみたいだ」
ふうん、と零し、ユリンはまた階段を上る。一方ソワイエも、ゆっくりと階段を下りながら、どこか引っかかると言いたげにもう一度、階段を上るユリンを振り仰いだ。
すれ違ったその一瞬、鋭敏なソワイエの鼻は、ユリンから三つのにおいを嗅ぎ取っていた。
強く鼻を刺激する香りが一つ。ほのかに甘い香りが一つ。そしてもう一つ、甘ったるい、まとわりつくような死臭とを。
ソワイエは、それが死臭だと確かに分かったわけではない。だがその臭いに、胸の奥がざわりと騒いだ。
一方、軽い足音と共に自室へ戻ったユリンは、買ったものを適当に部屋の隅に置き、ごろりとベッドに横になった。寝転がったまま、ぐ、と伸びをする。
家具が少ない部屋ではあるが、最近、クロゼットとテーブル、それに椅子を置き、どうやら人が住んでいる部屋に見えるようになった。少なくとも、ベッドと暖炉しかなかった頃よりは、よほどましである。
ふかふかのベッドに、ついうとうとしかけたとき、ちらりと視界の端で何かが揺れた気がした。
何気なくそちらに顔を向け、ユリンはベッドの上で飛び起きて凍り付いた。
いつの間に入って来たのか、女がそこに立っていた。抜けるように白い肌、乱れたところのない緑の黒髪、鮮やかに紫陽花を浮き上がらせるように織った着物と、その着物を着るときにはいつも締めていた、濃紫の帯。
「……ねえ、さま」
見忘れるはずも、見間違えるはずもない。
ぱちりとまばたいた瞬間に、影は消える。無理はしていないつもりだったが、幻覚を見るほど疲れているのか。
(今日はゆっくり休もう)
そう心に決め、ユリンはまたベッドに身体を横たえた。
翌朝、薄手のカーテンから差し込む朝日に目を覚まされ、ユリンは小さく呻きつつ目を開けた。夜を寝て過ごすことには、まだどこか違和感があるが、たっぷりと寝たせいか、だいぶ頭はすっきりしている。
ぐうっと伸びをして、クロゼットから服をさぐる。白いオフショルダーのブラウスと、デニム地のホットパンツ。お気に入りのそれらを手早く身に着けて、さて朝食をどうしようかとベッドに腰かけた。
ここの台所は共同だが、ユリンは一度も使ったことはない。そもそも生まれて十八年、そんなことをする暇があるなら芸事を覚えて客を取れというわけで、炊事というものをしたことがない彼女である。うっかり台所に立てば、後がどうなるか目に見えている。
とはいえまだ、店が開くには早いだろう。
何か買っていなかったかと、昨日から部屋の隅に置かれたままの袋を探る。底の方に、リング型のホットビスケットが入っていた。最近新しく開店したという菓子屋の前を通ったときに、試食で貰ったものだった。
椅子に腰かけ、水を飲みながら、もぐもぐとビスケットをかじる。冷めてはいたが、食べていると、バターの風味が鼻に抜ける。
(美味しい、けど……)
朝から食べるには、重い。
とはいえ数はひとつ、片手に乗るくらいの大きさだったので、残すほどの量ではない。
ホットビスケットを食べきって、腹の虫もとりあえず落ち着いた。
久しぶりに、のんびりと演奏でもしようかと家を出る。
ユリンが足を向けたのは、四区にある広場だった。
ここにはよく来る。人気がないので、ユリンがどれほど笛を吹いても、誰に迷惑がかかるでもない。
鉄笛の唄口に唇を当て、息を吹きこむ。切れ切れの音は、少しずつ曲になっていく。
さくらさくら
やよいの空は
見わたす限り
かすみか雲か
匂いぞいずる
いざや いざや
見にゆかん
今はもういない、桜の名を持っていたひとを思いながら、笛を吹く。
笛の音が、虚空に溶けて広がっていく。青い目を半眼に伏せ、思い出す限りの旋律を奏でる。
今日は調子がいい。無心で笛を吹きならすユリンは、記憶の中から浮かんできた旋律を、笛の調べに乗せる。
「おねえちゃん」
不意に、きゅっと服の裾が引かれる。演奏を止めて見下ろしたユリンは、昨日の少女――スリジエがすぐ傍に立っているのに気が付いて少しばかり驚いた。
ここまで接近されれば、演奏の間に気付きそうなものだ。いくらここに人気がないからと、少し気が緩みすぎたかと反省する。
「どうしたの?」
「あのね、わたしのお家に来てほしいの」
ちょっと驚いて、目をまたたく。何かが欠けた琥珀の瞳が、じっとユリンを見上げている。
(……ん? 何が?)
