峠に至る道

「アイラさんは、なぜレヴィ・トーマを信じていないのです?」

 その夜、アイラが夕飯代わりの干し果物を噛んでいると、メオンが思い出したように問いかけてきた。

 アイラは小さく口を動かしながら、細い眉をきゅっと寄せた。

 彼女としては、あまり宗教の話はしたくないのだ。何が相手を刺激するか分かったものではない。うっかりレヴィ・トーマ以外の信仰を認めない“狂信者”にでもぶつかれば、レヴィ・トーマの信者ではない彼女は、異端扱いされて殺されかねない。

「……なぜ、と聞かれても。私達はレヴィ・トーマを信じていなかった。それだけ」

「では、何を信じていたのです?」

 メオンの口調はいつも通り穏やかだ。しかしそれを聞くアイラは、鳥肌が立つのを抑えられなかった。

「それを聞いてどうする? 私が……私達が何を信じていようが、別に関係はないだろう? ……それとも、『異端者あり』と“狂信者”共にでも伝えるつもり?」

 思わず大きくなったアイラの声には、はっきりと苛立ちが表れていた。少し離れた所にいる数人が、何事かと二人の方を向く。

 アイラ自身は気付きもしなかったが、彼女の両眼には暗い光が揺れていた。

 メオンが小さく息を呑む。アイラはただじっとメオンを見つめている。何も言わずに。

「……いえ、失礼しました」

 メオンが頭を下げる。アイラは黙ってその場を離れ、再び干し果物をかじり始めた。

 胸の奥に押し込めていた黒い感情が、出口をもとめてうごめく。

 どうすればいいのか分からない。また押し込めることはできる。けれどそれを続けていれば、いつか爆発するだろう。そうなったとき、自分はどうなるのだろうか。

 不安なのか恐れなのか、よく分からない感情が胸に広がる。この新しい感情に対してアイラがとった行動は、ひたすら身体を動かすことだった。

 舞うような動きで拳と蹴りを繰り返す。右手、左足、左手、右足。くるりとその場で回転し、片手で急所を庇いながら、片足で膝蹴りを繰り出す。

 初めて教えられてから、幾度も繰り返したこれらの動作は、とうの昔に身体に染み込んでいる。考えずとも動けるほどに。

 やがてその動作が始まったときと同様に、唐突に静かに終わったとき、アイラを見ていた人々から、わっと拍手が起こった。この、全く考えていなかった事態に、アイラは少しの間、彫像のようにその場に突っ立っていた。

「大したもんだな。誰に習ったんだ?」

「……タキ」

 ほとんど反射的に出した答えが耳に届いたとき、アイラは小さく舌打ちを漏らした。それに気付いた者はいない。

「タキ? タキって、あの、『舞踏士』タキか?」

 小さく頷いて見せたアイラを見て、幾人かからどよめきの声が上がる。

『舞踏士』タキといえば、ユレリウスで知る人ぞ知る格闘家だ。独特の、舞うような動きで相手を撹乱し、その小柄な身体からは信じられぬほどの力で相手を圧倒する。

「タキが、生きているのか?」

「……四、五年前までは生きていた。多分今も生きているだろう」

 アイラは低い声でそれだけ言い、後は言うことはないとばかりに彼らに背を向けて座り込んだ。荷物を探って更に一切れ、干し果物を出してかじる。

 後ろに人の気配。

「本当に、すみませんでした」

 メオンの謝罪にも、アイラは黙っていた。干し果物を食べるのに集中していたせいもある。ややあって、彼女は独り言のように言った。

「私は、自分の信仰について人に詮索されたり、とやかく言われたりするのは嫌いだ」

 メオンは何も言わない。アイラには知る由もなかったが、彼の顔には隠し切れない嫌悪の情が浮かんでいた。

 その内メオンもアイラの傍から離れて行った。アイラは遠ざかる足音を聞きながら目を閉じ、幼い頃から幾度となく繰り返したやり方で、彼女の信じる神、アルハリクに祈る。

 足を組む姿勢に座り直し、胸の前で手を合わせて目を閉じる。そして深々と頭を垂れ、祈りの言葉を唱える。

 動作は全て正しく行ったが、アイラは祈りの言葉を声に出すことはしなかった。他人に聞き付けられたくはなかったからだ。それに一々口に出して言わずとも、アルハリクはちゃんと自分の思いを見抜いている。そう彼女は確信していた。

