不穏な知らせ
その翌日は朝から冷え込みが厳しかった。そろそろこの辺りでも本格的に冬に入っているのだ。そしてヤスノ峠を越えれば、いよいよ北部地方に入る。
ヴァルがサン・ラヘルで聞いた話に寄れば、北部では、今年はもう初雪が降ったらしい。この冬は例年になく厳しいものになりそうだという噂だった。
アイラも今日はマントを羽織り、いつものように隊商の横について進んでいく。
下草は夜露で濡れ、度々一行の足を濡らす。ひんやりとした感覚が、アイラに昨夜の夢を思い出させた。
神々は夢で自分の言葉を伝えることがあるという。あの夢も、その類だろうか。それにしては尻切れで終わったけれど。
(本当の“門”ならいつでも好きなときに、神と言葉を交わせると聞いていたけれど、完全な“門”でなくても、神は言葉を伝えられるものだろうか)
首を捻ってみても答えは出ない。少し記憶を探ってみたが、それらしいことを言われた覚えもない。
(まあ、今は仕事、だ)
頭を切り替え、周囲に気を配りながら歩いていく。この辺りはまだ見晴らしがいい。だがこれも明日の昼までだ。明日の午後からは山道にかかるから、こうはいかない。
特にヤスノ峠を通るときには、切り通しのとき以上に気を張っていなければならない。盗賊だけでなく、魔物が出るという話だから。
魔物。
ユレリウスにおいて、魔物は決してどこにでもいるような存在ではない。魔物が出た、といってもそれは大抵、熊や狼といったただの獣。
魔物は基本的に、人が立ち入らないような場所にいる。人に手出しをされれば牙を剥くが、そうでなければ危害を加えることはまずない。しかしときに、血に飢えて人を襲う魔物がいる。「はぐれ」と呼ばれるのが、それだ。
アイラは以前、一度だけ「はぐれ」の魔物と出くわしたことがある。まだ彼女が一人旅を始める前、二十歳になってすぐの頃だろう。今のように隊商の護衛をする仕事の途中、不意に襲われたのだ。辛うじて追い払ったが、護衛が一人犠牲になった。
ふらふらと過去に戻りかけた思考を引き戻す。今するべきは護衛の仕事。過去を思い返すのは、後で存分にすればいい。
幾度目かに辺りを見回したとき、アイラは対面から数人まとまってやって来るのに気が付いた。別の商人か何かだろう。
その予想通り、向かいからやってくるのは幾人かの商人の集団だった。しかしどういう訳か、その半分はどこかに怪我をしているようだ。
「ヤスノ峠へ行かれるのかね?」
人々の中でも年かさの男が、バルダに声をかける。
「ええ」
「なら悪いことは言わない。一旦どこか近く……マラトか、いっそサン・ラヘルへでも戻って、回り道して行きなされ。ヤスノ峠は越えちゃあいかん」
「なぜです」
「魔物が、はぐれがおる。我々は一昨日あそこを通ろうとした。そして襲われた。命からがら逃げたが、それでも何人かは喰らわれた」
バルダの顔色が変わる。彼は男に礼を言って荷車を止め、後ろのヴァルの元に走って行った。
「お前さんはどうするんだ?」
話を聞いて、ヴァルがバルダに問いかけた。バルダの顔に迷いが浮かぶ。
これからサン・ラヘルまで戻り、ヤスノ峠を迂回してオルラントまで向かうとすれば、おそらく二週間近く余計にかかる。二週間も遅れれば、元々『雪に埋もれる』と言われる北部に行き着けるかどうか分からない。特に今年は、例年より降雪が早かったのだ。行き着けない可能性は大いにある。そうなれば、バルダにせよヴァルにせよ大損だ。
「ここにいても仕方がない。ここから一番近い町はマラトだ。そこまで戻ろう。今後のことはそこで決めればいい」
ヴァルの言葉に、バルダが一も二もなく頷く。
そして昼過ぎには、一行はマラトに着いた。遅い昼食を取ってすぐ、バルダとヴァルを中心に話し合う。
話は中々まとまらない。誰だって命は惜しいが、しかし損をしたくないのも当然の感情だろう。
アイラはその話し合いを、どこか蚊帳の外の気分で聞いていた。自分の問題でもあるのに実感がない。
結局話はまとまらず、バルダとヴァル、そして護衛の四人だけで話し合いになる。
意見は大きく分けて二つ。魔物の活動が鈍ると言われる早朝に通り抜けるか、マラトからリューズ、ミノア、レサと経由してオルラントまで向かうか。
ヴァルと、意外なことにメオンはどうやら前者の意見らしい。逆にバルダはまだ決めかねているようだ。クラウスは後者の意見を支持し、ライとアイラはと言えばどちらでも構わない、と言い切っていた。
何としても損をしたくないヴァルと、家族のことを考えて渋るバルダ。二人が互いの意見を言い合うのを聞きながら、アイラは別のことを考えていた。
「メオン」
「何です?」
「早朝なら魔物の動きが鈍る、というのは確かなのか?」
「そうですね……。オールド・バースやニコラス、それからルーカルトなんかはそう書いていますが……」
メオンが挙げた名前はどれも、アイラですら名前を聞いたことがあるような冒険者のもの。また考え込むアイラにメオンが尋ねる。
「何か峠を越える良い方法でもあるんですか?」
「……良い、かどうかは知らない。ただ、峠を越えるなら、そのときは私が殿をする。だから万一、襲われたときには私を置いて先に行けばいい」
「つまり、何かあったらあなたを見捨てろ、と?」
質問のような、確認のような口調のメオン。真っ直ぐにアイラを見る彼の表情は真剣そのものだ。真剣すぎるほどに。
「先に行けと言っているだけ。私一人だけなら何とでもなる」
アイラの口調は素っ気ない。どこか上の空なその態度も相まって、自分の命というものを軽視しているようにすら思える。
実際、その場の全員がそう思ったらしい。ライなどは荒い口調で彼女に食ってかかった。
「おい、本気で言ってんのか、それ? やめとけやめとけ。若い女の身で、わざわざ死に行かなくてもいいだろ」
「本気。それに危険だってこともちゃんと分かってる。その上で言っているんだ。それにまだ、行くとは決まってない」
アイラの口調は静かで、その上落ち着いていた。そんな二人の横でクラウスが呆れたように溜息を吐く。
「なー、アイラ。それで生きて帰れる確率、どれくらいよ?」
「……五分」
「そっか」
「お前はお前で軽いな!」
クラウスがくしゃくしゃと金髪を掻き回す。
「そう言われてもライの旦那、アイラはこうなったら絶対意見を変えねーよ? それにアイラは、ちゃんと生き残れる方法とか計算した上で言ってんだし。んで、旦那さん、どうするんです?」
バルダに視線を送るクラウス。このちょっとした討論の間、バルダはじっと考え込んでいた。顔を伏せ、腕を組んで。しばらくして、ようやくバルダはゆっくりと顔を上げた。彼の顔にはありありと緊張の色が浮かんでいる。
「これ以上旅程を遅らせるわけにはいかない。明後日の明け方にヤスノ峠を越えよう。……危険な目に合わせてしまうことになって、すまない」
「何、気に病むこたあありません。俺達の商売なんざ、いつもこんなもんだ」
ライがけらけらと笑う。
「さて、忙しないがすぐに出発だ。頼むよ」
「はい」
全員の声が揃う。
その後、慌ただしく準備を整えた隊商は、夕方近くにマラトを発った。一路、ヤスノ峠に向かって。
→ 峠に至る道