悪夢
神殿からイルーグと別れ、宿に戻る途中、マティは前を歩いているアイラに目をやった。
今、彼女はどんな表情をしているのだろう。
神殿にいたとき、彼だけは見届けていた。聖職者達を見つめるアイラの目に、親の仇でも見るような、凶暴な光が宿っていたのを。
しかしそれを追求することはできなかった。してはならないような気がしていた。
マティも暢気に生きてきたわけではない。それなりに、人の暗い面も見たことがある。だからこそ、アイラの目に宿っていたのが、憎悪だということに、すぐに気が付いた。
一体何があれば、あそこまで強い憎悪を抱くことになるのだろう。
アイラの過去を知らないマティではあったが、その胸の内には、漠然とした恐れが生まれていた。
一方、マティの気持ちなど知るはずもないアイラは、どういう結果になったのかということを、アンジェから聞いていた。
曰く、エリーザの出生証明書はきちんと保管されていたこと。シュリの持っていた証明書は、やはり正式に発行されたものではないこと。念のため、シュリの実親がいるフィレイン周辺の神殿に、照会するので、二日ほどしてからまた来て欲しいと言われたこと。
「ここからフィレインまでなら、結構距離があるけど、二日で済むのか?」
「十分よ。ちゃんと通信手段があるから」
アンジェはどこか得意げだ。どういうことかと尋ねてみると、一定以上、修練を積んだ聖職者は、『治癒』、『制止』、『読取』に加え、『通話』ができるようになるという。
『通話』は読んで字のごとく、遠く離れた場所どうしで、通信しあうための術である。互いに導とするものが要ることや、使っている間は動くことができないなど、制約は多いが、うまく使えば便利な術だ。
確かにこの術を使えば、距離に関わりなく情報をやり取りできるだろう。
『通話』が使えるようになるためには、少なくとも十年は神殿で修練を積む必要がある。無論条件はそればかりではない。他にも細かな条件はある。
また、『通話』が使えるほど修練を積んだ聖職者は、他にもいくつか術が使える。猛る獣を落ち着かせ、従わせる術、霊を呼び、言葉を交わす術……。
そんなことを話す内に、宿に着いた。ちょうど昼頃でもあり、食事でもとろうかという話になる。
しかしアイラは一人、三人と別れて部屋に戻った。どうにも食欲がわかず、食べる気にならなかったのだ。
ベッドに寝転ぶ。そして、微睡みのうちに、夢を、見た。
鋭い音を立てて、細身の剣が、兄、オレルの背に振り下ろされる。
ふっと光の消えた兄の目と、アイラの目が合った。
手を伸ばしても、指先にすら、触れることはできず。そのまま、兄の身体は、石床の上に倒れ伏す。
赤い血が、じわじわと広がっていく。
傍に立つ、白い衣を着た“狂信者”に、アイラは殺気のこもった視線を向けた。
「断刀」
あっという間に“狂信者”を、物言わぬ骸に変えたアイラは、神殿から外に走り出た。
そのときに、目に映ったのは、地獄と言っていい光景だった。
祝いの宴席は踏みにじられ、あちこちに死体が転がっている。
地面は血で赤く染まり、天幕にも血が染みている。
そして、“狂信者”達は、その衣を所々血に染めて立っている。白い服に散る赤は、そこだけが酷く目立っていた。
――異端者には、罰を。
――異端者には、罰を。
――異端者には、罰を。
「殺してやる……!」
食いしばった歯の間から、低い声が漏れた。
腕から神の太刀が伸び、次々と”狂信者”を屠っていく。刃が肉を裂き、骨を断つ感覚が、腕に伝わってくる。
やがて、立っているのはアイラだけになった。
全身血に塗れたまま、アイラは一人、立ち尽くす。どうするというあてもないまま。
荒く息をしながら飛び起きる。
ベッドについた手は、意識して力を入れていないと、倒れてしまいそうなほどに震えている。
