一難去って

 後ろで扉が開く音。

 祈るのをやめて、アンジェが後ろを振り返ると、少し疲れた顔のアイラが、ゆっくりと部屋に入ってくるところだった。ほっと、安堵の息を漏らしかけたアンジェだが、すぐにその顔は凍り付いた。

 アイラの胸から腹にかけて、血で赤く染まっていたのだ。

「ちょ、そこで動かないで! 今治癒を――」

 焦るアンジェに対し、アイラは平然と答えを返す。

「ん? ああ、いらないよ。私の血じゃないから」

 ごそごそとアイラが服を着替える。腹の辺りには確かに大きな怪我はないようだが、数ヶ所、浅手ながら傷があった。

「怪我、してるじゃないの」

「これくらい、すぐに治るよ」

 言いつつ、傷に薬を塗って包帯を巻くアイラ。一通りの手当てを終え、布団も敷かれていない床に寝転ぶ。

「『治癒』は、いらない?」

「ん。わざわざ使わなくていい。もう血も止まってるし。ああ、そうだ、明日、昼には発つよ。用事はもう終わったからね」

 そこへ、サグが夕餉の膳を運んできた。いつもの一汁三菜の膳である。

 アイラはゆっくりと身を起こし、膳の前に座った。アンジェも同じように座り、手を合わせる。

 銀の器に米飯と澄まし汁、焼き魚がそれぞれ盛り付けられている。

 二人が食事を始めて少し経った頃、部屋の外から声がかかる。

 入ってきたのは、難しい顔をしたユンムだった。

「食事中にすまない。ディルを見ていないか?」

 アイラは黙って首を振り、アンジェもいいえ、と答える。

「馬鹿な真似をしないように、監視付きでどっかに放り込んでおいたんじゃなかったのか」

「そのはずだがな、逃げられた」

 アイラが眉を吊り上げる。

「またずいぶん杜撰な見張りだな、それは」

「面目ない。こちらの不手際だ。それと、奴の思考を考えると、お前さんのところに来るはずだ。そのときは、好きにしてくれ」

「……それは、私の性格を知ってて言ってるんだな? 言っておくが、手加減はしないぞ」

「構わん。あの程度の腕なら、いくらでも代わりはいる」

 ユンムの言葉に、一瞬、ジエンの右腕としての、冷酷な顔が覗いた。アイラは素知らぬ顔で、魚を頬張っている。

「だが、元締めの考えはどうなんだ」

「俺と同じだ。主の手を噛むような犬ならば、いっそ処分した方が良い、とよ」

「ならまあ、覚えておこう」

 平気な顔で食事を進めるアイラ。アンジェも呆れ顔を見せたものの、それ以上の反応は見せない。

「こちらの事情で迷惑をかけること、申し訳ない」

 そう言い置いて、ユンムは去って行った。

 その夜遅く、屋敷の一室にアイラとジエン、そしてユンムの姿があった。

「自分が動いてくれたおかげで、助かったわ。これが、取り決めの分や」

 ジエンから渡されたのは、小さな包み。中を開き、金貨が十枚あることを確認して懐にしまう。

「確かに受け取りました。元締、ジョン・ドリスの件で、一つ、宜しいですか」

 静かにアイラが切り出す。

「その件やったら、ユンムからちゃんと始末付けてくれたと聞いとるが、何かあったんか?」

「その前に一つ伺います。元締、彼の名、表と裏、どちらの名で広めるおつもりですか?」

「それは、自分に関わることか?」

 すっとジエンの目が細められた。長年裏の世界に生きてきた者独特の威圧感が、その身体から放たれる。ユンムも、さすがに厳しい目つきでアイラを見た。

 アイラは細い目でジエンを見返した。怯えもなく、気圧されてもいない無表情で。

「私自身に関わるかと言えば、否、ですが、私が関わった、ある家族に関わることです」

 アイラの灰色の目に、強い光が灯る。

「その家族は、裏とは何の関りもない人達です。表で誠実に、幸せに生きている人達です。けれど、血縁が裏に関わっていたとなれば、恐らく彼らも、その責を逃れることはできますまい。つい最近、やっと全員が揃ったばかりの家族が、離れ離れに……あるいは、もっとひどい結果にもなりかねません。ですから……名前を出すのなら、死んだのは、ジョン・ドリスということにしていただけませんか。……ルドルフ・フォスベルイでは、なく」

「それは、こっちに関係のない話やと、言うたらどないする?」

 アイラの表情が引き締まった。

「そのときは、私が毒に変わるだけ、ですが」

 あえて事も無げに、さらりと言ったアイラだったが、その眼の奥に一瞬垣間見えた殺気は、尋常のものではなかった。それに気付いたユンムの背に、冷たいものが走る。

「元締、この申し出、呑んでも良いのでは」

「……まあ、せやなあ。自分には何かとこっちのことに巻き込んどるわけやし、今回だけは、そうしよか」

「ありがとうございます」

 きちんと姿勢を整え、頭を下げるアイラ。その顔は普段通りの無表情で、殺気の欠片もない。

 部屋に戻ると、既にアンジェは眠っている。起こさないように気を付けながら、アイラも布団に身を横たえた。

 目を閉じて、息を吐く。

 そのまま、アイラは眠りに落ちた。

 翌朝、アンジェが起きる気配でアイラも目を覚ました。まだ残る眠気を払いつつ、着替えて身支度を整える。

「ああ、そうだアンジェ。荷物はできるだけ背嚢に入れて背負っておいた方がいい」

「いつもやってるけど……?」

「そうだっけ? まあ、財布以外はしまっておいた方がいい」

「何かあるの?」

「後ろから、飛び道具で狙われても大丈夫なようにさ。昨日の話、聞いてたろ? どんな手使ってくるか分からないし。そうだな、もし、何かあったら――」

「私だけ逃げろって?」

「いや、どうするかは任せる。自分が最善と思う行動を取ればいい。責めはしないから」

 そう、とアンジェが呟いた。何か考えるような呟きだった。

 朝食はいつもの白い米飯ではなく、炊き込みご飯とすまし汁、そして魚の塩焼き。

 野菜と細かく切った鶏肉が炊き込まれたご飯は、口に入れるとふわりと出汁の香りが鼻に抜ける。

 屋敷での最後の朝食を楽しみ、出立の支度も整ったとき、部屋に風呂敷包みを持ったリルが入ってきた。

「今日お発ちだって聞いたんで、これ、お弁当です。途中で食べてくださいな」

「ありがとう」

 受け取って、背嚢にしまう。

「そういえば、これからどこに行くの?」

「さあ……決めてないけど、ヤタにでも行こうか?」

 ヤタとはここからさらに東にある島国であり、いくつか島が集まった小国家群の中では、最も大きな国である。

「ええ、行ってみたいわ」

 よし、と頷いて、アイラは背嚢を背負った。

 ジエンの屋敷を後ろに見つつ、ヤタへ向かう船に乗るために、船着き場へと向かう。

 その途中、アイラの背にさっと冷たいものが走った。