スリジエの目を見て、『欠けている』と感じたのは事実だ。だが、何が?
甘い香りが、ユリンの鼻腔をくすぐる。甘い、甘い、甘ったるい、絡みつくような、におい。
ふ、と、ユリンの目が虚ろになる。
スリジエに手を引かれて、ユリンは広場を後にした。
その少し後、頼まれていた配達を終えたソワイエは、家で少し遅い昼食をとろうと、来た道を引き返していた。
昼下がりの四区は人も多い。人の間を縫うように歩いていたソワイエが感じたのは『臭い』だった。
やけに鼻につく、甘ったるい臭い。自然のものとは違う、ねっとりとした、嫌な臭い。
どこからか、と、辺りを見回す、人の向こうに、大きく肩を出した白いブラウスの人影が、消えていくのが見えた。
無彩色の視界でも、ああも堂々と肌をさらす、特徴的な格好をしていれば、おおよそ誰か見当はつく。
一瞬見えたその姿は、すぐに人の中に紛れる。臭いがその方から漂ってきていることに気付き、ソワイエは足を速めて後を追った。
臭いは四区の端へと向かっている。人影が、廃墟とも見える屋敷に入りこむのを、ソワイエはしっかりと見届けた。
廃屋に近付くと、それに驚かされたのか、鴉がばさりと舞い上がる。
入り口のドアには、鍵はかかっていなかった。さびついた蝶番が、軋んだ音を立てる。
ほとんど灯りもない、薄暗い地下を、臭いを頼りに進んでいく。
気付けば距離は縮まっていたのか、少し遠くに、白いブラウスが、ぼうっと浮き上がって見えた。
臭いは少しずつ強くなってくる。その臭いに、また別の、やけに鼻を刺す匂いが混じり出したことに、ソワイエは気が付いた。
地下は人が住んでいるのか、床にはぽつぽつと、古風なランプが置かれている。弱い灯りでも、周囲を照らしていることには変わりない。
前を歩いていた白いブラウスが、ふと視界から消える。その代わりに、手燭を持った子供が一人、目の前を通り過ぎていく。
赤いフード付きのケープを被った子供。男とも女とも判別はつかないが、手燭の灯りにほの白く照らし出されたその顔は、やけに乾いてやつれていた。
光が別の部屋に消えたのを見計らい、そっと人影が立っていた場所に立って周りを見回す。
すぐ傍のドアの、すりガラスの向こうがぼんやりと明るい。恐る恐る手を伸ばすと、カチャリ、と小さな音と共にドアが開いた。
部屋の中はがらんとしていて、外に置かれていたのと同じ、古そうなランプに火が入っているらしく、他の場所よりも薄明るい。
低い椅子しかない、がらんとした部屋の中では、ユリンがぽつんと座っていた。碧眼が焦点の合わないまま、空を漂っている。
「ユリン!」
わずかにユリンの瞳が揺れる。二、三度まばたいて、ユリンの瞳が目の前のソワイエに焦点を結んだ。
「んー……ソワイエ?」
零れた声に、ほっと安堵する。ユリンはきょろきょろと辺りを見回し、訝しげに眉を寄せていた。
「えーっと……どこ、ここ?」
きょとんとするユリンに、ソワイエが事情を説明する。
「あー、広場で演奏してたら、知らない子に声かけられたんだっけ。その後は、あんまり覚えてないんだよね……」
ソワイエの説明を聞き、ユリンが顔をしかめた。何でまた、と独りぼやく。
「むしろ知らないやつについて行くなよ……」
「ごもっともです」
ソワイエの呆れた声に、ユリンはさすがに神妙に頷く。
「ああ、君たちは……娘に導かれて来たのだね?」
不意に、呻きにも似た声が戸口の方から聞こえてきた。そこには壮年の男が立っている。肉が削げ落ちた顔、暗い色をたたえた琥珀色の瞳が、手燭の灯りに照らされてきらめいた。
「誰だ、お前」
ソワイエが、低い声を男に投げつける。男は気圧されたように、一歩後へ退った。
「いや、その……頼む、ここから出てくれ。あの子が来ないうちに――」
男が言葉を途切れさす。ぱたぱたと、軽い足音が近付いてきている。男はさっと顔の色を変え、静かにドアを閉めた。ノブについていたつまみを回し、鍵をかける。
「何の真似だよ」
「少しでも、時間を稼ぎたくてね……。頼む、あの子が行ってしまったら、すぐにここから逃げてくれ」
「話が見えないんですけど……あなたはとりあえず、あたしたちに何かする気はないってことでいいんですか?」
