カチェンカ・ヴィラ(後編)

 四人が立ち去った後、ユートはその場に佇んだまま、ハン族の娘の言葉を、胸の内で繰り返していた。

『あなたはロウクルを拒絶するが、実際にリイシアを助けたのはそこにいる、ロウクルの男だ。礼くらいは、言うべきではないか?』

『自分の娘の命より……下らない、自分本位の掟の方が大事か……この……馬鹿野郎!』

『私情の塊でしかない掟を作って、その結果には目を向けずに、掟を押し通すのは、暗君がやることではないか?』

『リイシアは、死ぬぞ』

 胸で初めは燃えていた怒りも、いつしか小さくなり、今は熾火となっていた。

 ロウクルと関わることを禁じた理由は、ネズが以前アイラに語ったように、ロウクルの町医者に騙されたからだった。

 無論、これはユートの主観であり、実際のところは、アイラが予想したように、町医者には騙す意図などなかった。単純に、当時の彼に渡した薬草が、実際はよく似た毒草だったというだけのことだ。

 しかし、ユートはそんな真相を知らず、ロウクルへの恨みを抱えることになった。そしてまた、行く先々で度々聞いた、“狂信者”による襲撃の噂も、ロウクルへの不信感に火を付けた。

 中でも十年ほど前、南部の少数民族であるニギ族と関わりを持っていた、レヴィ・トーマの修道院が、“狂信者”によって壊滅させられたという話は、ユートにとっては衝撃だった。

 自身と同じ神を信じている者達すら、一切の情もなく切り殺す。

 そんな“狂信者”の話を聞いたユートの内心には、ロウクルは決して気を許してはならぬ存在であるという気持ちが生まれた。

 決定打となったのは、二度目にランズ・ハンを訪れたときだった。一度目は二十年前。それから六、七年経って、再び訪れたとき、ランズ・ハンは、荒れ地と化していた。

 聞けば、ハン族と、そのときたまたまランズ・ハンにいた巡礼とは、野党に襲われたのだという。

 ハン族は、余所者にも友好的だった。その結果が、これだ。やはりロウクルは信用してはならないのだ。

 その考えに捕らわれて、彼は『ロウクルと関わるな』という掟を作った。それによって被る不利益など、考えもせずに。

 思い返せば、不利益はあったのだ。むしろ、不利益しかなかったというべきか。

 交易で得られるものは減り、蓄えも乏しくなった。コーリを含めた幾人かは、病で命を落とし、その結果、何人も部族から離れ、ヤツトのような復讐鬼が生まれ、娘は命を狙われた。

『新しいヤツトが現れたとき、次にリイシアの立場に立たされるのは、誰だろうな?』

 最後に投げかけられた問いを思い出す。

 彼とて家族は大事だ。もしアイラが言ったように、次があるのだとしたら、そのとき巻き込まれるのは、妻と娘のどちらだというのか。

 忌々しげに歯噛みをする。

 今まで、彼に向かってあそこまではっきりと意見を言った者はいなかった。それは部族の全員にとって、掟は絶対という価値観がすりこまれていたからというのと、ユートが反対意見を悉く切り捨てていたからという、二つの理由があった。

 人に全てを奪われた娘は、一体何を考えて、人と関わっているのだろう。

 ふと、そんな思いがユートの胸にきざした。

 

 

 

 そのころ、野営地から最も近い宿に落ち着いたアイラ達は、混み始めた食堂で夕食を取っていた。

「で、結局、どーだったんだよ。説得」

「……さて、どうだろうな。結構きついことは言ったが」

「というか、まさか面と向かって馬鹿と言うとは思いませんでした」

 ネズの言葉に、クラウスとアンジェが揃って呆れ顔になる。

「……あれで何も変わらないなら、どうしようもないよ」

 そう言って、固焼きパンを一口かじる。

 ユートの考えを、変えるとはいかないまでも、揺らがせることはできただろうか。それさえできていれば、少しはましになるかもしれない、というのが、アイラの今の考えだった。

 食事を終えた後、アイラは一人、部屋に戻った。

 ゆっくりとした動作で、アルハリクに祈りを捧げる。いつもなら、そこから座禅を組むところだが、今日のアイラは、それをせずに立ち上がった。

 ベッドに腰掛け、外を見る。

 外はすっかり暗くなっていた。雨の音が耳に届く。

(リイシアは、どうしているだろうな)

 あの後で、罰されていなければいいのだが。

 珍しく、ちょっと心配になったものの、まさか今から様子を見に行くわけにもいかない。結局アイラは床に座り直し、目を閉じた。

 静かに深呼吸を繰り返しながら、少しずつ周りの音を、匂いを、ついには自分の呼吸音すらも、意識から締め出していく。

 徐々に意識を閉じていく、この座禅をアイラは好んでいた。とはいえそんな気持ちさえも、集中するうちに消えていく。

 意識を落とすと同時に、がくりとアイラの頭が下がった。

 

 

 

