夢の通い路
その翌朝、一晩中まんじりともしなかったアイラは、誰よりも早く食堂に現れた。普段からあまり良くないアイラの顔色は、今朝は輪を掛けてくすんでいる。それに加えて細く鋭い目の下には、茶の絵具を一はけ、さっと塗ったようなくまもできている。誰かが彼女を見たら、病人にでも見えただろう。しかし自分の見た目について無頓着なアイラは、どれほど顔色が悪かろうが、くまができていようが、これっぽっちも気にしていない。
食事を待つ間に、椅子の背にもたれかかって目を閉じる。眠るつもりはなかったが、昨晩ろくに寝なかったせいだろう、アイラはついうとうとと浅い眠りに引き込まれた。
「食事が冷めますよ」
その声に目を開けると、メオンが向かいに座っていた。気付けば周りの席は埋まり始めている。あちこちで交わされる話し声や食事の音が一緒になって耳に届く。
アイラを見るメオンの口元はいつものように綻んでいる。しかし彼の茶色の目には気遣わしげな色が浮かんでいた。
アイラの目の前には、昨日も食べた黒っぽいパンと水、そしてサービスなのか、カンロ(数種の木の実を甘く煮詰めたもの)が小皿に盛られて置かれている。
「顔色が良くないようですけれど、大丈夫ですか?」
自分を気遣う言葉に、アイラは小さく頷いた。気のない様子でパンを割って口に入れ、水で流し込む。そんな食べ方では味も何も分かったものではないが、寝不足と苛立ちでいつも以上に食欲のないアイラは、こうでもしなければ一欠片も喉を通りそうになかった。
こうして無理にパンを腹に収めたアイラは、カンロにうんざりした目を向けた。それでも一つ口に入れる。
(甘……)
口に入れたことを後悔しながら、アイラは顔を歪めてそれを飲み込んだ。ひょい、とメオンが一つ摘み、アイラと同じように顔を歪める。彼にとってもかなり甘かったらしく、それ以上手を伸ばそうとしない。
「本当に大丈夫ですか?」
「ああ」
低い声で「大丈夫」と付け加える。メオンがアイラに訝しげな視線を向けた。彼の何かを探り出そうとするような視線に、アイラはぷいと顔を背ける。そのままさっさと食堂から出て行く。そんなアイラを見送るメオンの口元には、おぼろに苦笑が浮いていた。
部屋に戻ると、彼女は部屋の一角にある洗面所に入った。洗面台に冷たい水を溜める。大きく息を吸ったアイラは、そこへ乱暴に顔を突っ込んだ。当然顔だけでなく前髪や服も濡れる。しかし少なくとも、気分はいくらかましになった。
洗面所を出たアイラは、ベッド脇のテーブルに置かれた水差しから、コップに水を注いであおった。これでようやくカンロの後を引く甘さが薄れた。
時計を見ると六の刻と四十分。サン・ラヘルを発つのは八の刻だから、まだ時間がある。特にすることもないアイラは、彫り物でもしようとナイフと木片を取り出した。
じっくりと木片を眺めて形を決める。それから余分なところを削り落とす。初めは大ざっぱに、ある程度形ができてからは細かく。
こうした彫り物の技は、アイラがまだ十一になるかならないかの頃、旅先で会った老人から習ったのだ。年をとっても腕の良い職人だった彼は、アイラに必要なことを教えてくれた。木の彫り方。ナイフの持ち方や動かし方。細かいところの彫り方。彫り物に向く木と向かない木の見分け方。
初めの内は、アイラの作る彫り物は不格好なものだった。その上どうかすると自分の手を切ることもあった。しかし今ではもう、ナイフはアイラの手に馴染んでいる。ナイフはアイラの意のままに、木片を削って形を作っていく。
無心で木を彫るアイラの耳に、時計の重苦しい音が届く。七の刻三十分を告げるその鐘を合図に、アイラは身の回りを綺麗に片付けた。
部屋を片付け、身支度を整え、荷物を身に付ける。これだけのことをするのに、十五分とかからない。
