憎むもの
その日は水曜日だった。
アンジェは朝方、食事をすませると、アイラに先んじて屋敷を出た。
道々、歩きながら、アンジェはアイラと交わした会話を思い返し、周囲に気を配りながらも、半分考えに沈んでいた。
朝、イオリ族の居住地に行く、とアンジェが言い出したとき、アイラはちょうど朝の身支度を済ませたところだった。
意外と言えば意外の言葉だったに違いないが、アイラは普段通り、何とも表情を動かさずにアンジェを見返した。
「別に止めやしないけど、行っても何にもないだろうよ」
「ええ、でも見ることはできるわ。何があったのか、知ることはできる」
「……好きにすれば。でもこれだけは言っておく。あんたが見るのは、前にランズ・ハンで見たような光景だろうよ。彼らは“狂信者”によって殺されたのだから」
それはその通りだろうと、アンジェも思った。それでも、彼女は知ろうと思った。過去に同朋が為したことを。
「……別にあんたの責任じゃないだろうに。あのサ……あいつらの罪はあいつらのものだし……メオンと血の繋がりがあるからといって、あんたにまで罪があるとは思わない」
うっかり「サツグ」と言いかけて、アイラは言葉を切って言い換えた。
「でも、知らないことはもっと悪いから。せめて知っておきたいのよ」
「そうか……。悪いけど、私はついて行かれない。今日は。大丈夫だと思うけど、気を付けて」
アイラの言葉の意味を、アンジェは即座に了解した。
今日は、アイラに「駒が揃った」と連絡されてから二日目。つまりは決行の日。
アイラはいつも通り落ち着いているが、その内心は測れない。
「うん。大丈夫、もう急にいなくなったりしないから。あなたこそ、気を付けてね」
アイラは、スカーフの下で少し頬を緩めた。
「ん。夜には帰るよ」
こともなげなその口調で、アイラに恐れがないことはすぐに知れた。
本当に、夜に帰って来られるのかなど分からない。無傷ではいられないだろうし、冷たくなって帰ってくる可能性だってないではない。
アイラのような人間が、それを知らないはずはない。それでもこうして、呑気とも言える態度を取っているのは、アンジェを安心させるためなのだろうか。
イオリ族の居住地は、町の外にあった。
小さな、椀を伏せたような家が建ち並び、地面は背の高い雑草に覆われている。
その中に一軒だけ、他とは違う建物があった。
黒く焼け焦げた建物らしきもの。今は柱の名残が残るばかりで、元がどんな建物だったかは知る由もない。
柱に触れて、一度深呼吸。目を閉じて、アンジェは『読取』の呪文を唱えた。
その頃、アイラはジエンの屋敷の部屋で一人、座禅を組んで瞑想していた。
周囲の雑音を意識から締め出し、意識を落とす直前、アイラは灰色の目を開いた。
普段なら、アイラは瞑想を途中で止めることはない。本来なら、それはしてはならないから。
それを知りながらも止めたのは、ふと、あることに思い至ったからだ。
(人は死に、身体は埋葬され、その魂は神のみもとに行ったとしても、彼らが最期に抱いた感情は?)
一人だけのものなら、それは時の中に、次第に薄れて消えるだろう。
けれど人の思いは、強ければ強いほど、大きな力となる。特に、それが負の感情であれば、そして何も対処をされていないのならば、積もり積もった感情は、澱み、溜まって淵となる。
感情は、人の目に見えない。故に誰も、この淵に気付くことはない。
だが、澱んだ負の感情は、触れた者に影響を与える。
それに、イオリ族は、レヴィ・トーマの聖職者に殺されたのだ。
(アンジェは今、一人だ)
部屋の時計をちらりと見やる。決行は夜だ。まだ時間はある。
ユンムを探し、少し出かけるが、すぐに戻ると言い置いて、アイラは屋敷を出ると、真っ直ぐにイオリ族の居住地だった場所に向かった。
アイラも居住地には行ったことはなかったが、場所は聞いている。迷うこともなく、アイラは目的地に辿り着いた。
情景が浮かぶ。
人々の生活。何らおかしなところのない、普通の暮らしだ。
やがて現れた、白い衣の集団。以前ランズ・ハンで見た、レヴィ・トーマ神殿の、“狂信者”の一団だと、アンジェはすぐに悟った。
この辺りで妙な病が流行っている。その対策のためだと言われて、半ば強引に追い立てられる人々。集会場として使われていた建物に押し込められる。
そして、火が放たれる。『静止』が使われたのか、それとも人数のせいか、身動きもままならぬ彼らを、火が舐める。
悲鳴。煙の臭い。炎の熱。
服が燃える。髪が焼ける。
熱い。痛い。苦しい。
──助けて!
