拠り所

 二階から降りてくると、客間ではサリー夫人とミウが何か話をしていた。どうやら楽しげな話らしく、二人とも笑顔を見せている。

 降りてきたアイラの姿に気付き、サリー夫人がアイラを手招く。

 戸口で少し考えていたらしいアイラは、ミウが重ねて声をかけたこともあって、客間に入ってきた。

 紅茶とケーキを勧められ、席に座る。赤いゼリーを挟んだケーキは、日頃こういったものを食べ慣れていないアイラにとっては、かなり甘いものに思われた。

「お口に合いませんでした?」

 一口食べて、手を止めたアイラを見て、サリー夫人が首を傾げる。

「……いや、美味しい、と、思う」

 甘いには甘いが、嫌な甘さではない。ケーキなど滅多に食べないため、味の優劣も分からないアイラだが、少なくともこのケーキは美味しいと思った。

「良かったです」

 ほっとしたように夫人が微笑む。

「あまりケーキとか食べないの?」

「ん? うん。紅茶くらいは飲むけど」

「確か、旅をしておられるんですよね? でしたら中々こういったものを召し上がる機会も無いでしょうし、ゆっくり召し上がってくださいな」

「……ありがとうございます」

 ケーキを食べつつ頭を下げる。

 それからしばらく、旅の話などをぽつぽつとしながら、アイラはお茶の時間を楽しんだ。

 雪がちらつき始めた帰り道、ミウと並んで帰る。笑顔で話しかけるミウに答えるアイラの顔も、普段より緩んでいた。

 家に着くと、リウは出かけたのか姿がない。夜には帰ってくるよ、とミウは笑う。

「牧師さんと何の話してたの?」

「ん? いや別に。預かり物を渡しただけだよ」

 アイラはコートを脱ぎかけて、左肩の鈍い痛みに一度動きを止めた。そっと腕を抜いて、背伸びをして壁にかける。

「怪我、大丈夫?」

「……ああ。もうほとんど、治ってるんだ」

「そう? ならいいけど、無理しないでね」

 ミウに頷いてみせる。

「そうだ。姉さんが帰って来る前に、夕飯の支度をしておかなきゃ。何か食べたいものはある?」

「え、いや、別に……」

「ならクリーム煮でも作るわね。ちょっと手伝って」

「ん、分かった」

 ミウに頷き、二人で調理を始める。

 クリーム煮を作るとき、野菜と肉、風味付けのハーブを入れて煮るところを、アイラは野菜と肉だけを煮ようとし、慌ててミウがハーブを追加する。

「これ入れないと、味がつかないからね」

「……そうなのか」

「ねえ、アイラ、今まで料理したことある?」

「……たまに」

「どんな料理するの?」

「んー、軽く煮たり、焼いたり」

「味付け、してる?」

「……いや。食べられればいいから」

「それじゃ食事も楽しくないでしょ」

 そう言われ、首を傾げるアイラをよそに、ミウはサラダを作り始めた。アイラはテーブルに食器を並べつつ、ミウに言われたことを考える。

 食事は食べられればよく、楽しむ必要があるとは思わなかった。アイラにとって食事はとりあえず何かを口にすることであり、楽しむものではなかった。幼い頃は楽しんでいたかもしれないが、よく覚えていない。旅を始めてからは、一応食事を取ってはいたが、楽しんだことは一度もなかった。その上食欲がなければ平気で抜くこともあり、まっとうな食生活とは言い難かった。

