嵐の日

 サウル族やクラウス達がカチェンカ・ヴィラを発った翌日、アイラとアンジェもまた、この町を発った。

 目指したのは、南部の中でも大国とされるリシャーツ王国にある町、ヨーク。カチェンカ・ヴィラからは、どれほど急いでも人の足では二日ほどはかかる。

 それでもヨークを選んだのは、ここに護衛の口入れ屋があるからだった。バルダからの礼金や、ユートから貰った礼金の一部があるとはいえ、そろそろ何か一仕事しないと、余裕がなくなりそうだ。

 アイラはヨークにしばらく滞在し、女二人でも雇ってくれるような護衛の仕事がないか探すつもりだった。

 護衛を一人雇うというのは、距離や規模にもよるが、決して安い出費ではない。そのため、護衛を生業とする人間は、大抵一人で活動している。人数が増えればその分、見なければならない人間が増えるからだ。

 それに加えてアイラは女であるためか、それとも子供にしか見えない見た目のせいか、口入れ屋が太鼓判を押していても、話が決まらない、ということが度々あった。

 ひどいときには、子供に紹介する仕事はないと、門前払いを食ったこともある。

 しかしヨークの口入れ屋には、アイラとも馴染みの人間が何人かいる。門前払いに遭うことはないだろう。

 今、二人はレディングという、小さな村の宿屋に泊まっていた。予定では、今日にはヨークに着いているはずだったが、まだその手前にいるのは、前日からの悪天候が理由だった。

 朝から窓の外では雷が鳴り響き、風が恐ろしいほど唸り、大粒の雨が屋根を叩いている。

 アイラは平然と木切れを削っていたが、本を読んでいたアンジェの方は、雷が鳴る度にぴくりと指先を震わせた。

 ちょうど、アイラが溜まってきた木屑を、部屋の暖炉に放り込んだときだった。

 窓一杯に白い光が広がったかと思うと、腹の底まで響くような音が辺りに響いた。

 アンジェは思わず声を上げて耳を押さえ、アイラも一瞬その場で固まった。

「どこか近くに落ちたな」

 辺りが静かになってから、アイラがぽつりと呟いた。その光景を想像し、アンジェはぞっと身体を震わせた。

「私、小さいときに、家の前に生えてた木に、雷が落ちるの見たことあるの。大きな木だったのに、真っ二つに裂けてしまって」

「……木だと、裂けるらしいね」

 アイラはちらりと窓から外を見て、それから、はっとした顔で、ガラスに顔を付けるようにした。

「どうしたの?」

「……あれ」

 指差した先で、宿の裏手に立っていた小屋の屋根が燻っているのが、アンジェにも見えた。

「あそこに落ちたんだな」

「大丈夫かしら。煙出てるけど」

「この雨だし、大丈夫だろう」

「それもそうね」

 アイラの方は既に木彫りに意識を戻している。アンジェも読みかけのページを探して、再び文字を追っていった。

 夕食どき、アンジェが小さな食堂に降りると、女主人がにこにこと話しかけてきた。

「ひどい天気でございますねえ。春の長雨の時期は、もう過ぎたと思っておりましたのに」

「そうですね。裏手の小屋に雷が落ちたみたいですよ」

「あら、まあ。でもこの雨なら、燃えることもないでしょう。ありがたいこと。何にでも、良いところはあるものでございますね。ところで、ご夕食は何になさいます?」

「お任せします」

「かしこまりました。そう言えば、お連れの方はどうなさいました?」

「もう、降りてくると思います」

 言葉通り、間もなくアイラも二階から降りてきた。

 夕食を待ちながら、アイラはテーブルに頬杖をつき、ぼんやりと空中に視線を向けている。

「どうかしたの?」

「ん? いや、別に」

「お待たせしました」

 その声に、アイラはテーブルから腕を下ろした。

 夕食に出て来たのは、レーズン入りの丸パンとサラダ、そしてシントザ(薄く切ったジャガイモを敷きつめた上に肉とチーズをのせて焼いたもの)という、この辺りで一般的に食べられている料理だった。