「ああ。全ては私の責任だ。この責任は必ず取る」
ユリンとソワイエが、互いに目を見かわす。
ドアノブががちゃがちゃと周り、ドアが小さく揺れる。パパ、と、ドアの向こうから、あどけない声が聞こえてきた。
男がドアに寄りかかり、背で押さえつける。その格好のまま、男はとつとつと語り始めた。
男――クライスには娘がいた。『スリジエ』。『桜』の名を持つその娘を産んで間もなく妻は世を去り、それ以来、男は一人で娘を育ててきた。
妻の死を、娘のせいにしても不思議はなかったのに、クライスはそれをせず、娘に愛情を注ぎ続けた。毎日、成長をノートに書きつづった。
だが、スリジエはあるとき、重い病にかかった。薬代を得るために、クライスは必死で働いた。その甲斐あってか、スリジエは余命三ヶ月と言われたところを、更に三ヶ月長く生きることができた。
娘を葬り、孤独に日々を送っていたクライスはあるとき気が付いた。自分が、娘の声を思い出せなくなっているということに。
彼はそれに気付いたとき、娘が死んだときよりも深く絶望した。そして、娘を忘れ去ることを恐れ、望んだ。
『桜』を忘れないように。
「そうしたら、あるとき、あの子の全てが思い出せるようになった。そして、娘が私の前に現れたんだ」
それは奇跡か、それとも偶然か。娘の記憶は甦った。現身を伴って。
赤いケープ、緑のワンピース、白いレースの靴下と、茶色い革の靴。捨てるのが忍びなくて、取っておいたお気に入りの服を身に着けた、スリジエが。
「あ、そっか。あれ、樟脳の匂いだったんだ」
ぽん、と手を打って、ユリンが何か納得したように頷く。少女が発していた匂いの一つ、鼻を刺す刺激臭は、衣服の防虫剤として使われる、樟脳の匂いだったのだ。
樟脳は、かつてユリンがいた妓楼でも、衣服を虫に食われない用心に使われていた。ユリンにとってはなじみ深いものであり、そして過去との縁よすがでもある。
「スリジエが戻って来て、私はあの子を忘れる恐れはなくなった。だが……あの子は、前とは違っていた」
スリジエの肉体は虚ろだった。彼女は、身体を保つために、他者を必要とした。
『桜』に縁のある者を。
クライスがそれに気付いたのは、ひと月前のことだった。家に友達を読んで遊んでいたスリジエが、突然静かになった。それまでぱたぱたと、足音や物音、楽しげな声が聞こえていただけに、クライスはどうかしたのかと部屋を覗き――二度目の絶望を味わった。
床に広がる赤。転がる骸は、スリジエが呼んだ友人。その身体には、点々と噛み跡があって、こちらを向いたスリジエの口が、赤く濡れているのを見て、クライスは取り返しのつかないことになったことを悟った。
スリジエはスリジエではない。いてはならないモノだ。
だがクライスは、スリジエを地下に閉じこめたものの、どうしてもスリジエに手を下すことができなかった。スリジエに手を下し、娘の記憶が失われることを恐れた。
クライスが煩悶している間に、スリジエはどうしたのか閉じこめていた地下を抜け出し、二人目の犠牲者を見つけ出した。
話を聞いたユリンが、黙って顔を曇らせる。
「ん? でもユリン、スリジエのことは知らないんだよな?」
確かにユリンはさっき、スリジエを『知らない子』と言っていた、と思い出し、ソワイエがユリンに訊ねる。それを聞いたクライスの顔が、はっと凍りついた。
まさか見知らぬ人間を襲うようになったのか、と、その顔に書かれている。
「うん、スリジエのことは知らないよ。でも、『桜』の名前を持ってる人を、あたしも別に知ってるから、そのせいじゃないかな」
スリジエとカグノ。『桜』を名に持つ、その一事が、『桜』と縁のある人間として、ユリンをスリジエに引き付けた。
「ああ、それならなおのこと……あの子はいてはならない」
「おい――」
ソワイエが口を開きかけたとき、異様な音がした。軋みをあげてドアが開く。
鈍い、肉を貫く音。クライスの左肩を、どこにあったのか、大振りのナイフが貫いていた。
顔を歪め、スリジエ、と呼ぶ父親の横を通り抜けて、少女が部屋に入って来た。小さな手から、ねじ切られたドアノブが床に落ちる。
昏い琥珀色の目は、じっとユリンに向けられていた。
「おねえちゃん」