(なぜ、今になって……)
否応なく蘇った、一番思い出したくない記憶に、アイラは顔を覆って呻いた。
「アイラ? 大丈夫?」
聞こえてきた声に、のろのろと顔を上げる。
少し首を傾げ、心配そうな顔で、アンジェが覗き込んでいた。
「……ああ……大丈夫……」
そう答えるアイラは、しかしどこか上の空で、アンジェに答えたのも、どうやらアンジェの言葉をそのまま繰り返しただけのようだった。
「アイラ!?」
強く肩を揺すられ、アイラは何度か瞬いて、きょとんとした顔でアンジェを見上げた。灰色の目が、ようやくアンジェの顔をしっかりと捉える。
「あ……、もう、食事は終わったのか?」
「終わったわよ……。どうしたの、一体」
「ああ、いや、何でもない。何でもないよ。大丈夫」
もう一度、大丈夫、と繰り返そうとしたアイラの額に、アンジェの手が当てられる。
「熱は、ないみたいね」
アイラはむっとしたように唇を尖らせた。それでも本当に不機嫌になった訳ではない。
心配されているのは分かっていた。分かっていながら、それを素直に受けられない自分がいた。
「……大丈夫だよ」
「ならいいけど、無理はしないで」
「ん、分かってる」
まだどこか不安そうに、アンジェが手を除ける。
アイラはベッドから降りると、すたすたとバスルームへ向かった。
服を脱ぎ、シャワーの水量を強めて、頭から冷たい水を浴びる。
ざあざあと、強い雨にも似た勢いの水を浴び続ける。その頬に伝うのは、果たして水ばかりであろうか。
やがて、流石に身体も冷えて来たアイラは、水を止め、タオルで丁寧に身体を拭き、髪の水分も取って、いつもの服装に戻った。
「さて、この二日でどう動くか、考えないといけないな。多分、鍵になるのは、シュリだ」
アイラの目がきらりと光る。
「呼んでこようか?」
「頼む。ついでに、昔の服を持ってきてほしい、と伝えて」
「分かった」
アンジェが部屋を出て行く。シュリは部屋にいたようで、間もなくアンジェはシュリを連れて戻って来た。
「何か、用?」
「ああ。服、見せてもらっていいか?」
首を傾げつつ、シュリは持ってきていた包みを解く。中身は前と変わらず、高級な赤子の服。
シュリに了解を得てから、アイラはまずネルの上着を取り上げた。
平織の、表面が少し毛羽だった柔らかな服地は、特におかしなところはない。
肌着や靴下も、品質のいい、高そうなものだということが辛うじて分かったくらいだ。
しかし、外套を調べていたアンジェが、何やら不審そうな顔をしていることに気付き、アイラはどうかしたのかと声をかけた。
「思い過ごしかもしれないけど、この襟、変に硬いところがあるのよ」
アンジェが示したのは、外套の襟首の部分。布が二重になっているそこは、確かに他より硬い部分があった。
指先に神経を集中させる。どうやら、その異物は楕円形の、極薄いもののようだった。
芯かと思ったが、それにしては形がおかしい。
「これ、ほどいてもいい?」
簡単に事情を伝え、シュリにそう尋ねる。少し悩んで、シュリが頷いたのを見てから、アイラは裁縫道具を取り出した。
丁寧に糸をほどき、異物を取り出す。
部屋の灯りを反射して輝いたそれを確かめた直後、アイラはきりと片眉を上げ、アンジェは絶句、シュリも限界まで目を見開いて、その金属板を見下ろした。
出てきた金属板には、天秤秤を図案化した紋様が上部に描かれ、その下に、飾り文字で何か書かれている。
「“エリーザ・フォスベルイ 聖紀一八五三年五月十四日生”。それにこれ、フォスベルイ家の紋章だわ」
アンジェが、やや震える声で金属板の文字を読み上げる。
それは間違いなく、シュリが、エリーザ・フォスベルイであることの、確かな証明となるものだった。
→ 思いやるゆえに