アイラの約束

 目を開けると、自分を心配そうに見下ろしている三つの顔が見えた。

 一つはアンジェ、一つはリイシア、そして一つは知らない男。

「良かった。気が付いたんですね」

 男がほっとしたように呟く。その声を聞いて、アイラは彼が、倒れる直前に声をかけてきた男だと気付いた。

 息苦しさはもうなく、目もちゃんと見えているものの、アイラの身体にはまだ痺れが残っていた。

 身体を起こそうとしたものの、痺れのせいか、身体に上手く力を入れることができない。半身を少し浮かせることができただけだ。

 傷が鈍く痛む。しかし痛みがさほどでもないのは、まだ残る毒の影響だろうか。

 肩に手が置かれ、そっと押さえられる。

「今は、休んでいてください」

 男に穏やかな調子で言われ、アイラは大人しく、少し浮かせていた身体を布団の上に横たえた。

 静かに息を吐き、身体の力を抜く。

 目を閉じると、周囲の音が段々遠のいていった。

 

 

 

 どれくらい経ったのだろうか。アイラが目を覚ましたとき、周囲は静まり返っていた。

 目だけを動かして周りを見る。どうやら今いるのは岩屋の中らしい。どうやってここまで来たのかは分からないが、多分あの男に運ばれたのだろう。アイラは動けるような状態ではなかったのだから。

 岩屋の中は、松明が灯されていて意外と明るい。

 アイラの傍では、男が座って舟を漕いでいた。小さく身じろぎすると、布の擦れる音に気付いたのか、男が目を開ける。

「あ、起きたんですね」

「……誰?」

「僕はネズ……サウル族の、いえ、ただのネズです」

 なぜか途中で言い直したネズに、アイラは怪訝そうな目を向けた。その拍子に、ネズの額に例の、赤で消された紋様を見つけ、小さく息を呑む。

「あんたは……」

 アイラの視線に気付き、ネズが顔を強張らせる。二、三度口を開いては閉じ、やっとのことで言葉を絞り出す。

「僕は、あなた方もリイシアも、傷付けるつもりはありません。むしろ、僕はリイシアを助けたいんです。あの子には、何の罪もないんですから」

 ネズの目は真剣だった。アイラはしばらくネズの目を見、やがて一つ息を吐いた。

「……そういうことにしておこう。だがもしその言葉が偽りなら……そのときは、覚悟しておけ」

 ネズが苦笑を浮かべる。

「覚えておきましょう。それより、具合はどうですか」

「……悪くはない。良くもないけど」

「そうですか。息苦しさや、身体の痺れはありますか?」

「まだ、痺れはある。息はもう、大丈夫。それより……ここは?」

「僕らが、終の岩屋、と呼んでいる場所です」

「終の、岩屋?」

「はい。旅を続けられなくなったサウル族の人間が、余生を送る場所です」

「ふうん、だから終の岩屋、か」

「ええ。ちょっと、待っていてください」

 言い置いてネズが立ち上がる。やがて彼は、手にカップを持って戻ってきた。

 ゆっくりと、アイラの上体が起こされる。その拍子に、額に乗っていた布が膝の上に落ちた。

「これを飲んでください」

 渡されたカップの中身を口に含んだ瞬間、アイラは思わず顔を歪めた。おそらく数種類の薬草を混ぜた薬湯なのだろうが、他に何か入っているのか、身体が飲み込むのを拒否する味だ。

 口を押さえ、息を止めてどうにか飲み込む。

「……二人、は?」

「え? ああ、そこで寝ていますよ。もう夜も遅いですからね」

 示された方を見ると、確かにアンジェがリイシアと一緒に眠っている。

「さあ、もう休んでください」

 ゆっくりと身体が横たえられる。アイラは再び目を閉じた。

 

 

 

