掟破りの是非

 早朝、珍しく早く起きたアイラは、部屋でゆっくりと身体を動かしていた。

 まずは手を何度も握っては開き、それから腕をそろそろと動かす。

 腕から肩、肩から上半身、そして最後には全身を使うこの運動は、昔アイラがタキから教わったもので、身体をほぐすにはちょうどいいものだった。

 それでも一通り運動を終えたアイラの額には汗が浮いていて、そのことにアイラは引きつったような苦笑を浮かべた。

(これくらいで汗をかいてたんじゃ、どうしようもないな)

 汗を拭い、水を飲んで、椅子にもたれかかる。まだ病み上がりである以上、無理はできない。

「調子はどうですか」

「あまり良いとは言えないね。まあ、日にち薬で治すしかない。こればっかりは」

 入って来たネズに、振り返らずにそう答える。

「無理はしないでくださいね」

「ん、分かってる」

 素直に頷き、コップに残っていた水を飲み干す。

「ネズ、あんた、今いくつ?」

「へ、僕、ですか? 二十六、ですけど」

 なら良い、と胸の内で呟き、アイラは更に問いかけを続ける。

「二十年くらい前、サウル族はランズ・ハンに来たことがあるか?」

「ええっと……ちょっと待ってください。そうですね…………ええ、ありましたよ。僕も、はっきりとは覚えてないですけど……ああ、確かそのとき、何か事故があったように覚えています」

「そうか。……ユートも、そのとき来てたよな?」

「ええ。それは勿論」

「それと、もう一つ。ユートの顔に、黒子はある? リイシアみたいに」

「ええ、ありますよ。だから、リイシアは長に似ていると良く言われていました。……もしかして、長に会ったことがあるんですか?」

「……どうも、そうらしいね。ありがとう」

 首を傾げながらも、ネズが部屋を出て行く。部屋で一人、アイラは薄く笑みらしきものを浮かべた。

(さて、このことを利用できればいいのだけど)

 しばらく椅子に座ったまま考え込んでいたアイラは、軽く頭を振ると、椅子から立ち上がり、再び身体を動かし始めた。

 汗が出てきたり、息が切れてきたりしたら休み、水を飲みながらしばらく休んだら、また身体を動かす。

 同じ動きを同じ速度と時間で、納得がいくまで行う。自分がもう良いと思うまでは、何一つ変えることはなく。

(……よし。今日はここまで)

 汗で湿った服を脱ぎ、湿らせた布で身体を拭く。

 少し早いが、昼食を食べようかと一階に降りる。食堂はまだ空いていて、空席が目立つ。

 アイラは食堂の隅の、観葉植物に半分隠れるような席に座り、適当な料理を頼んだ。

 やがて運ばれてきたパンを食べていると、ネズが食道に姿を見せた。

 彼はアイラに気付くことなく、何か料理を頼んで待っている。

 その間に、アイラは昼食を終え、皿を返して部屋に戻った。

 荷物の中からナイフと木切れを取り出す。

 木切れにナイフの刃を滑らせる。数日前はひどくぎこちなかった動きだが、今ではだいぶ滑らかに動かせる。

 しかしアイラにとってはまだ、納得できるほどではないらしい。

 むむ、とばかりに眉をひそめながら、慎重にナイフを動かす。

 小さな木屑が、膝に敷いたスカーフの上に落ちる。

 時間をかけて彫るうちに、木切れは徐々に何かの形になってくる。

 やがて彫りあがったのは、細長い魚を模した木彫り。魚の口は身体より細く、長くなっている。

 同じものを更に二つ彫ったアイラは、注意深く魚の口先を尖らせる。

 ペンのように鋭く尖った口先で、試しに人差し指をちょっと突く。

 たちまちそこには、赤い滴が盛り上がった。

(……よし)

 血を拭い、片付けを済ませる。ぐるりと肩を回し、アイラはベッドに寝転がった。

 

 

 

 そして三日後、五人の姿は町の門の傍にあった。

 どうやらこの日は、レンヒルに滞在していた旅芸人の一座が発つ日でもあったらしく、門の周りは人が多い。

「これなら、紛れられるな」

「だろ? んじゃ、行くぞ」

 小声でクラウスと言葉を交わし、五人は芸人達に混じってレンヒルから街道へと出た。と言っても一塊になったわけではなく、クラウスとアンジェが先頭に、そこから見失わない程度に間を開けてアイラとリイシア、その更に後ろにネズと続く。

 しばらくそうして歩き、適当なところで少しずつ合流する。次の町、ネーデルに続く街道も広く、人目も十分あるため、襲われることはないだろう、というのがクラウスの考えだった。

 その考えは的中し、道中、何者かが襲ってくる様子はなかった。

 人の多い場所を、ずっと警戒しつつ歩いたため、クラウスやアイラには疲れの色があった。しかし、ネーデルに着いたことで、もうユレリウス南部には入っている。

 目的地であるカチェンカ・ヴィラが近付いていることで、彼らの胸中には余裕が生まれていた。

 その夜、夕食も入浴も済ませ、後は寝るだけとなったアイラは、しかし寝るにはまだ早いという気持ちから、またナイフで木を彫っていた。

 そこへ、遠慮がちにノックの音がする。

「開いている」

 キイ、と小さくドアを軋ませて、入って来た人影を横目で見て、アイラは片眉を少し吊り上げた。

『何かあった?』

 民族語でそう尋ねると、おずおずと入って来たリイシアは、ぴくりと肩を震わせた。

『うん。あの……ちょっと話したいことがあって』

『ふうん。言ってごらんな』

 アイラに促され、リイシアはぽつぽつと、自分が共通語を使ったことを話し出した。

 アイラは無表情で、その話を聞いていた。

『……なるほど。よくアンジェを連れて来られたものだと思ったけど、そういうことだったのか』

『うん。でも、きっと父様は怒ると思う。掟を破ったことには違いないから』

『別に、話すことはないだろうよ』

 悩むリイシアの言葉を、アイラは一言で片付けた。

『でも……』

『そりゃ、掟は守らなくちゃいけない。でも今は緊急事態だ。掟を守るべきときと、守るべきでないときの区別はつけた方がいい。それにいくらユートにだって、黙ってることを知る術はない』

『うん。黙ってる。それで、いいんだよね』

『少なくとも、今はね。それじゃお休み。明日も早いよ』

『分かった。お休みなさい』

 少女が部屋から出て行く。

「やれやれ。ユート。あんたは長の地位を、何だと思っているんだい」

 呆れたようなアイラの呟き。

 ベッドを降り、アイラは床に胡坐をかいた。ゆっくりと呼吸をしながら、周囲の音を締め出す。

 やがて、座位のまま、アイラは頭を垂れた。