ジエンの邸

 ゆっくり、ゆっくり、意識が浮上する。水底から浮かび上がるように。

 重い瞼を持ち上げ、身体を起こすと、頭が鈍痛に襲われた。

「アイラ!? 大丈夫!?」

 アンジェの大声が頭に響き、思わず顔をしかめる。

「……あー、うん。とりあえず、もう少し小さな声で話してくれると助かる。……何があった? いや、それより、今はいつ?」

 まだ霞がかっている頭を無理矢理働かせる。

 それでも、商店街の近くで襲われてからの記憶がないアイラには、今持っている情報が少なすぎる。

 部屋を見回し、自分がどこにいるのかは悟ったものの、ここに来るまでの過程はさっぱり分からない。

「えーっと、あれから……多分、三日は経ってる。あなたほんとに大丈夫? 死人みたいな顔色よ?」

「…………ああ。それなら、いつもと変わらない」

 そこへ、ドア越しに、男の声がした。

「失礼いたします。アイラさんは、起きておいででしょうか」

「……起きている」

「旦那様がお呼びです」

「分かった」

 ぎらりとアイラの双眸が光る。その表情は、野生の獣のようだった。

「アンジェ、ここで待っていて」

 アンジェの答えも聞かず、アイラは部屋を出た。廊下には、顔見知りの老召使、サグが立っていた。

 彼に案内されるまま、磨き抜かれた廊下を奥へと進む。一歩進むごとに、アイラの瞳は物騒な色が濃くなっていった。

 アイラが向かう部屋の中では、リントウの裏社会の元締、裏の世界では誰もが知る大物、ジエンと、眼帯の男――ジエンの右腕と呼ばれる、ユンム――と、数人の男達が、アイラの到着を待っていた。

