信じる心、疑う心
朝、アイラは目を擦りながらベッドから起き上がった。丁寧に整えられた隣のベッドに、人の姿はない。
(夢、だったのか?)
このところ、ろくに寝ていなかったのと、まともに食事をとっていなかったのとで、アンジェの幻覚でも見たのだろうか。
そんな思いが胸に浮かぶ。
そのとき、先に起きて、身支度を整えていたらしいアンジェが、バスルームから顔を覗かせる。
「あら、おはよう」
「……おはよう」
アイラもベッドから降り、五分とかからずに全ての身支度を終える。
「どうして髪を切ったの?」
「後で説明するよ」
二人揃って食堂に降りる。
朝食のセットを頼んで待っていると、見知った顔が二つ、食堂に現れる。
シュリとマティだ。二人もアイラ達に気付き、隣のテーブルに座る。
食事を待つ間、互いに簡単に自己紹介を済ませたところで、朝食が運ばれてきた。
きめの粗い、堅いパンにチーズを乗せて焼いたものと、薄切りにしたハムが何枚か、そして卵を割り落としたスープ。
分厚く切られたパンはほのかに甘く、少し塩気のあるチーズによく合っている。ハムは口に入れると、鼻に煙の匂いが抜けた。
スープには卵のほか、細く切った野菜が入っている。
湯気の立つスープを飲み干し、アイラはほっと息を吐いた。
まともな食事をしたのは何日ぶりだろうか。腹が受け付けるか、若干不安だったが、今のところは大丈夫そうだ。
「ああ、そうだ。シュリ、マティアス。ちょっと話がある」
「これからか?」
「いや、後で構わない。今日中なら」
「じゃあ、帰ったら部屋に顔出すよ。シュリもそれでいいだろ?」
「うん」
朝食を食べ終えて宿を出て行く二人を見送り、部屋に戻る。
部屋に入るとすぐ、アイラはごそごそと荷物をかき回すと、一枚の紙片を取り出し、アンジェの眼前に掲げて見せた。
「これに、見覚えはある?」
しわくちゃの紙に、乱暴な字で『出て行け』と書かれた紙片。殴り書きのその文字は、男文字とも女文字とも言い難い。
「ううん。まさか、私を疑ってる?」
「ん? 違う違う。筆跡の方に、見覚えがないかと思って」
アイラから紙片を受け取り、じっくりと眺めてみる。太めのペンで、おそらくは左手で書いたのだろう。所々、右に向かって、インクが伸びている箇所がある。
「分からないわ。でもこれ、脅迫、よね?」
「十中八九、脅迫だね」
アイラは平然と、水筒の水を飲んでいる。心底、どうでも良さそうだ。
こちらが大変だと騒いでも、アイラが平気そうな態度を崩さないことは、もうアンジェにも分かっている。
「……それより、何があった?」
そう問われ、アンジェはここ数日の出来事をゆっくりと語った。
アイラは口を挟まず、じっと話を聞いている。いつも通り、口を覆うようにスカーフを巻いているせいで、全体の表情は分からない。
「なるほど、事情は分かった」
ふんふんと、納得したように頷くアイラ。
「それで、脅迫って、どういうことよ」
アンジェに鋭く問われ、アイラは小さく唸ってから、ごく簡潔に、彼女の手持ちの札を明かした。ただ一つ、レヴィ・トーマとの問答のことは除いて。
話を聞き終え、アンジェの顔色が、さっと変わった。
「あなたまさか、イルーグさんを疑ってるんじゃないでしょうね?」
「誰をも、疑ってるのさ。……まあ、子供は外していいだろうけどね」
なおも言いつのるアンジェの言葉を聞き流すアイラの目に、一瞬、嘲るような、羨むような色が浮かんだ。
それを見て、アンジェが言葉に詰まる。
(……甘いな)
胸の内で呟く。
ただ純粋に相手を信じる、信じられる心は、十四年前ならいざ知らず、今のアイラにはない。その心が、時には大きな隙になると、今では知っているから。
とはいえ、イルーグに関しては、アイラ自身、本気で疑っている訳ではなかった。
向こうは、キキミミを使ってまでアイラを探している。となればそんな彼女に同行していたアンジェは、当然、アイラの関係者として扱われる。
事故が本当に事故だったのか、それとも仕組まれていたのかはまだ分からない。
だが、イルーグが“狩り手”であったなら、アンジェをあっさり帰すのは妙だ。今のアイラにとっては、何よりも有効な人質だというのに。
しかしイルーグがフォスベルイ家の人間である以上、安心はできない。