ユリンをそう呼ぶ少女から、ソワイエははっきりと死臭を嗅ぎとっていた。
「やめなさい、スリジエ!」
「スリジエね、おねえちゃんがほしいの。だから、こっちにきてよ」
クライスの言葉を意に介さず、スリジエはユリンへと歩み寄る。
甘い匂い。桜の香の匂い。ユリンひとりが感じるそれは、じわりと身体にしみこんで、感覚を奪いさろうとする。
視界が暗くなる。夜にも似た闇の中、桜の花弁がひらひらと舞い散る。
縫い止められたように、不自然に動きを止めたユリンは、その目をスリジエに向ける。
とっさにソワイエは、ユリンの肩をしっかりと掴んだ。
「しっかりしろ! ユリン!」
動かないユリンの耳元で怒鳴る。
ユリンはそれでも動かない。動けない。
視界に散る夜桜に紛れて、佇む人影。黒い髪を風に吹かせ、立つ人影が振り返る。
――来たら、あかんよ。
ソワイエとユリンの間で、パン、と乾いた音が鳴る。頬に走った痛みで、ユリンは現実に引き戻される。
「ユリン!」
「うん、何とか大丈夫。……あのさ、お嬢ちゃん。あたしはまだ、そっちには行けないんだ」
目に光を取り戻し、ユリンがきっぱりと言い切る。
その拒絶に戸惑ったように、スリジエが小首をかしげる。瞬間、横から伸びてきた腕が、スリジエを抱きこんだ。
「行ってくれ。早く。私は親として、いや、一人の人間として、自分が引き起こしたことの責任を取らなければならない」
クライスの手には、自分の血で濡れたナイフが握られていた。
「行け! 行ってくれ! 早く!」
「でも――」
「これでいいんだ。行け!」
「ユリン!」
クライスの顔を、その目に宿る決意を見て、ソワイエがユリンの腕を引く。
二人が駆け去ったあと、残されたクライスは、スリジエを許される限り強く抱いていた。
ずるりと横ざまに倒れ、それでも腕は離さずに。
血の臭いが鼻をつく。もう、そう長いことはないだろう。出血が、あまりにひどすぎた。
「パパ、ねえ、ねむいの? いっしょにねようよ」
「ああ」
そう、初めからこうしていれば良かったのだ。だがこれで、もう誰も、犠牲にせずにすむ。
抱きしめた娘の身体が、少しずつ冷たくなっていく。それを感じながら、クライスは目を閉じた。
外に出ると、陽光が眩しく二人の目を刺した。薄暗い地下にいたせいで、余計に外が眩しい。
「あの人は――」
「責任を取る気なんだろ。親として」
ユリンの呟きに、ソワイエが答える。
子のしたことの責もまた、親が負わねばならないものだ。クライスはそれを負うことを選んだ。その思いは、ソワイエには伝わった。
「親、ね……」
ユリンはなおも苦い顔を崩さない。もっとも、その苦々しさは、クライスに向けたものではなく。
ふうっと一つ息を吐き、らしくないと頭を振る。
「迷惑かけちゃってごめんね。お詫びに何かおごるよ」
「おう、ってか、顔、大丈夫か? 結構腫れちまったけど……」
言われて頬に手をやる。触れると、じん、と熱を持っていた。
「うん、これくらいなら平気平気」
笑みを作る。それを見て、ソワイエはそうか、と安心したらしかった。
その夜、流しを早めに切り上げて、自室に戻って来たユリンは、寝間着に着替えもせず、着のみ着のままでベッドに横になった。
昼は楽しかった。お詫びにと、ソワイエとスリールに昼食をおごって、アナグマキッチンで食事をした。
それから夜にはいつもの通り流しをして、お金も弾んでもらえたし、自分も楽しかった。
それでも、一人になると、あの父親を思い出す。
娘を忘れることを恐れた父親。その気持ちは、ユリンも分かる。自分も、大事な人を喪ったから。
だが、自分の娘でないモノを、自分の娘だと、責を負ったのはどうしても分からない。
(親、って、そういうもの、なのかな)
ユリンの記憶にある『親』は、母親だけで、加えて彼女は、母から愛されていたと思ったことはない。母とは言え、名を付けるのも面倒がり、気が向いたときだけ、子供が人形で遊ぶように、ユリンの相手をしていた母は、ユリンにとって親ではなかった。
重く溜息をついて、ユリンはベッドに埋もれるように潜って目を閉じた。
ひらり、と、どこからか、薄桃色の花びらが風に乗って、その枕元にそっと舞い落ちた。
→ 紅灯ノ花