旅の道連れ
翌朝、まだ薄暗い中、街道を歩く二つの人影がある。前をアイラが歩き、少し離れてアンジェが後を追う。
少しずつ辺りが明るくなってくる。今日はどうやら良い天気になりそうだ。
この辺りの道には、歩きやすいように滑らかな石が敷き詰められている。
歩きながら、時々アイラは後ろを振り返ってみた。いつ振り返っても、彼女の何歩か後ろにはアンジェがいる。まるで影のように。
(あの占いは、このことを言っていたのかもしれないな)
それならば、少なくとも一つは当たっていることになる。占いが当たっていようがいまいが、アイラにはどちらでも良いことだが。
あと一つ、ネッセルの町を過ぎればコクレアに着く。コクレアに着けば、ランズ・ハンまでさほど時間はかからない。
ランズ・ハンにいた頃には、半年に一度くらいの割合で、アイラは兄と共にコクレアに連れて行ってもらっていた。
そんなときは大抵、お菓子か玩具を買ってもらった。特にアイラが好きだったのは、リツ(琥珀色の飴の中に、小さく切った干し果物が入ったもの)と呼ばれる菓子だった。普段、果物以外の甘味を口にすることのなかったアイラにとって、リツは特別なものだった。
一日に一つ、と決めて、大切に食べていた覚えがある。
(ランズ・ハンは、どうなっているだろうな)
ランズ・ハンの現状を知る由もないアイラは、暢気にそんなことを考えていた。
がらがらと車輪の音を響かせて、荷馬車がアイラの横を通り過ぎる。この先の町へ――とは言ってもネッセルとコクレアくらいだが――生活に必要な物を届けに行くのだろう。
アイラの後ろを行くアンジェの方は、きゅっと唇を結んで、ただひたすら足を前へ前へと進めることに集中していた。
旅慣れぬアンジェは、アイラの後をついて行くので精一杯だった。特に、ここ数日はアイラに追い付こうと無理に急いだのと、ヘイズに着く直前に靴を取り換えたのとで、足を踏み出す度にあちこちがずきりと痛む。筋肉痛か、靴擦れでも起こしたか、その両方かもしれない。
一晩経って、アンジェの精神はある程度落ち着いていた。兄の仇を討つことは、到底できそうにないということが、今のアンジェには分かっていた。
起きているときは論外、『制止』も破られる、寝込みを襲うのもだめ。不意を打っても返り討ちに遭うだけだろう。
しかし仇を討つのを諦めたわけではない。
メオンが“狂信者”だったなど以ての外、そもそも“狂信者”など、本当に存在するはずはない。レヴィ・トーマの聖職者に罪を着せるための、異教徒の策略に決まっている。
『我らが神の御名を、汝等の行為の免罪符としてはならない』。神学校で、神殿で、いの一番に叩き込まれる言葉だ。“狂信者”が出ないようにする戒めとして。
そしてレヴィ・トーマの聖職者は、この言葉を常に心に留めておかねばならない。
アンジェは勿論この言葉を心に留めていた。その上レヴィ・トーマの聖職者ならば、誰しもそうだろうと思い込んでいた。
前からかすかに鼻歌が流れてくる。アンジェには耳慣れぬものだ。
人を殺した人間が、なぜこんなにけろっとしていられるのだろう。最も、目の前の女はあれほど残酷なことができる人間なのだから、まともな神経ではないのだろう。
アイラがアンジェの方に振り返り、初めて足を止めた。アンジェが少し近付くと、アイラは前を向いて再び歩き出す。
段々アンジェは足を引き摺り始めた。そしてとうとうその場に座り込む。
それに気付かず歩いて行くアイラ。アンジェはぎり、と奥歯を噛み締め、杖を頼りに立ち上がった。
少し進むと、アイラが立ち止まっているのが見えた。
「疲れた?」
「別に。平気よ」
ふうん、と呟くアイラ。昼にしようか、と続ける。
道端で休みつつ保存食を食べる二人。
「足が悪いのか」
「いきなり何なの?」
尖った声を返す。
「……歩きにくそうだったから」
ぼそりと呟かれた言葉に押し黙る。気付いていたのだろうか。