そう思い、アイラはイルーグにも、疑惑の目を向けていた。
「アンジェ」
名を呼び、真っ直ぐに、アンジェを見上げる。
その灰色の瞳は、吸い込まれそうなほど暗く、そして澄んでいた。
「私の眼の届くところにいてくれ……せめて、この町を去るまでは」
アイラの目は真剣だった。
「うん、分かった」
アンジェも、頷いて見せる。アイラはほんのわずか、表情を緩めた。
「当分は、ここにいるよ。後……表向き、外から泥棒が入ったってことになってるから」
「それはいいけど、結局そのルシアって人は今、この宿にいないんでしょう? ちょっと無理があるんじゃない?」
「あるね。でも、女中が泊まってる人間を殺しにきました、なんて言えないだろう? それに、あの女は確実に“狩り手”と繋がってる。警備兵には悪いけど、あの女を捕まえられると、こっちが“狩り手”を辿るのが難しくなる」
アイラの目が、刃のような光を宿した。
アイラはそれ以上、口を開こうとはしなかったが、その表情から、彼女が何を思っているのか、おおよそは分かった。
「ちょっとは加減してね」
「それができるなら、な」
アイラはごそごそと荷物を探り、木切れを削り始めた。
その様子を見て思い出し、アンジェは傷だらけのクアンを取り出す。
「これ……直すのは、無理よね?」
見せて、と言うように、アイラが手を伸ばしてくる。
クアンを渡すと、アイラはいつもするように、あちこちから眺め始めた。やがてクアンを持ったまま、アンジェの方に顔を向ける。
「このクアンは、ちゃんと送った方がいい。今のままだと、次に何かあったら、守りきれないかもしれないから」
アイラは部屋にあった暖炉にクアンを置き、それから削っていた木切れを再び手にとり、もう一つ、クアンと同じ動物を彫り上げた。
『ありがとう、クアン』
アイラは民族語で低く呟き、二つの木彫りを軽く打ち合わせた。コツ、と小さな音。
新しい方を側に置き、暖炉に火を入れる。削り屑やそだをなめ、大きくなった火は、クアンを飲み込んだ。
少しずつ、クアンが燃えていく。
じっと炎を睨みながら、アイラは小声で歌を口ずさんでいた。
いつ知ったのか覚えていないが、いつしか知っていた物語歌だ。
今は昔 一の魔物
沼地の村を襲いたり
村の娘 魔に追われ
森の奥へと逃げこめり
白き鹿 娘を導き
清なる地へと導きたり
黒き魔 娘を追えども
清なる地には入られず
白き鹿 黒き魔を追い
ついには沼に沈めたり
クアンがすっかり燃えてしまい、火が消えるまで、アイラはじっと見守っていた。その肩越しに、アンジェも同じように見守っている。
火か消えてから、アイラは丁寧に燃えさしと灰を始末した。
「はい」
新しく彫ったクアンをアンジェに渡すと、アンジェは怪訝そうな顔で、アイラとクアンを見比べていた。
「また、名付けるの?」
「いや、いらない。同じものだから」
さっきの行動は何の意味があるのかと、アンジェが尋ねると、アイラは記憶を辿るように、小さく唸った。
「バオフ・シェンは、年に一度……それと、形が壊れたときには、ああして新しい……形? 違うか、器? まあいいか。とにかく、新しいものに取り替えるんだ。ずっと変えずにいたら、力が弱まるし、壊れたままだと、次がないから」
「歌ってた歌にも意味があるの?」
「いや。何となく思い出しただけ」
「なあに、それ」
さらりと答え、ベッドに寝転がるアイラと、予想外の答えに思わず脱力するアンジェ。
「それじゃ、またクアンを持ってればいいのね?」
少し経って、アンジェは半分疑問、半分確認のつもりで呟いた。しかし、アイラから答えは返ってこない。
慌ててアイラの方を見ると、いつの間にか、彼女は寝息を立てていた。
アイラの感覚の鋭さからして、今動けば起こしてしまうだろう。無心に眠る顔には、まだ目元に隈が残っている。
その顔色は、多少ましにはなっていたが、それでも決して良いとは言えない。
そっと溜息を吐くと、アイラがむくりと起き上がった。起こしてしまったかと慌てたが、どうやらそんなことはなかったようだ。単純に、目が覚めただけらしい。
軽く目を擦り、窓から外を見たアイラが、そろそろかな、と呟く。
何が? とアンジェが聞くと同時に、部屋のドアがノックされた。
→ 傍にいる理由