彼の事情
「まず……切り通しで会ったのは、マドレナ・エレンゼっていって、オレの……まあ、姉なんです。姉ったって腹違いですから、オレにとっちゃ他人みたいなもんですけど。で、その姉が切り通しにいた理由なんですけども、さっさと家に戻って親父の後を継げって言いに来たんです。オレの親父は、グレアム・エレンゼってんですけど、知ってます?」
クラウスの口から出た名前に、知っていたらしいバルダとメオンが目を見張り、逆に知らなかったらしいライが眉根を寄せる。アイラはといえば無表情のまま、水を飲み飲み、彼の話を聞いていた。
グレアム・エレンゼは、今彼らがいる中央地域ではさほど有名ではない。しかし大陸の東部地域、特にメルヴィルを中心とする地域では指折りの資産家として有名である。
三十年前のメルヴィルは、どこにでもあるような寂れかかった田舎町にすぎなかった。そこで生まれ育ったグレアムは、成人した翌日、それまで必死で働いて貯めた金と、若者らしい無鉄砲と、いつか大物になってやるという野心とを友としてメルヴィルを出た。彼が向かったのは、当時はあまり行く者もなく、従ってほとんど知られていなかった東方の小国家群であった。
十年をそこで過ごしたグレアムは、あるとき妻を伴って故郷へ戻ってきた。そしてメルヴィルに新しい産業を興したのである。
それが、チシュの樹液を使った塗り物の生産だ。チシュの木はメルヴィルやその周辺でよく見られる木で、高さはせいぜい大人の腰くらいしかない。実は生っても食用にはならず、何より触れるとかぶれを引き起こすため、生えても全く歓迎されない木の一つであった。
グレアムは東方で、この木と同種の木の樹液に油や着色材などを混ぜたものを木製の器に塗り、美しい光沢を持った器に仕上げる技術を学んでいた。彼はそれをメルヴィルで再現するだけでなく、器にレースなどを貼り付けてから塗りを施すことによって、美しい光沢と繊細な模様を持つ塗り物を作ることに成功したのである。
これによって、メルヴィルは寂れかけの田舎町から新たな産業の町となった。そのため、メルヴィルの人々の暮らしは豊かになった。美しい器類を手に入れることができて買う人の得にもなった。こうして彼はあっという間に一財産を築き上げ、資産家グレアム・エレンゼと呼ばれるようになったのである。
ざっとこれだけのことをバルダとクラウスから説明されたライが目を剥く。その間に一人、考え込んでいたメオンが何かに気付いたらしく、はっと顔を上げた。
「ちょっと待ってください。グレアム・エレンゼに息子がいたなんて、聞いたことがありませんよ」
「へえ、詳しいんだな、メオンの旦那。でも知らねーのも無理はねーよ。オレ、親父の妾の子だし」
苦笑しながらもあっさり言い切るクラウス。メオンがぽかんと口を開ける。そんな彼をよそに、バルダとライが代わる代わるクラウスに尋ねる。
「家を継ぐつもりはないのかい?」
「これっぽっちもありません。人を妾の子だからって軽んじる癖に、いなくなったらなったで掌返して帰って来いって言ってくるような家なんか、いくら積まれたって帰るもんか」
「その気持ちを親父さんは知っているのか?」
「この仕事が終わったら、一度戻ってちゃんと伝えるよ。何言われるか分かんねーけど」
きっぱりと言ったクラウスは、アイラを見て声には出さず、唇を動かした。逃げない、と。
(逃げない、か)
その後、切り通しであったことを詳しく説明しているクラウスを余所に、部屋に戻ったアイラはいつになく難しい顔で物思いにふけっていた。
以前彼の事情を打ち明けられたときの会話を思い出す。
『自分の気持ちを伝える気は無いのか?』
『ほんの少しの間にしたって、あんな家になんか顔を出す気は無いね』
『……逃げるのか』
アイラが思わず零した一言を聞いて、クラウスが射殺すような視線を向けてきたのを、はっきり覚えている。相当腹を立てたのだろう。それから数日の間、クラウスはアイラと口を利こうとしなかった。アイラ自身、強いて話しかけようとしなかったせいもあるが。
クラウスの事情は、アイラにとっては別世界の出来事だ。そもそも他人がどんな過去を抱えていようが、アイラにとっては等しくどうでもいい。つまり興味がないのだ。結局は他人。深く関わることはない。浅く淡く、ほどほどに付き合えれば、それでいい。深く関われば、それだけ情が移ってしまう。
ふわり、と、どこからか薔薇に似た香りが漂ってくる。どこか近くで香を焚いているのだろう。
(……ん? 香の、香り?)