 翌朝、夜明けと同時に目を覚ましたアイラは、ぐ、と一つ伸びをして立ち上がった。

 ベッドの上に膝をついて、窓から外を眺めると、宿を出て、野営地の方へ向かう、ネズの姿が目に入る。目を凝らしてよく見れば、彼の手には、細長い棒が握られていた。

(……ふむ)

 逡巡は一瞬。ベッドを降りたアイラは静かに、しかし素早く部屋を飛び出した。廊下に出ると同時、やはり部屋を出て来たクラウスと顔を合わせる。

「ネズか?」

 クラウスの言葉に頷き、二人は揃って宿を出た。

 見え隠れにネズの後をつける。ネズはそれに気付く様子もなく、真っ直ぐに野営地へと歩いていく。

 しかし野営地のすぐ近くまで来たところで、ネズは突然方向を変えた。

 ネズが向かったのは、野営地の傍にある窪地だった。

 ずるずると、土壁に背を預けて座り込む。手にしていた短刀を抜くと、それを真っ直ぐに自分の胸に向けた。

 刃が細かく震える。

 ごくりと唾を飲み、刃に写る、自分の顔を見つめる。

 幾度か深呼吸をする内に、少しずつ震えはおさまっていった。

 短刀を握り直す。

 白銀の刃が胸に押し込まれようとしたとき、横から伸びてきた手が、その刃をしっかりと掴んだ。

 驚いて顔を上げたネズの目に、いつも通り、無表情で立っているアイラの姿が映る。その左手から滴る血が、ネズのズボンに染みを作っていた。

「つけて来てたんですか」

「……放っておこうかとも、思ったけどね」

「なら、そうしてくれれば良かったんです」

「……そうもいかない。命の恩には命で報いるのが、私達の……私のやり方だから」

 短刀を動かそうとしたネズだったが、アイラの手はがっちりと刃を握り込んだまま動かない。

「手を離してください」

「そうしたら、死ぬ気だろう?」

 沈黙。否定など、できなかった。

「僕がしたことを償うには、こうするしかないんです」

「……死んだところで、償いになんかなりゃしない。それに、リイシアが傷付くよ」

 リイシアの名を出され、ネズがわずかにひるむ。アイラはその様子に構うことなく、淡々と言葉を続けた。

「私の怪我も、自分のせいだと言うような子だもの。……あんたが死んだら、間違いなく自分を責めるよ、あの子は。それくらい、分かっているだろう?」

「なら、どうしろと。僕には行く場所がない。サウル族しか知らない僕には」

 乾いた呟きを漏らすネズ。アイラに向けてというよりも、自分に向けて言っているように聞こえる。その言葉には、アイラは何も言えなかった。

「なら、オレの家に来るか?」

 助け船は、アイラの後ろに立ったクラウスから出された。ネズが、のろのろとクラウスに目をやる。

「ちょうど、働ける人間を知ってたら紹介してくれって、親父に言われててさ。ネズなら、まあ断られるってこたあねーだろ」

 ネズは黙ったまま答えない。それを見ていたクラウスの瞳が、すっと鋭さを帯びる。

「それでも、どうしても死にたいのなら、殺してやるよ」

 氷のようなクラウスの声。抜き身を当てられたかのように、ネズがびくりと身体を震わせた。

 アイラは振り返り、クラウスと目を合わせた。彼の表情に何を読み取ったのか、刃から左手を離す。

 アイラがヤツトに向けて放ったように、今度はクラウスがネズに殺気を放つ。震えるネズの手から、短刀が滑り落ちた。

 ゆっくりと、クラウスが背に負った長剣を抜く。

 冷たく光る切っ先を、ネズに向けるクラウス。その様子を、アイラは止めようともせず、左手の止血をしながら眺めていた。

 クラウスが、大上段に剣を振りかぶる。ネズの口から、殺しきれなかった小さな悲鳴が零れた。

「鋭!」

 空を切って振り下ろされた剣は、ネズの頭すれすれで静止していた。クラウスが一つ息を吐き、ぐったりと項垂れるネズを見やる。

「はあ。これで死神が落ちてりゃいいけどな」

 言いつつ活を入れてやると、ネズは薄く目を開いた。しかしその目は虚ろで、顔を覗き込むクラウスの姿も、はっきりと認識できていないらしい。

「あー、ちょっと刺激が強すぎたか?」

「……らしいね。ゆっくり休ませれば、そのうち治ると思うけど」

「じゃ、オレは宿に戻ってるよ。アイラはどーすんだ?」

「……私も、用を済ませたら戻る。アンジェに伝えておいて」

「了解。さて、急がねーと今頃、アンジェの姉さん、慌ててんじゃねーか?」

「かもね」

 ネズを担いだクラウスが、宿の方へ消えていくのを見送る。向こうはクラウスに任せておこう。

(さて、と。ユートは……)

 ふと、視線を感じて、アイラは顔を上げた。視線の先には、アイラに負けず劣らず無表情のユートが立って、彼女を見下ろしていた。