足の痛みを見抜かれたのが、何となく悔しい。
「肩、貸そうか」
「いらないわよ!」
アイラは特に気を悪くした様子もなく、保存食の残りを飲み込んで立ち上がる。アンジェも立ち上がろうとして、足に走った痛みに顔を歪める。
それを見ていたアイラは、何やら荷物を探り始めた。真新しいスカーフを一枚取り出し、ナイフで細く裂く。
「靴、脱いで」
「何をするつもり?」
「早く」
不機嫌な表情を隠そうともせず、アンジェは渋々靴を脱いだ。見れば、足には二、三水膨れができ、靴と擦れていたかかとは皮がむけている。
見ると余計に痛みが増した気がする。
アイラは何か考えつつ、また荷物を探って、小箱とマッチを取り出した。小箱はどうやら裁縫箱らしい。
マッチを擦り、裁縫箱から針を一本取り出して先を火で炙る。火を消すと、アイラは手早くアンジェの両足の裏にできていた水膨れを潰し、包帯を巻くようにスカーフを巻いた。
「ま、さしあたりこれでいいだろう」
軽く手を払って立ち上がるアイラ。それでも歩き出そうとはしない。
アンジェが靴を履いて立ち上がると、ようやくアイラは歩き出した。
直接靴と足とが擦れることがなくなったせいか、痛みはあるものの、さっきよりは歩きやすい。しかしそれがアイラのおかげだというのが、アンジェにとっては不愉快だった。
(放っておけばいいのに)
アンジェには、アイラが何を考えているのか分からない。だから余計に苛々する。
小さく舌打ちを漏らし、アンジェは歩くことに集中した。
ネッセルの町についたときには、既に辺りは薄闇に包まれていた。どうにか宿は取れたが、部屋は二人で一つだ。
アイラはさっさと準備を整え、風呂に入りに行った。部屋に一人残されたアンジェは、靴を脱いで、『治癒』の呪文を使う。
ずきずきとした痛みが引いていく。水膨れもまた治って。
ごろりとベッドに横たわるアンジェ。それからさほど時間も立たないうちに、疲れが出たのか、アンジェはぐっすりと眠っていた。
一方その頃、アイラはのびのびと手足を伸ばして湯に浸かっていた。腕と首元の刺青は異様にしか見えないが、そんなことを気にするアイラではない。そもそも、今は一人だ。気にする者などいはしない。
ようやくゆっくりする時間ができた。一日中後ろから突き刺すような視線を感じていたのだ。一人でいられる今くらいは、のんびりしてもいいだろう。
アイラ自身、まさかアンジェと共にランズ・ハンに行くことになるとは思いもしなかった。アンジェに“狂信者”の存在を否定され、思わず言葉が口をついて出てきたのだ。
アンジェにどう対応するのか、アイラは未だに決めかねていた。少なくとも、殺されるつもりはない。しかし逆にアンジェを殺すつもりもない。
アイラにとって一番良いのはアンジェが諦めることだが、それが無理なことも分かっていた。
今のアンジェにとってはきっと、アイラを殺すことが生き甲斐だろうから。そうでなければわざわざ、どこにいるのか分からないような相手を追いかけては来るまい。
(多分、アンジェも北部にいたんだろうな。でなければ追っては来られないだろうし、こんなに早く追い付きもしないだろうし)
風呂から上がると、アンジェは既に寝ている。アイラも空いている方のベッドに入る。
どれくらい経ったのだろうか。ふとアイラは目を覚ました。辺りの暗さからすると、まだ真夜中なのだろう。
すぐ近くで、すすり泣く声がする。それがアンジェのものだと気付いたアイラは、目を閉じて狸寝入りを決め込んだ。
「……兄さん……」
嗚咽の混じるアンジェの泣き声。
(最後に泣いたのはいつだったっけ)
十四年前の、あの出来事があってからは、泣いた記憶はない。泣くほど激しい感情に、心を揺さぶられたこともない。
(やっぱり、どこかおかしいのかもしれないな、私は)
寝返りを打って目を閉じるアイラ。彼女の頭からはもう、アンジェのことは消えていた。
→ 衝突