巡り会い
ウーロから西に一日ほど行ったところにある、ヘイズの町の宿屋には今、昼時だというのもあって、それなりの人数が入っている。
ドアが軋む音と共に、また一人、客が入って来た。肩を越す長さの、濃い茶の髪をした女である。首からレヴィ・トーマの聖印を下げ、腰には短剣を、手には杖を持っている。おそらく、在家の聖職者なのだろう。
「いらっしゃいませ。お食事でしょうか、それともお泊まりでしょうか?」
主人が愛想良く笑いかける。女は短く「泊まりで」と告げた。
女が戸口から食堂を見回す。食堂はさほど広くないので、どこにいても、ほとんど全体が見渡せる。どこにどんな客がいるか、まで。
やがて女は食堂の端近くに目を留めた。すうっと目を細め、視線の先へと歩き出す。
女が歩む方向にいたのは、灰色の髪を短く切り揃え、頭に細く淡紫のバンダナを巻いた女――アイラ。
「ちょっといいかしら」
氷のように冷たい女の声に、ちょうどケーレン(小麦粉を練って薄く伸ばし、挽肉と野菜を包んで焼いたもの)を頬張っていたアイラは、それを飲み込んでから女を見た。
アイラにとっては初対面の女だが、考え深そうな顔立ちは、どこかで見たような気がする。
「……何の用?」
「尋ねたいのだけど、アイラというのはあなたのこと?」
言葉の内容は質問だが、その口調は断定的だ。
「……そうだけど」
「あなたに、話があるの」
「食べてからでいいなら、部屋で聞く」
女は渋々といった様子で頷いた。
その後、食事を終えたアイラは女と共に、部屋へと向かった。背後からぴりぴりとした気配を感じながら。
部屋のドアを開け、二、三歩、中に入ったとき、彼女の耳は金属の擦れる、小さな音を聞き取った。
アイラが後ろを振り返るのと、腰の短剣を抜きはらった女が踏み込むのがほとんど同時だった。
心臓めがけて突き込まれた短剣を叩き落とし、女の横腹に蹴りを入れる。
女が顔を歪める。アイラはその隙に、短剣を部屋の奥へと蹴り飛ばした。
不意に、アイラの身体が縛られる。
(術か。面倒だな)
女が短剣の方へ向かうのを目で追いつつ、アイラはどうにか身体を動かそうと、全身に力を込めた。
一瞬の後、ガラスの割れるような音と共に、アイラの身体は自由になる。
動けるようになるやいなや、アイラは半分倒れかかっていた女に飛びかかり、床の上に押し倒した。
女の首に手をかける。しかしアイラは手に力を入れることはせず、代わりに低い声で尋ねた。
「何の真似?」
「白々しいことを!」
女が噛みつきそうな顔で睨んでくる。
「何の話?」
「あなた……あなたは兄を殺したでしょう! 私の兄を!」
「……兄?」
「メオンよ!」
その名前を聞いて、アイラはまじまじと女を見た。濃茶の髪と瞳、そして学者のような、考え深そうな顔つきは、確かに彼に似ている。
(そういえば、妹がいるとか言ってたな)
「あんた、名前は?」
「……アンジェ」
アイラはアンジェの首から手を離して立ち上がった。起き上がろうとするアンジェを見ながら、静かに問いかける。
「なぜ、私がメオンを殺したと言える?」
「読み取ったからよ。あなたが兄を殺すところを」
アイラはちょっとの間、黙っていた。それからゆっくりと口を開き、一番気になっていたことを尋ねる。
「……あんた、メオンが“狂信者”だと、知っていたか?」
アンジェの顔が青ざめ、それから憤怒で主に染まる。
「よくも……よくもそんな、ひどい嘘を!」
叫ぶアンジェの様子を、冷ややかな目で眺めていたアイラは、ようやく大凡の事情を飲み込んだ。
アンジェは『読取』を使い、アイラが断刀を使っていた間の出来事を知った。そしてアイラを兄の仇と思い、ここまでやってきたのだろう。
