最初の決心

「アイラはどうしてこんなところまで来たの?」

 ミウの問いに、夕食を終え、熱い茶を飲んでいたアイラはその手を止め、ミウの方に顔を向けた。ミウは頬杖をつき、少し顔を傾けてアイラを眺めている。

 アイラが双子の家に運ばれて来てから五日。まだ本調子ではないものの、弱っていた身体はだいぶ元の調子を取り戻している。縫った傷の糸が抜けたのは今日のことだ。

 そしてこの五日で、アイラは双子の性格をおおよそ掴んでいた。リウが穏やか、ミウが快活。性格に少しばかりの違いはあれど、二人とも親切だ。レヴィ・トーマの信者ではあっても、狂ってはいない。

 このことは、アイラに少なからず安心を与えた。狼の牙から逃れた代わりに、熊の穴に飛び込んだのではないかと、彼女は内心冷や冷やしていたのだ。

 唇を湿し、ぽつぽつと経緯を語る。隊商の護衛でオルラントまで来たこと。そのときに、共に護衛をしていた男に、祈りに行くのに付き合ってくれと頼まれたこと。案内されるまま、巡礼地まで行くと、そこには“狂信者”がいて襲われたこと。その男も狂信者だったこと。異端審問で殺されそうになったこと。辛うじて“狂信者”を退け、逃げてきたこと。

「ふうん、そういう訳だったの」

 ミウが呟き、腑に落ちた様子を見せる。

「それで、これからどうするつもり?」

 ミウの問いに、アイラは考え込んだ。旅烏のアイラの暮らしには、特に決まった予定はない。足の向く方に行き、必要があれば商人や隊商の護衛で金を稼ぐ。

「もう少し、動けるようになったら、どこか……気の向く方へ行こうとは思っている」

「それはそれで良いと思うけども、ねえ、いっそ冬の間はこの家にいらっしゃいよ」

 この思ってもみない提案に、アイラは承知とも不承知とも言いようのない目で二人をじっと見た。ミウは微笑み、リウは初めこそ妹の言葉に驚いたような顔を見せたものの、すぐに小さく頷いて妹の言葉に付け足す。

「ここらじゃオルラントみたいな大きな町にしか宿屋は無いし、峠は雪で埋まっちゃってるだろうし、吹雪だって来るし。とにかく、冬の最中に出ていくのはよしなさいよ」

 アイラは、テーブルの木目を見つめながらどうすべきかと考えていた。アイラの記憶には、メオンのことがまだ生々しく残っている。しかしリウの言葉が正しいことは、アイラにも良く分かっていた。

(生きるためにはどちらを取る?)

 アイラは胸の内で自分に問うた。これは選択に迷ったとき、アイラがいつも取る手だ。一日でも長く生きることは、物事への執着が非常に薄いアイラの、唯一つ譲れないことだから。

「……それが、迷惑に、ならないなら」

「よし、なら決まり!」

 ミウが手を叩き、嬉しそうに笑う。アイラは黙って頭を下げた。

 それからしばらく経って、洗い物をしているリウの後ろから、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。

 肩越しに振り返り、アイラが座っているのを認める。少し顔を俯けて暖炉の火に照らされているアイラの様子は、人間と言うより人形のようだった。

「どうかして?」

 リウの声に顔を上げるアイラ。だらりと垂らしていた右腕を持ち上げ、掌に握っていたものをテーブルに落とす。火に照らされた三枚の金貨がきらりと光った。

 いきなり目の前に三ジンという大金を出され、リウはぽかんとして金貨とアイラを交互に見た。

「……何かと、入り用だろうから」

 アイラが、つと金貨をリウの前に押しやる。しばらくはどちらも話さず、動きもしない。

「お金はいらない、って言っても、引っ込めてくれなさそうね。……分かった。預かっとくわ」

 金貨を取り上げ、エプロンのポケットに入れる。

「それじゃ、お休み」

「ん。お休み」

 アイラがゆっくりと立ち上がり、右足を庇いながら部屋に戻る。その姿がドアの向こうに消えると、リウはポケットの上から金貨に触れ、小さく吐息を漏らした。

 寝る前、二階の粗末なベッドの上で、リウはミウに金貨を見せた。ミウもまた、呆れた顔で金貨を見る。

「どうするの、これ」

「預かっとく、って言ったわ。引っ込めてくれなさそうだったし」

 金貨をしまい、ベッドに潜るリウ。ミウもまたベッドに入り、目を閉じた。

 それと同じ頃、アイラは部屋の床に座り、アルハリクに祈りを捧げていた。

「父なるアルハリク。門の娘に道を開いてくださったこと、感謝いたします。どうかこれからも、あなたの目が私の上にありますよう」

 感謝を述べ、祈りの言葉を唱える。祈りを終えると、アイラはその場で目を閉じて息を整え、無音の闇へと意識を落とした。

 

 

 

 神殿の中に複数の足音が響く。走ってくるのは兄と、白い衣に身を包んだ、見慣れぬ男女。

 焦りと恐怖を顔に貼り付けて、兄が何か叫ぶ。それを遮って、背後の男がその手に持っていた細身の剣を振り下ろす。

 自身の血溜まりの中に伏す兄。そしてそれを呆然と見ていたアイラにも、鋭い刃が迫る。

 金属音。刃が折れ、石の床に落ちる。次の瞬間には、淡く光る刃が男の腕を、その付け根からすっぱりと切り落としていた。

 残る者たちも剣を構えたが、光る剣は、熱したナイフでバターを切るように易々と彼らの身体を両断した。

 神殿から飛び出す。そこはアイラの知る平地ではなく、どこかの林の中だった。

 風の音にも似た咆哮を上げながら、魔物が飛び回る。既に一人がその爪牙にかかり、地面に倒れていた。

 魔物の姿がかき消える。はっと思ったときには、白い牙の並ぶ真っ赤な口が、アイラの眼前に迫っていた。

 アイラはそれをただ眺めていた。一欠片の恐れも感じずに。

 そして、彼女の頭が噛み潰されるかと思われたとき、アイラは右手をさっと動かした。手から伸びていた光の刃が、魔物の下顎を切り飛ばす。

 魔物は突如、その牙の半分を失い、また先のように吼えることもできなくなった。だが果たしてそれに魔物が気付いたかどうかは分からない。なぜなら次の瞬間には、アイラの左手の刃が、流れるような動きで魔物の頭を胴から切り離していたからである。

 魔物がさらさらと白い灰になって消えていく。白い灰は巻き上げられ、地に広がっていく。生えていた木は色を失い、冷たい灰色の石碑となって佇む。

 灰はいつしか雪へと変わる。雪の中に、両腕をだらりと下げて立つアイラの周りには、六人の男女が――“狂信者”が――立っている。

 一人また一人、アイラの振るう刃に倒れていく。やがて立つのは二人となった。アイラと、茶の髪を纏め、恐怖を顔に貼り付けた男と。

「あなたは、何者ですか」

 恐怖に満ちたその問いは、アイラにもはっきりと聞こえた。男の顔を正面から見る。怯えきったその顔が誰のものなのか、そこで初めて気が付いた。

(……メオン……?)

 アイラはぱっと目を開いた。窓の外では夜が明けかかっている。ほとんど一晩中座り込んでいたために、身体はかなり強ばっている。

 ゆっくりと立ち上がり、身体をほぐす。左腕は動かすとまだ痛みがある。

 既に夢はアイラの記憶から消え、ただ何か夢を見たという記憶だけが残っていた。

 

→ 変化の種