違和感に気付いた。
窓も扉も閉まっている。部屋にも廊下にも、匂いを出すようなものはない。この宿から一番近い香の店は四軒隣だ。こんなところまで香の匂いが届くわけはない。仮に隣の部屋で香が焚かれていたとしても、アイラの部屋まではっきり分かるほど香の匂いが届くなどあり得ない。
ならばなぜ、香の香りがする?
匂いがきつければ辿って探せるが、この香りは弱い。犬ではないアイラでは、匂いを辿って場所を見つけるのは無理だ。
くら、と目眩。目の焦点が合わず、物が二重に見える。
(ただの香じゃ、ない?)
スカーフを巻き直して鼻まで覆う。立ち上がった瞬間、足に力が入らず転びかけた。慌てて椅子を掴んで身体を支える。
大きく息を吸ってから息を止める。ゆらゆらと部屋が揺れている。窓までは十歩もないが、今は酷く遠く思える。
頭が、霞がかったようにぼんやりしてきた。
アイラは時折目眩に襲われてよろめきながらも、ようやく窓まで辿り着いた。バン、と音を立てて窓を開け、荒く呼吸をしながら夜気にあたる。どこかで何かが割れる音が聞こえたような気がした。
しばらくの間、アイラは窓から頭を突き出して肩で息をしていた。それでもさすがに肌寒さを感じ、半分だけ窓を閉める。
目眩もふらつきも消えたアイラの胸にふつふつと沸き上がるのは、見えない相手への怒り。
「陰で動くことしかできない輩が、見下してくれる……!」
ぎり、と奥歯を噛みしめ、窓枠に爪を立てる。スカーフで半ば隠れた顔に浮かぶのは、鬼の如き憤怒の相。
しかしそれをぶつける場所もなく、アイラはただ自分の中に怒りを溜め込む。いつかこの怒りが身を裂きはしないかと、かすかな不安を感じながら。
「アイラ? 入るぞー?」
ノックの音に続いて、そんな言葉が聞こえてきた。黙っていると細くドアが開いて、クラウスが顔を覗かせる。
「お? なんだ、いるんじゃん。いるなら返事くらいしろよー」
「…………悪い。……ちゃんと、言う気になったのか」
「ん? ああ、まあね。あんときは正直腹も立ったけどさ。あれから色々あって、自分でも色々考えたら、やっぱアイラの言った通り逃げてんだなって。行きたくもないとか面倒だからとか理由付けてたけどさ。この仕事が終わったらメルヴィルまで行って、親父ときっちり話つけるよ」
アイラは何も言わず、ただ彼への励ましの意味を込めてゆっくりと頷いて見せた。かける言葉が思いつかなかったせいもあるが、何より、自分の胸の中に今渦を巻いている、やり場のない怒りを悟られたくなかったのだ。
やがてクラウスが部屋を去ると、アイラは目を伏せ、深い溜め息を一つ吐いた。息と一緒にこの怒りも吐き出してしまえるなら、どれほど楽になるだろうか。
しかしいくら息を吐いても、怒りが消えることはない。結局アイラは胸の中に怒りを燃やしたまま、夜を過ごすことになった。
→ 夢の通い路