別れの夜
「さて、後は私の仕事だ。……もうこれ以上、待たせはしない」
立ち上がり、自分に言い聞かせるように呟く。アンジェが天幕まで戻ってくるのを見ながら。
「中で休んでいるといい」
すれ違いざま、そう声をかける。何も言わずに天幕に入るアンジェ。ちらりとランベルトに視線を送る。アンジェを見ていてくれ、と。視線の意味を正確に読み取ったランベルトは、大丈夫だと頷いてみせた。
(大丈夫。何度も、やったことだ)
“門”を求める人々の声。それに応えるように、アイラはそっと歌い出した。
「ru ria ri rua li lua hua la hu hua ru a hua ia a……」
低い声で歌われるのは葬送歌。死者に自身の死を知らせ、神の元へ向かわせるための歌。
歌う内に、“門の証”の刺青が淡く光り始める。それに呼応するかのように、空中に、淡い紫に光る門が、その姿を見せ始めた。
――“門”だ!
――“門”だよ!
――“アルハリクの門”だ!
喜びの声が上がる。十四年もの間、彼らが待ち望んだものが、ようやく訪れたのだ。
――さあ皆行こう。神の元へ。
誰かの声と、アイラの歌う葬送歌に背を押され、一人がふわりと飛び上がり、宙に開かれた門を潜る。
門に向かう人々の顔は明るく穏やかで、見送るアイラの胸にも、温かいものが沸いてくる。
門の先 伸びる道は
白き川の岸辺に至る
白き川 旅人を癒す
川は全てを洗い流す
手には杖 背には笈
長く遠き道を進みて
至れ 父なる神の元
神は汝を祝福し給う
葬送のときに、いつも歌っていた歌を記憶から掘り出す。門を潜ってからの道程を、死者に伝えるための歌だと言われていた。彼らが迷うことのないように。
一人また一人門を潜り、とうとう、残っているハン族の霊は三人だけになった。灰色の髪の男と、その後ろに立つ結い髪の女、そして、顔立ちがアイラとよく似た、小柄な少年。父のヤノス、母ミノア、兄のオレルだと、アイラはすぐに気が付いた。
オレルはアイラに手を振り、ミノアと共に空中の門へと向かう。アイラも小さく手を振り返した。ヤノスはそれを見送り、音もなくアイラに近付く。
――大きくなったね、アイラ。
「……父さん」
何も言えないアイラ。ヤノスが、生前よくしていたように、アイラの頭を軽く小突く。
――良かった。お前だけでも、無事に生きていて。
「……恨んで、ないの? …………私は、“門”として、するべきこともせずに、逃げたのに」
――大事な娘をどうして恨むと言うんだね? それに、お前はちゃんと、こうして戻って来た。自分の役目を果たすために。
「でも、私は、守ることすらできなかった」
――アイラ。
父の声が、重く響く。
――お前一人が、責任を感じることはない。私達も、お前に……“門”に頼りすぎていたんだよ。“アルハリクの門”は確かに、私達を守るものであるとは言え、私達もそれぞれに、自分自身を守らなければならなかった。だから、お前は悪くない。
その言葉で、重荷が一つ、とれた気がした。一度も口に出したことはなかったが、ずっと気にしていたのだ。一人生き残って、ランズ・ハンを去ったことを。
――そろそろ、行かなくてはな。アイラ、私達はここから去るが、それは私達が永久に消えることにはならない。お前が覚えていてくれる限り。
「なら、ずっと覚えている」
――そうしてくれると嬉しいね。……それじゃ、元気でな。
踵を返し、門へ歩を進めるヤノス。潜る前に振り返り、アイラに最後の笑みを送る。
アイラも薄く微笑んで、父を見送った。ヤノスの姿が門の向こうへ消えると同時に、門も消えていった。
同じ頃、天幕の中にいたランベルトは、垂らされた布の隙間から、アイラがハン族を送る様子を見ていた。
――良かった。
その呟きには、万感の思いが込められている。そんな彼を見ていたアンジェは、思わず彼に問いかけていた。
「あなたは、殺されたことを、恨んではいないのですか?」
――恨む、というか……。彼らを哀れに思いました。元々はあの人達も、敬虔な信者だったのでしょうから。
「私には、あなたの気持ちが分かりません。あんなに残酷に殺されて、それでも恨まないでいられるでしょうか」
――それは人にもよるでしょう。私自身は、同朋を恨んでいないというだけです。例えば彼女なら、また違った答えを返すでしょうね。
ランベルトの視線がアイラに向く。アイラは、アンジェがそれまでに見たことのない、穏やかな表情で魂を送っている。
「あの人は、きっと何とも思わないでしょう。残酷な人ですから」
――それは、どういう意味ですか?