 アイラが次に目を覚ましたときには、既に夜が明けていた。天井近くにある小窓から入る日の光でそれを知る。

「気分はどう?」

「……普通」

 横から聞こえたアンジェの問いに、ぼそりと答える。離れたところにいたネズが二人に気付いたらしく、手にカップを持って歩いてきた。

「まだ痺れはありますか」

 寝たままアイラが頷くと、ネズの顔が少し曇った。

 そっと身体を起こされる。壁と背の間に、丸めた毛布をあてがわれ、アイラはそれに寄りかかった。

 カップを渡されたアイラがげんなりした顔になったのを見て、ネズが小さく笑う。

「昨日のとは違いますよ。これが飲めて、後で戻すようなことがなければ、もう食事もできます」

 恐る恐る口に含んでみる。今度のは、どうやら普通のハーブティーらしかった。

 吹いて冷ましながら中身を飲む。飲み終えてからも、特に気分が悪くなるようなことはない。

「大丈夫そうですね。食事の準備をしますから、リイシア、手伝ってください」

 ネズに呼ばれたリイシアはしかし、不安げにアイラの方を見ている。

『大丈夫だから、行っておいで』

 アイラに言われ、ようやくリイシアがネズの方へ向かう。それを見届けて、アンジェに尋ねる。

「……あれから、どれくらい経ってる?」

「えーっと、今日で三日になるはず。……心配、したんだからね」

 ぽつりと付け足された言葉に、アイラは目を見張った。

「んー、その、ごめん」

 珍しく、素直に謝るアイラ。

「知ってたの? 待ち伏せされてること」

「まさか。……でも、言った通りにしてくれて、助かった」

 あのとき二人が残っていれば、アイラは守り切れたかどうか分からない。一人になったことで、実のところ助かっていたのだ。

 アンジェから今までの話を聞かされる。そこへ、ネズが木椀を持ってやってきた。椀にはそれぞれ蒸した米とサジア(肉団子を葉野菜で巻いて煮たもの)が入っている。

「一人で食べられますか?」

「ん? ああ、うん。何とかなる」

 痺れの残る右手で椀を持ち、無事な左手で匙を持つ。ぎこちない動きにはなるが、どうにか食事はできる。

 葉に包まれた肉団子を噛むと、口の中に肉汁が溢れた。

 いつの間にか、リイシアとネズもアイラの近くで食事をしている。

 いつもより時間をかけて完食する。作りたてのサジアは温かく、食べ終えると腹の辺りがじわりと温もる。

『ねえ、もうやめて』

 不意に、リイシアが思い詰めた顔で、アイラを真っ直ぐに見ながら口を開いた。

『何を?』

『私を、守ろうとするの、もうやめて』

『やめないよ』

 リイシアの言葉はおそらく、自分なりに考えた結論だったのだろう。それに対し、アイラは実にあっさりと言葉を返した。

『何で!? 私のせいでこんなことになったんだよ! あの男の人だって、私といなかったら、怪我もしなかった!』

 ついに感情を爆発させたリイシアに、言葉の分からぬアンジェが呆気に取られ、ネズがリイシアを止めようと腰を浮かせる。

 そんな彼を目線で制止し、アイラは灰色の目を少女に向ける。その目に宿る光は、鋭く、強い。怪我人とは思えぬほどに。

『……そんなことを言い出した理由は想像つくけど、私は自分の仕事を放り出す気はない。私があんたといるのは、そうすることを自分で……自分の意思で選んだからだ。だから最後までやり遂げる。誰にも指図なんてされないし、させない』

『でも、死にかけたじゃない! 私のせいで!』

『別にあんたのせいじゃない。でもそこまで言うのなら、一つ約束しよう。私は絶対に死なない。なにがあっても、死んだりしない』

 きっぱりと言い切る。リイシアの目を見つめたまま。

「大丈夫なんですか、そんな約束をして」

「“門”は元々、自分を含めた全員を守るためにいる。死なないのは当たり前のことだ。それに……自己犠牲は嫌いなんだよ。否定はしないけれど」

「あなたの行動、自己犠牲にしか見えなかったけど」

 アンジェの言葉に肩を竦める。

「短剣に毒がなけりゃ、さっさと終わらせてた。とにかく……私は死なない。それより、ネズ、あんた、何か知ってるんだろう? 説明してもらえないか」

「元々、そのつもりですよ。本当は、あなたがもう少し良くなってから、と思っていたんですけどね。しかし、何から話したものか……」

 ネズが天井に視線を向け、じっと考え込む。

 しばらくそうしてから、彼は口を開いた。