「お帰り」
説得がどうにか終わってから、イルーグはすぐさま馬車を用意させた。セルマの気が変わらぬうちに、ということらしい。
それでもセルマは、見送りを拒み、部屋に閉じこもってしまった。見送りに来たのは、ダニエルと、アンジェが『娘』だったとき、部屋付きのメイドだったハンナだけだ。
そして現在、アンジェはイルーグと差し向かいで馬車に揺られていた。
「すまなかったね」
「いえ。私も……結果的に、騙してしまったことに、なってしまいましたし」
「君に責任はないよ。セルマも、君が騙したとは、思っていないはずだ」
セルマの様子を思い出し、しゅんと肩を落とすアンジェ。そんな彼女を気遣うイルーグだが、その顔はどこか暗い。
アンジェの顔を見て、すぐに娘ではないと気付き、アンジェが屋敷にいる間、きっちりと一線を引いて接していたとはいえ、彼とて木石ではない。
淋しさを、感じているはずだ。
やがて、馬車が宿屋の前に止まる。外から見ると、一枚だけ、窓に板がはめられていた。
先にイルーグが降り、アンジェに手を貸す。
アンジェが降りても、イルーグは馬車に戻ろうとはせず、傍に立っている。怪訝そうな眼差しを向けたアンジェに、イルーグはかすかに微笑んで見せた。
「君の友人に、説明しなければならないからね」
宿に入ると、あちこちから視線が飛んできた。
どういう訳か、宿の中には警備兵の姿が見える。何か、あったのだろうか。
数日振りに姿を見せたアンジェを、驚いた様子で、女主人が出迎える。
「あらまあ、よくご無事で……。お連れの方も、ずいぶん心配しておられましたよ」
「ご心配おかけしました、ルーナさん」
ぺこりと頭を下げる。
「アイラは、部屋にいますか?」
尋ねてみると、人の好い女将は顔を曇らせた。もしや何かあったのかと、アンジェの背筋に冷たいものが走る。
「いらっしゃると思いますけれど……」
「あの、アイラに、何か……?」
「あなたがいなくなってから、ずいぶん落ち込まれた様子で、お食事もほとんど摂られないし、そのくせ、夕方頃には決まって外に出て行かれるし。血迷った真似をされなければいいんですけれど……」
「ずいぶん中が物々しいが、何かあったのですか?」
イルーグが尋ねると、ルーナは増々困った顔になった。
「ええ……。実は、泥棒が入ったそうなんですの。外から壁をつたって。それでこうして、警備もしてもらうことにしたんです」
ルーナの表情は暗い。泥棒に入られたとあっては、宿の防犯はどうなっているのかと、当然責められる。評判が落ちることにもなりかねない。
「それは大変でしたね」
イルーグが同情を込めて呟く。
「とりあえず、君は顔を見せにいってあげなさい」
ルーナの嘆きを聞きながら、イルーグがアンジェを促す。
「ああ、部屋が変わっていますから気を付けて。実は泥棒が入ったのが、お連れの方の部屋だったんですよ。もう、何と言って謝ればいいやら……」
ルーナから新しい部屋の番号を聞き、アンジェは階段を駆け上がった。
泥棒ごときに、アイラがやられるとは思えないが、ルーナから聞いたアイラの様子は気にかかる。
二階から三階の一番奥の部屋へと変わったため、それまでよりも距離は遠い。
部屋の前につき、ノックをすると、少し経って、開いている、と低い声が聞こえてきた。
銀色に光るノブに手をかける。カチャリ、と小さな音がした。
ゆっくりと、ドアを押し開ける。
小柄な影が、ベッドの上で横になっていた。アンジェがドアを開けたことに気付いているのかいないのか、その顔は天井に向けられている。
痩せた顔には、何の表情も浮かんでいない。まるで精巧な人形のように、虚ろな顔だ。
後ろ手にドアを閉める。その音で、アイラはようやく顔をこちら側に向けた。
アンジェを見て、その口元に、かすかに笑みの影が浮かぶ。
「……お帰り」
まるで、何事もなかったかのような口調である。それでも、普段よりさらにやつれ、色を失くした顔から、ここ何日か、彼女がどんな思いをしていたのか、十分に察せられた。
のろのろと、ベッドから起き上がったアイラに駆け寄り、華奢な身体を強く抱く。
「ごめんなさい。心配、かけて」
涙声になるアンジェとは逆に、きょとんとしたアイラは、やがて抱かれたまま、軽くアンジェの背を叩いた。
「……それは、お互い様だろう?」
少し呼吸を落ち着けてから、会って欲しい人がいる、と伝える。
興味もなさそうなアイラだったが、結局は一つ頷いた。
立ち上がり、アイラは思い出したように荷物を探る。
「……これ」
手渡されたのは、レヴィ・トーマの聖印と、真新しい、金の鎖だった。
聖印を首にかける。
「……うん。アンジェになった」
言いつつ、アイラはふいと顔を背けた。一瞬見えたその目は、潤んでいるように見えた。
一階に降りると、イルーグはカウンターの近くで待っていた。
「……話があると、聞いたが。あそこでいいか?」
アイラが示したのは、食堂。昼食の時間は過ぎているが、まだ何人か人が残っている。
「そちらが良いなら、構いませんが」
空いていたテーブルに、向かい合って腰掛ける。アイラとアンジェが並んで、イルーグはアイラの正面に座る。
「……とりあえず、誰?」
「失礼。私はイルーグ・フォスベルイといいます」
「……アイラだ」
フォスベルイ、の家名を聞いても、アイラの表情はぴくりとも動かなかった。声にも、感情は宿らない。
「今回のことで、そちらには随分迷惑をかけてしまって申し訳ない。どんな形であれ、償いはさせてもらう」
「……償いは結構」
イルーグの言葉を、アイラはきっぱりとはねのける。
「しかし、それでは……」
イルーグが渋面を作る。
アイラは表情を動かさず、じっとイルーグを観ていた。
「そちらの事情は知っている。……責める気も、ない。むしろ、アンジェを保護してくれたことに、感謝している。これで、この件は終わりだ」
言い切って、イルーグの様子を伺う。
しばし悩み、ようやく彼は不承不承、アイラの言葉を受け入れた。何かあったら、いつでも言って欲しいと付け加えて。
イルーグが去り、二人も部屋に戻る。
部屋に戻ったと同時に、アイラの身体が大きく傾いだ。
「アイラ!?」
「大、丈夫……」
辛うじて椅子に捕まり、体勢を立て直したアイラは、ふらふらとベッドまで歩いて、そのままうつ伏せに倒れ込む。
すぐに、その口から寝息が聞こえ始めた。
余程に疲労が溜まっていたらしい。アンジェは、起こさぬように気を付けながら、布団をきちんとかけてやった。
→ 信じる心、疑う心