 ジエンは五十がらみの年配の男で、細められた目の奥には、鋭い光が宿っている。

 ユンムはジエンから見て右側に腕を組んで座り、左目を閉じていた。

 不意に、ユンムの左目が見開かれる。少し遅れて、周りにいた男の中にも、騒めく者が出始めた。

「元締。これは、厄介かと」

 ううむ、とジエンが唸る。

「やっぱり、怒っとるか」

「そのようです」

 低い声で言葉が交わされた直後、「お連れしました」と、召使の声が聞こえてきた。心なしか、サグの顔色も悪い。

 ドアが開けられ、アイラが黙ったまま、中に入ってくる。

 その顔色は死人のような土気色で、今にも倒れるのではないかと思われる。しかし、灰色の目には、激しい怒りが揺れていた。

 アイラは、馬鹿にされたときこそ怒りを見せるが、それ以外では余程のことがない限り、さほど怒りを見せることはない。そんな彼女が今、怒髪天をつくほど怒っている。

 殺気こそ放ってはいなかったが、今の彼女が自分達にとって“毒”になりうることは、ジエンやユンムには察せられた。

“毒”を“薬”にしたいなら、それは、自分たちの態度次第であるということも。

 アイラは座りもせず、一段高いところに坐るジエンを見据える。普段の彼女なら、決して取らない態度だ。

 普段どれほど不愛想でも、アイラとて、礼儀は知っている。ジエンのような目上の人間に対する態度も心得ている。

 しかしこのときは、礼儀を守る気持ちよりも、怒りの方が強かった。

「元締――」

「話の前に、謝らせてくれへんか。悪かった」

 ジエンが手を付き、頭を深く下げる。突然のことに、アイラは唖然としてジエンを見ていた。

 直後、アイラから部屋中に、殺気が放たれる。男達の半分が腰を抜かし、ユンムですら、無意識に懐に手を入れ、中に忍ばせた暗器をいつでも放てる体勢になっていた。

 放たれた殺気は一瞬で消えたが、部屋の緊張はまだ解けていない。

「……それで、私に何の用ですか、元締」

 ふ、と息を吐いて、座ったアイラがジエンを見上げて問う。その顔からは、さっきまで浮かんでいた怒りは消え、いつもの無表情に戻っている。

「あ、ああ。ちょっと、片付けて欲しい男がおってな。自分、頼まれてくれへんか?」

「……誰を?」

「ルドルフ・フォスベルイ。裏の名前で呼ぶんやったら、ジョン・ドリス。自分も追っとったみたいやし、顔は知っとるやろ?」

「……知っては、いますが。そういう話なら、もう少し後で、伺ってもいいですか? 実を言うと、まだ、薬が抜けていないので」

「おお、そらすまんかった。ほんなら……明日の、夕方くらいにいっぺん呼ぶさかい、調子良かったらまた来てや。今日はゆっくり休んで、な」

「……そうします」

「後で膳も届けさせるし、何か不都合があったら言うてや」

「はい。ありがとうございます」

 再びサグに連れられ、部屋に戻る。

「あ、お帰り。何だったの?」

「ああ。依頼の話」

 言いつつ、アイラは顔を歪める。再び頭に鈍痛が襲ってきていた。

「大丈夫?」

「ん。多分、薬が、効きすぎたんだと、思う。……昔から、たまにあるんだよ。身体が小さいからか知らないけど……強い薬を飲むとね。休んでいれば、治るよ」

 平気そうな口調を装っていたが、目を閉じて顔を歪め、頭を押さえるアイラは、傍から見ても辛そうだった。

 アンジェは少し考え、右手で聖印を握り、左手をアイラの額に当てた。

「我が主よ、我に御力を分け与え給え。彼の身を癒し給え」

 じわりとアンジェの左手が温もる。その熱は、ゆっくりとアイラの頭に広がっていった。

 温もりが消えてからも、アイラは目を閉じたままでいた。

「どう? 少しは、楽になった?」

「うん。すごいな。……ありがとう」

 アンジェが尋ねると、ようやくアイラは目を開けて答えた。それが嘘でない印に、彼女の表情は穏やかになっている。

 実際、『治癒』のおかげで頭痛は消え、頭が重かったのも、楽になっている。

 そのおかげで、どうやら、筋道立てて物事を考える余裕も戻って来ていた。

「私達、どうなると思う?」

「……んー、殺されはしないだろうよ。向こうの目的は、ある程度分かってる。……それに、少なくとも、アンジェの身の安全は、約束させる」

「本当に?」

「……殺すなら、わざわざここまで連れては来ないよ。あの布に、毒でも染み込ませておいた方がずっと早く片が付く」

 そこへ、夕餉の用意ができたという言葉と共に、サグとリル、そしてどういう訳か、ユンムが入って来た。

「邪魔をする」

「ん、あなたが一人とは、珍しい」

「色々と片付けて、暇もできたのでな。お前さんと、一度ゆっくり話をしたいと思ってな」

 口の端を吊り上げて笑うユンムの口調は、街で会ったときとはまるで違う。彼とも付き合いのあるアイラは、こちらの方が彼の素だということを知っていた。

 必要とあらば、ユンムは様々な役を装う。荒くれ者は彼の十八番、他にも薬の行商、旅芸人、冒険家、など、様々な職業になることができた。

 この“化け”の才と、腕が立つことから、彼はジエンの右腕とされていた。

「ま、膳でも囲んで、話をしよう。そっちの聖職者様も、な」

 砕けた口調で膳を示すユンム。

 膳には、白い米の飯、鶏肉の入った根深汁、漬物、白身魚の塩焼き、芋と豚肉の煮物、なます、と、東部でよく食べられている一汁三菜の料理が並んでいる。

 料理が盛り付けられている食器を見て、アイラが眉を寄せる。

「……わざわざ、銀器を?」

「何もないと示すには、これが一番分かりやすいだろう?」

「……確かに」

 銀の器は、灯りを反射して光っている。そこに異常は見られない。

 もしも毒物が入っていれば、銀器は変色するということは、アイラも知っていた。本来ならば陶器の器に盛るものを、わざわざ銀器に盛るということは、それだけ危害を加えるつもりはないということを、ジエンは示したいのだろう。

「冷める前に食べるとしようや」

 ユンムが箸を取り上げる。

 アイラとアンジェの前に置かれた膳には、箸ではなく、フォークとスプーンが添えられていた。食べやすいようにとの配慮だろう。

「聖職者様は、東部の食事は初めてか?」

 食事をするアンジェの様子を見ながら、ユンムが尋ねる。

「はい。でも、美味しいです」

「元締の故郷の、島国の料理らしい。俺も初めは戸惑ったが、慣れると中々いける。ところでアイラ。お前さん、ジョン・ドリスを追っているそうだが、何だってそんなことをしてるんだ?」

 口に含んでいた葱を飲み込み、アイラは少し唸ってから話し始めた。