 ヤスノ峠まではあと二日。魔物が出るという噂のせいか、誰もがひどくぴりぴりしている。誰も歌う者はおらず、愉快に話す者もいない。アイラ自身もヤスノ峠のことを考えると、心穏やかとは言えなかった。

 しかし彼女の緊張は、他の者からすれば軽いものだっただろう。バルダなどは、ヤスノ峠を越えると決めてからここまで、難しい顔をしてどこかを睨むように見つめていた。シアやリュナでさえ、度々不安げな様子を見せている。

 祈りを終え、アイラはやおら立ち上がると、リュナの元へと歩いて行った。

「ニニは持っている?」

「うん、あるよ」

「よし。ヤスノ峠を越えるときに、もし怖かったら、目をつむって、お祈りしながらニニをしっかり握っているんだ。離しちゃいけないよ。大人しく、いい子にしているんだ。いいね?」

「そしたら、だいじょうぶなの?」

「ああ」

 小さく、けれどもしっかりと頷いて見せる。リュナはほっとしたように笑みを浮かべ、リュナを握りしめた。シアも口の端に笑みを浮かべ、娘を抱く。その二人を見るアイラの脳裏には、いつだったか見た絵画が浮かんでいた。

 アイラの記憶が正しければ、『御子を抱く聖母』という題だった。人の腰まであろうかという高さのカンバスに描かれた聖母は、ちょうど今のシアの様に、穏やかな微笑みを浮かべて、その腕に子供を抱いていた。

 

 

 

 そして二日後の早朝、まだ薄暗い中、隊商はヤスノ峠への道を進んでいた。もう少しで峠に着く。

 アイラはクラウスの後ろ、ちょうどヴァルの左側に来る位置にいた。万が一のことを考えて、である。

 ここに至るまで、何人かがアイラの考えを知り、そんなことは止めるようにと再三再四忠告していた。特にライはぎりぎりまでアイラの考えを変えさせようと粘っていた。

 しかしアイラは誰に何を言われようと、決して自分の考えを改めようとはしなかった。意見をしてくる人々に対しては、彼女は黙って首を振るか、二言三言反論した。特に、命を粗末にするなと言われたときには。

 一方で、アイラの頑固なことを知っているクラウスは、このことについて何も言わなかった。性格を考えれば真っ先に止めそうなメオンも、なぜか彼女に意見を加えようとしなかった。二日前のことが尾を引いているのだろうか。

 峠に差し掛かる。道には折れた小枝や枯れかけた葉が落ちている。まるで嵐の後のように。所々、樹皮が剥けた木も見える。

 何がいるかは分からないが、確実に『何か』がここにいる。

 隊商は、彼らにできる限りの静けさを保って峠道を進んで行く。不用意に物音を立てないためだが、そのせいで進みは苛立つほど遅い。

 度々アイラは進みながら後ろを振り返った。峠に入ってから、誰かに見られている気がする。

 ガタリ、と。バルダの荷車の車輪に、道に埋まっていた大きめの石が引っかかり、荷車が揺れる。

「ち、クソッ……」

 それとほぼ同時に、アイラは背後から低い唸り声を聞いた。ちょうど、視線を感じていた方向から。

 考えるより先に、アイラはくるりとその方向を向いた。低木をガサガサ揺すりながら、何かが向かって来る。

 咆哮。

「先へ!」

 言い終わるか終わらないかの内に、アイラに向かって、何か灰褐色の大きなものが飛びかかってきた。