リントウに着いて

 翌日は、朝から大粒の雨が降っていた。雨具を着込み、アイラとアンジェはマンユエからリントウへ続く道を歩いている。

 道は酷くぬかるんでいて、時々足がずるりと滑る。

 今も、ぬかるみに足を取られ、アイラは少しよろめいた。ぱたぱたと手を振り、倒れないように体勢を立て直す。

「大丈夫?」

「うん。……ああ、東部だと長雨の時期だったな。忘れてた」

 朝から険しい顔だったアイラだが、アンジェに答える声は意外にも落ち着いている。

(リントウに着いたら、あの人の所に行こう。あまり関わるのは良くないけれど、『蛇の道は蛇が知る』だ)

 考えを巡らせながら歩いていると、隣から小さな悲鳴が上がった。

 見れば、アンジェが尻餅を付いている。見事に泥で滑ったらしい。

「……町に着いたら、すぐに宿を探そうか」

「痛たた……。うん、ありがとう」

 昼頃、リントウに着いた二人は、すぐに泊まれる宿屋を探し歩いた。しかしちょうど、リントウでは月に一度の市が立つ日が近付いていたのと、雨に降られて出立を伸ばした旅人が多かったのとで、中々空いている宿屋は見つからない。

 四軒目で、ようやく二人は、空き部屋のある宿屋を見つけることができた。

 泥塗れの服の洗濯を頼み、アンジェがシャワーを浴びている間、アイラは低いベッドに腰掛け、じっと空を睨んでいた。

(ルドルフ・フォスベルイは、必ず見つけ出して始末する。……地の果てまで、追うことになっても)

 彼が生きている以上、ヨークにいるシュリ達に、真の安全はない。それに、変名を使っているとはいえ、商家の人間が裏社会と繋がりがあることが、表の社会に知られれば、何の関わりもないセルマやイルーグが、責任を問われかねない。

 そうなれば、ようやく家族を手に入れたシュリが、マティが、再び家族を失うことになる。ダニエルも、この先、後ろ指を指されながら生きていくことになる。

 全てを失う衝撃は、辛さは、アイラ自身、よく知っている。だからこそ、彼らにそんな思いは、決してさせない。

 ドアの開く音に顔を向けると、髪を湿らせたアンジェが入って来ていた。

「お帰り」

 声をかけるアイラの顔からは、険しさが綺麗に抜け落ちている。

「ただいま」

「……どうだった」

「良かったわよ。あなたも行って来たら?」

「……いや、私は部屋ですませるよ」

「あら、どうして?」

 これ、とアイラは首元を――首元にある刺青を示した。

「人が多いと、絡まれることがあるから。面倒くさい」

 アイラの両腕と首元に入った“門の証”の刺青は、文字が絡み合ったような意匠な上に、かなり細かく入っていることも相まって、傍から見ればかなり異様に見える。

 左腕と首元だけに入っていたときも、公衆浴場を利用していたときに、時折絡まれることがあった。

 そういった場合、大抵絡んでくるのは年配の女で、アイラが去ってからも、ねちねちと陰口を叩いていたものだ。それも、聞こえよがしに。

「そんなに絡まれるの?」

「たまにね。……しかも大体話を聞かずに、自分達の価値観で決めつけるから、余計に面倒」

 アイラの表情に、少しげんなりしたような色が浮かぶ。

 刺青は、アイラのように、宗教上の理由で入れられることもあるし、サウル族のように所属を示す目的で入れられることもある。しかし地域によっては、刺青は罪人の証となる。そのため、場所によっては刺青があるというだけで、白眼視されることがある。

 一度、アイラが中部の町、ファイユに行ったときのことだった。気候のためか、その日はたっぷりと砂埃を浴びたアイラが、それを洗い流そうと宿屋の浴場に行ったとき、湯を浴びていた数人の女が、アイラに刺々しい視線を向けてきた。

――その身体はどうしたの?

――そんなものを入れるなんて。親の顔が見てみたいわ。

――恥ずかしいと思わないの?

――親から貰った身体に傷を付けるなんて。何を考えているの?

――消せるのなら、消しなさい。親御さんだって悲しむわよ。

 初めは無視していたアイラだったが、あまりにもしつこかったため、ただ一言、これは私達には大切なものだ、と言い返した。

 しかし女達はそれで口を閉じはせず、ひそひそと、聞こえよがしに陰口を並べていた。気持ち悪い、おかしいんじゃないの、という言葉が、アイラの耳にも届いていた。

 おかしいのはそっちだと、余程言い返したい気持ちはあったが、アイラはその感情をぐっと押さえて浴場を出た。

 一応アイラにも、騒ぎを起こさないだけの分別はある。腹は立ったが、騒ぎを起こせばこちらが悪者になりかねない、というのは分かっていた。

 この一件以降、アイラはできるだけ、人目を避けて入浴するようになった。“門の証”は彼女にとって忌むべきものではなく、むしろ誇るべきものではあったのだが、余計な面倒を避けるには、そうするのがいいと思ったからだった。

 外では、雨風が強まっていた。難しい顔で、アイラはその様子を見ている。

 大粒の雨が窓を叩き、音を立てて吹く風が窓を揺らす。

 突然強まった雨に、外では人々が慌てて屋内に入ろうとしている。遠目に見ると、市場でも、店先の片付けをしているらしかった。

「しばらく外に出ない方がいいかな」

「あなたが出たら、飛ばされるわよ」

 アンジェの軽口に、アイラは肩を竦めてみせた。