「ただいま。あら、いい匂い」

 クリーム煮が出来上がった頃、リウが帰ってきた。

 重いコートを脱ぎ、サラダを運んでいたアイラと入れ違いに、リウはサラダを食卓に持っていく。

 ミウも器にクリーム煮をよそい、テーブルに並べる。

「どうだった、姉さん?」

「楽しかったわ」

 笑うリウの顔は本当に幸せそうだ。

 夕食の間も、姉妹はあれこれとその日のことを話している。アイラは二人の話を聞きながら、時折相槌を打っていた。

「そういえば、あなたが手紙に書いてたレヴィ・トーマの聖職者の人は、一緒には来なかったの?」

「……ああ、ちょっと訳があってね、来られなくなったんだ」

 話が尽きてきた頃、リウがそうアイラに尋ねた。アイラはさらりと答えたが、口を開く前に、彼女の灰色の目が陰ったのをリウは見ていた。

「あら、残念ね」

 それ以上のことは聞かず、食事を続ける。話せるならアイラは理由まで話すだろう。アイラが自分から進んで話さないのなら、こちらから聞くことはない。

「今度は一緒においでよ」

「ん? うん」

 サラダを飲み込みつつ、アイラがミウに頷く。それ以上言わないようにと目顔で妹を制すると、ミウは小さく頷いた。

 吹き始めた風で窓が揺れる。外を見ると、雪が降り出しているのが見えた。

「降ってきたな」

「あら。でも吹雪にはならないでしょう、きっと」

 窓から外を眺めていたアイラの呟きに、リウが答える。そうか、と頷いて、アイラは皿に残っていたサラダを一気に口に運んだ。

 夕食後、片付けを手伝ってから部屋に戻る。荷物からナイフと木切れを取り出したアイラは、しばらく手の中で木切れを回転させていた。

 ようやく形を決め、木を削り始める。木工細工に没頭するのは随分久し振りだったが、ナイフの動かし方も木の持ち方も、ちゃんと身体は覚えている。

 膝の上にスカーフを敷き、削り屑が散らないように気を付けながら削っていく。

 いつものことだが、何とも分からなかった木が、少しずつ思った形になっていくのが面白い。アイラに木彫りを教えてくれた老人はまだ元気だろうか。会ったときには、もうかなりの年だった記憶がある。今以上に人と関わることを避けていたのと、もう会わないだろうと思って名前も聞いておかなかったのが、今になって少し悔やまれる。

 人間は好いても、個々人は好きではなかった。今でもそうだ。くくりとしての『人間』は好きだが、個人に特別に感情を向けることはあまりない。アンジェやリウとミウ、それにタキは、数少ない例外だった。

 大勢の中にいても、自分はいつもその輪の外側にいるような気分だった。誰かがわいわいと話すのを、一歩引いて冷めた目と心で見ていた。

 一人で生きていけないのは分かっている。だが――

(私の居場所は、どこにもないんだ)

 内心で呟く。

 リウやミウは温かく迎えてくれた。二人とも、心から歓迎してくれたと分かっている。だがそれでも、一抹の不安が拭えない。自分はここにいてもいいのかという疑問が付き纏い、ふとした瞬間に頭をもたげる。

 自分がこの先、どうすべきなのかも分からない。いつもは何とも思わないが、こんな気持ちになると、深い霧の中を歩いているような気分になる。

 足元しか分からず、一歩先に道があるかも分からない。

「父なるアルハリク、門の娘に道をお示しください。あなたの目が、あなたの手が、我らと共にありますよう」

 木を削る手を止め、祈りを口にする。何もかもが変わっても、この信仰だけは変わることはなく、故にアルハリクは、アイラにとって唯一の支えとなっていた。

(大丈夫、父なるアルハリクは、きっと見守ってくださっている)

 ざわめく心を落ち着かせ、再び木切れにナイフを滑らせる。全体的に角が取れてきた木切れを注意深く見つめながら、ナイフで細かく彫っていく。

 ある程度の形ができたところでアイラはナイフと木切れを置き、スカーフに散らばった削り屑を暖炉に放り込んだ。

 手元を照らすために灯していた角灯の火を吹き消し、アイラはベッドに潜り込んだ。

 

 

 

 同じ夜を、エヴァンズ牧師は牧師館の自室で迎えていた。

 椅子に腰かけている彼の、日頃穏やかな眼は、今は何も映していない。

 力の抜けた手から、黒ずんだ聖印が床に落ちる。その音で、牧師は我に返った。強張った身体をどうにか動かして、聖印を拾い上げる。

 聖印に残る光景を、彼は見た。何の罪もないハン族の人々が命を奪われる様を、そして彼らを庇ったランベルトが、同じ神を信仰しているはずの者達に殺される様を。

 今ならわかる。アイラの憎悪の源が何か。

『ですが、レヴィ・トーマは『円環』の神。その信徒が、まさか……』

 自分の言ったことを思い出し、エヴァンズ牧師は苦しげに顔を歪めた。

 まさか、異端だと言って人を殺すなど。そう言おうとしたのだ、自分は。寄りにもよって、自分の同朋によって一族を皆殺しにされた人間に。

 アイラが見せた憎悪が何から来ていたのか、今はっきりと分かった。

「レヴィ・トーマ。私は何ができるでしょうか。『円環』を作るために、そして同朋の罪滅ぼしに、私は何をすべきでしょうか」

 少し掠れた声での祈りが部屋に響く。

 その言葉に答える者は誰もなく、ただ牧師が祈る声だけが聞こえていた。