時計の針が七の刻四十五分を指す前に、アイラは準備を整えて、宿の前に立っていた。
そうして立っていると、旅人目当ての商人が度々声をかけてくる。アイラは嫌気を隠そうともせず、無愛想に彼らをあしらっていた。
(鬱陶しい……)
やがて人々が揃い、サン・ラヘルを出る。そんな彼らを、一人の神官が見つめていた。手に、陶器の欠片を握り締めて。
床も壁も天井も、全て滑らかな石でできた部屋。短い廊下の先に、燐光にも似た光が漏れる部屋が見える。アイラはそこに、細かい刺繍が施された分厚い衣を着て立っていた。十歳のときの姿で。
(この場所は……)
そっと後ろを振り返ると、今いる部屋と同じような部屋が、細い廊下で繋がっているのが見えた。アイラの中で、予想が確信に変わる。
(やっぱり、“ここ”か)
アイラはこの場所を知っていた。この先起こることも、残らず。
全て放り出して、入り口まで駆け戻ろうか。間に合わせるために。
その思いに反して、アイラの足は奥の部屋へ向けて、一歩踏み出した。床の冷たさが何も履いていない足に伝わる。足はすっかり冷えきっていて、爪先がちくちく痛んだ。
ぺたり、ぺたり、アイラは進む。一歩進むごとに、奥の部屋が近付く。
とうとうアイラは、淡青の光に照らされた部屋に足を踏み入れた。部屋の中央にある、円形の石舞台の前でひざまずく。
やがて衣擦れの音が聞こえ始める。アイラはいっそう頭を垂れ、目を閉じて祈りの言葉を唱えていた。
――顔を上げよ、門の娘。
声に応じて顔を上げ、アイラは声の主を見つめる。声を掛けたのは黒衣を纏う、穏やかそうな雰囲気の男。彼の後ろ、ちょうど一歩下がる位置にはもう一人静かに佇んでいる者がいる。こちらは鋭い、刃物を思わせる雰囲気の男。前で合わせて帯で結ぶ形の衣を着て、帯には剣を一振り差している。東方の島国で使われる、細身で反りのある、刀と呼ばれる剣だ。
黒衣の男が口を開く。
――お前は――
(……え?)
目を開ける。目に入ったのは、天幕代わりの布。
(え、と……あれ?)
きょろきょろと周りを見回す。見えるのは布ばかり。ひとしきり辺りを見回してから、ようやくアイラは、自分が不寝番を終えて眠っていたことを思い出した。
サン・ラヘルを出てから四日。隊商は当初の予想以上に順調な旅を続けていた。道が良くなっていたせいもあるし、良い気候が続くせいもあるだろう。
のろのろと起き上がり、アイラは寝る前に解いていた腰帯をしっかりと巻いた。この帯は中程が幅広く、そこにちょっとものが入れられるよう、袋になっているので、アイラは随分重宝していた。
ふと、見ていた夢を思い出す。夢にしては、ぞっとするほど真に迫っていた。思わず小さく身体を震わせる。
あの夢の場景は、アイラの記憶そのままだ。ただ一つ、最後の言葉を除いては。
アイラの記憶では「お前は――」などと言われなかった。実際に行われたのは、三つ四つの問答と、紋様を刻む儀式。
(父なるアルハリク、貴方は何かを私に伝えたいのですか?)
心の中で問いかける。答えがないのは分かっていた。それでも問わずにはいられない。
簡易な天幕から出て空を見ると、夜は白々と明けかかっている。どこからか、鳥が美しくさえずる声が聞こえ始めた。
(小夜鳴鳥、だったか)
アイラはその鳥を直接見たことはない。しかしいつだったか、聞いたことはあった。
日が昇る明け方に、日が沈む夕暮れに、また月の夜に、美しい声で鳴く鳥がいると。その鳥は灰色で、決して目立つことはない。ただその美しい声だけが、その鳥のいる印になるのだ。その鳥こそが、小夜鳴鳥と呼ばれている鳥なのだ、と。
やがてすっかり夜が明け、小鳥の美しい鳴き声が聞こえなくなってくる頃、彼らは野営地を後にした。
→ 不穏な知らせ