しかし『読取』を使ったのなら、メオンが“狂信者”であると知っていてもおかしくないはずだ。むしろ知らない方がおかしいだろう。アイラも、半分確認のつもりであの問いを掛けたのだ。
だがアンジェの反応が演技であるとは思えない。果たしてこれはどういうことなのかと首をひねる。
「メオンが“狂信者”だったのは事実だ。それでも仇を討つというなら、勝手にすればいい。だけど、抵抗はさせてもらう」
宣言して短剣を返すアイラ。アンジェが短剣をさっとひったくる。
アイラを睨むその目は、敵意に溢れていた。
「“狂信者”なんているはずない」
アンジェの呟きを聞いて、アイラは眉を吊り上げた。
「……そう思うなら、一緒にランズ・ハンに来ると良い」
アイラが一切感情の籠もっていない言葉を返す。
やがて彼女は近くの椅子に腰掛けると、そのまま舟を漕ぎ始めた。アンジェがいることを忘れたのだろうか。
アンジェは短剣を握り直すと、そろりそろりと足音を忍ばせてアイラに近付いた。
短剣を胸に突き刺そうとした瞬間、眠っていたはずのアイラが素早く短剣を払いのける。次の瞬間、鳩尾の辺りに衝撃を感じたのと同時に、目の前が暗くなった。
(さて、どうしようか)
とりあえず、失神しているアンジェを、息が詰まらないようにして寝かせる。放っておいてもそのうち気が付くだろう。
アイラのように、武術を生業とする人間は、顔を知っている相手だけでなく、思いがけないところから恨みを買うことも覚悟しなければならない。そのことはよくわきまえているが、実際に見知らぬ相手から仇扱いされたのは初めてだ。
(やっぱり、メオンを殺していたんだな)
断刀を使った以上、その結果にしかならないことは分かっていた。しかしどうにも実感が湧かない。覚えていないせいだろうか。
(まあ、何とかなるか。多分)
アンジェが薄く目を開ける。椅子に座って自分を見下ろしているアイラと目が合うと、彼女は露骨に顔をしかめた。
「抵抗すると言ったはずだが」
適当に声をかけると、アンジェがものすごい顔で睨んでくる。アイラは軽く肩をすくめ、やおら立ち上がると荷物からナイフと木切れを取り出し、何かを彫り始めた。
アンジェは床に座り込んだまま、そんなアイラをじっと見ていた。
『メオンが“狂信者”だと、知っていたか?』
アイラの問いが、アンジェの頭の中をぐるぐると回っている。
メオンは優しい兄だった。穏やかで、声を荒げることもない。
また、家族の内では最も信仰心が篤く、神学校での成績も良かった。彼を知る誰もが、メオンはいずれ司祭か、司教になるのだろうと信じて疑わなかった。
だからこそ、彼が神殿に入らず、在家聖職者になると言いだしたときには大変だった。父は幾日も兄と口を利かず、母は凄まじいヒステリーを起こした。アンジェですら初めは反対した。
周囲の猛反対にも、メオンは動じなかった。彼は落ち着いてにこにこしながら、自分の主張を少しずつ通していった。
初めは友人達、続いてアンジェ、父、そして母。
なぜ在家聖職者になるのか、とアンジェが尋ねると、兄はこう答えた。
『私はまだ若輩。世の中のことは知らないも同然です。世間知らずのまま神殿で日々を過ごすよりは、今のうちに世界を見ておきたい。それに、この世の中には正しい神の教えを知らない人も大勢います。そんな人達をレヴィ・トーマの元に導く役目を、私は果たしたいのですよ』
そのときのメオンの顔を、彼女は今でもはっきりと覚えている。希望の光を目に灯し、メオンはにっこりと笑っていた。
そんな兄を、目の前の女は殺したのだ。
(兄さんが”狂信者”だなんて、とんでもない話だわ。必ず……必ずあなたを殺して、兄さんの仇を討つ!)
濃茶の瞳に憎しみを込めて、アンジェはアイラを睨み続けた。
→ 旅の道連れ