 かりかりに焼かれた芋と肉を一度に頬張る。味付けはチーズと塩胡椒だけのはずだが、中々いける。

 レーズン入りのパンも焼かれて間もないらしく、手に取ると温かい。

 夕食を終え、部屋に戻ると、アイラは再び彫りかけの木を手に取った。

 一瞬、アイラの顔が歪む。

「手、治そうか?」

「……いや、いいよ。もう大分治ってるし」

 言いつつ、何事もなかったかのように木彫りを続けるアイラ。

 その様子を見て、アンジェも本を開く。

 木を彫るアイラの様子は、いつにも増して真剣だった。持っている中でも一番小さな、よく切れるナイフを使って、荒く削られた木切れを、滑らかに整えながら何かの形に作っていく。

 度々手を止め、木切れを様々な角度から眺める。

 頻繁に繰り返されるその動作のおかげで、アンジェにも、アイラが何を彫ろうとしているのか分かってきた。

 うずくまる動物。頭は鹿だろうか、角を持つ動物の姿をしているが、身体の部分はどちらかというと獅子や虎に似ている。

 そしてアイラが今彫ろうとしている尾の部分は、どこか蛇に似ていた。

「また、お守り?」

 ん、と答えが返って来る。

 それからもしばらく、アイラは木切れを削っていた。

 外では相変わらず雷が鳴っているが、アイラがそれに気を散らされる様子はない。

「できた」

 ナイフを片付け、木屑を始末する。それを終えると、アイラは木彫りをアンジェに差し出した。

「……あげる」

「これを?」

「ん。お守り」

 木彫りは頭と角の間に上手く革紐が通され、首から下げられるようになっている。

「これも、前に言ってた……何だっけ、守護するもの、なの?」

「バオフ・シェン。……ああ、名前を付けてやって。付けなきゃ働かない」

「どうして?」

 んー、とアイラが唸りつつ、記憶を探る。

「名前そのものは、別に何でも構わないんだ。必要なのは、『名付け』の行為。……名前を与えることで、守るべき主人を明確にし……守護する役目を与える、だったかな。昔、そんなことを言われた」

「名付けが契約に繋がってるってことなのかしら。……ありがとう」

 お守りを受取る。さすがに首から下げるのはためらわれ、一旦ベッドの傍に置いておくことにした。

「名前は…………クアン。クアンにするわ」

「いいんじゃない」

 アンジェの言葉に、アイラは肩の筋肉をほぐそうと、ゆっくりと肩を回しながら答えた。

 その夜、雷のせいで寝付けないアンジェは、隣のベッドで寝息を立てているアイラをぼんやりと眺めていた。

 思えば奇妙な話だ。仇として追っていた人間と、こうして一緒に旅をしている。

 こうなることを、誰が予想しただろうか。

 共にいる時間は、まだ半年にも満たない。

 それでも、アンジェにはこのところ、アイラという人間の、段々深いところまで見えてきたような気がした。

 普通よりもどこかずれていて、変わり者としか思えない。けれど、彼女は真っ直ぐだ。こうと決めたら、それを覆すことはない。場合によっては自分の命すら、平気な顔でかけられる。その覚悟がある。

 自己犠牲は嫌いだと言いつつも、必要なら、アイラは自分が犠牲となることをためらわないのではないか。

 一際大きな雷が鳴る。さすがに目を覚まされたらしいアイラが、寝惚け眼でアンジェの方を見た。

「……寝てなかったのか」

「眠れなくて」

「……まあ、この天気じゃな。でもせめて横になって目を閉じておいた方がいい。身体が休められるから」

「あなたはよく眠れるわね」

「……それができるように、育てられてきたから」

 そう言って、アイラは再び静かな寝息を立て始めた。