──熱い!熱い!
──どうして!?
──……い。
──助けて!
──戸が開かないよ!
──……くい。
──誰か!
──憎い!
「アンジェ!!」
悲鳴と怨嗟の間から、一際大きな声がアンジェの耳を打った。
はっと目を開けると、目の前には、どろりとした、いくつもの人間の顔が埋め込まれたような化け物が、その姿を現していた。
肉が焼けるような臭いを撒き散らしつつ、それがアンジェに腕──それを腕と呼んで良いなら──を伸ばす。
状況が飲み込めずに、呆然としていたアンジェを庇うように、小柄な人影が滑り込む。
「円盾」
アイラの右腕に、神の盾が現れる。
「……無事か?」
「え? ええ、うん、でも、何、これ!?」
「説明は後。下がって」
──憎い。
──憎い。
──憎い。
──憎い憎い憎い憎い!
波のように押し寄せる感情に、アンジェは思わず耳を塞いだ。それでも、その思いは伝わってくる。
「断刀」
呟くようにそう言ったアイラの両腕から、広刃の長剣の形を作って、淡い光が伸びる。
「断刀は神の太刀。その刃、理の内にあらざれば、理によりて受けること能わず」
呪文のようにそう呟いて、アイラは断刀を構え、一歩踏み込んだ。
アイラが大きく腕を振り抜いた。刃が空を断つ音が後を引く。
化け物の姿が溶け落ちるように崩れたのを見て、アイラはアンジェの手を強引に引いて駆け出した。
居住地を出て、ようやくアイラの足が止まる。
「何、あれ」
「感情の塊。残っていたんだ。イオリ族が死んでも、彼らが最期に抱いた感情は」
「どういう意味?」
「人間は、想いを遺す生き物なんだと。身体は墓に入って、魂は神のみもとに行っても、感情は残る。使っていたものだとか、大切にしていたものだとか、そんなものに」
それはアンジェも知っている。『読取』は、物に染み付いた感情を読むこともあるからだ。
だが、感情があんな化け物になることは知らない。普通なら、余程強い感情でなければ、薄れて消えるはずだ。
そう言うと、アイラは肩を竦めた。
「そりゃ、普通はね。でも、彼らが最期に抱いた感情は強かった。溜まって澱んで、形を成すほど。何かのきっかけで、ああして現れても、おかしいことはないだろう?」
「何とかできないの?」
「私が? できる訳ないじゃないか。“門”の役割は人と神との仲立ちと、部族の砦であって、ああいうものに関わることはないんだし」
「じゃあ、ずっとあのまま……?」
そうだと頷くかと思いきや、アイラは軽く眉を寄せて、何か考える顔になった。
「どうしたの?」
「いや、あんなに澱んでいたら、もっと早く形をとっても良かったんじゃないかと思ったんだ。まあいいか。私は戻るよ。それと、もうあそこには行かない方がいい」
そう言ってジエンの屋敷の方へ向かうアイラを見送り、アンジェは教会に足を向けた。
人気のない教会は、がらんとしていて寒々しい。質素な内装のせいもあるのだろうか。
アンジェは静かにひざまずくと、手を組んで祈り始めた。
今、自分にできることはこれくらいしかない。アイラのように、武器を取って戦う力は、自分にはない。
アンジェが今できる最善手は、先のように、アイラの弱みにならないこと。
せめて、神に近いこの場所で祈っていよう。
無心に祈るアンジェを、いつの間にか入って来たイヴァク司教が、穏やかな表情で見つめていた。