「……私の兄は、アイラに殺されました」
ランベルトが驚いた顔でアンジェを見る。
「アイラは、笑っていました。兄を、殺したとき。兄は“狂信者”だったと、だから殺したのだと、言いました。でも、私にはそんなこと、信じられません。兄の聖印に『読取』を使って、アイラが兄を殺すところは見ましたが、兄が“狂信者”だということを示すものは、何もなかったんです」
それを聞いて、ランベルトがふと考え込む。
――もう一度、読み取ってみてはいかがですか。『読取』というのは、他の二つと比べると、不正確な部分があるんです。特に、残された記憶、或いは感情が強すぎると、その直前からしか読み取れず、情報が歪んでしまったというのは、ままあることです。
ランベルトの言葉に、アンジェは荷物を探って兄の聖印を取り出した。軽く握り、呪文を唱える。普段より長く。
ぼんやりと、聖印に残る光景が目の前に映り出す。
前方に見える、レヴィ・トーマの聖職者達。何をしていたのかと考えて、冬季節の祈りをしていたのだろうと思い至る。
目の前を、アイラが歩いている。巡礼地の様子がはっきりと見て取れるところまで来て、立ち止まったアイラ。その背を突き飛ばす。
――メオン……?
膝を付き、振り返ったアイラがかすかな驚きをその目に浮かべる。すぐにその色は怒りに変わった。
――……そうか、“狂信者”だったのか。
――そのような呼ばれ方は心外ですね。我々は唯一神たるレヴィ・トーマの御心に従っているまで、なのですから。
静かな、聞き慣れた口調の兄の声。
アイラに人殺しだとなじられても、メオンは平然としていた。
改宗を促すメオンと、きっぱりとはねつけるアイラ。
――…………そうですか。なら、仕方ありません。我々はあなたを異端とし、処罰します。
(兄さん!?)
アンジェは耳を疑った。この言葉は、『円環』の神、レヴィ・トーマに反するものだ。他でもない兄が、それを言っているのだ。
アイラの反論を、メオンは涼しい顔で受け流す。
――レヴィ・トーマは唯一にして絶対の神。故に信じない者は異端であり、異端が排除されるのは自明の理と言えましょう。
(違う! 兄さん、どうしてそんなことを!?)
アンジェの声は、メオンには届かない。遂に見ていられなくなり、アンジェは手から聖印を離した。
現実の景色が戻ってくる。
――大丈夫ですか?
気遣うように、ランベルトがアンジェの顔を覗き込む。アンジェは答えず、膝を立ててその間に顔を埋める。
信じられなかった。信じたくなかった。
疑問で頭が埋め尽くされる。
不意に、ばさりと布が動く音。ちらりと見ると、アイラが戻って来ていた。
――終わりましたか。
「ん。……あんたもそろそろ、きちんと逝った方がいい。もし、何か伝えることがあるなら、聞いておく」
――そうですね。ではエヴァンズに、『おめでとう。君に神の加護があることを祈っている』と。
「分かった。伝えておく。アンジェ、」
いきなり名を呼ばれ、アンジェはぱっと顔を上げた。
「この人を、送ってくれないか。私が送るより、同じ宗教の聖職者に送られた方がいいだろう」
「それはそうに決まってるでしょ」
ランベルトに向かって祈りの言葉を唱える。目を閉じてそれを聞くランベルトの表情が、段々安らかなものになっていく。
それと同時に、彼の身体が温かな光を放つ粒へと変わり始める。
――ありがとうございました。
消える寸前、かすかな声が二人の耳に届いた。光の粒となったランベルトの魂は、一つにまとまったかと思うと、短い尾を後に引きながら、天へと昇っていく。
「アイラ、あなた、泣いてるの?」
ランベルトを見送った後で、ふとアイラの顔を見たアンジェが、思わずそんな言葉を漏らした。
その言葉を聞いて、片手を目に当てる。見ると、確かに、手は濡れていた。
「ああ、本当だ」
涙を流すなど、何年振りだろうか。
そんなことを思う間にも、涙はアイラの頬を流れていくのだった。
→ 交わらぬ思い