森の中の死闘

 ノドの森は静かだった。それこそ、静かすぎるほどに。

 森の中は意外にも明るく、開けている場所が多い。もっと木が生い茂っているのかと思ったのだが。

(……開けているのは、道が通っているからだろうが……まずいな)

 嫌な予感が増す。開けているとは言え、森の中では、身を隠そうと思えばいくらでも隠せる。異様なまでの静けさも妙だ。普通なら、鳥の声くらいは聞こえるはずなのに。

 まるで、森自体が何かを恐れて、息を潜めているようだ。

 追手のことを考え、アンジェとリイシアを先に歩かせる。

 足音だけが、静かな森に響いている。誰も、口を開こうとする者はない。

 心臓が痛いほど鳴っている。

 どれほど歩いただろうか。不意に、アイラはぞわりと総毛立つような感覚を覚えた。

 次の瞬間、空を切る音と共に、打矢が飛んでくる。それとほぼ同時に、五人の男――スル、オド、ナユル、エト、ヨーグ――が姿を現す。

「走れ!」

 打矢を叩き落とし、アンジェとリイシアに向かって叫ぶ。

「でも、アイラは――」

「いいからさっさと走れ! そう言ったろうが!」

 それを聞いて、アンジェはリイシアの手を掴み、脱兎のごとく駆け出した。それを追おうとするエトに向けて、アイラは玉破を放つ。

 玉破は狙い違わずエトに当たり、彼は苦痛に顔を歪めてうずくまる。

「二人を追うのは、私を倒してからにしろ」

 灰色の瞳できっと五人を睨みつける。

 アイラの目は、彼らの額に、赤で消されたサウル族の紋様を認めていた。

 邪魔になる荷物を道端へ落とし、構えを取る。その姿は、アイラが容易にあしらえるような女ではないことを、男達に教えていた。

 アイラに殺気を向けながら、真っ先に踏み込んだエトの短剣を危なげなくかわし、その腕に手刀を叩き込む。

 呻き声と共に、エトの手から短剣が落ちる。

 それを蹴り飛ばそうとしたアイラだが、そんな彼女めがけて、今度はスルの短剣が突き込まれる。

 大きく飛び退き、片手でスカーフを外す。激しく動くのには邪魔になるそれを外すと、首元の“門の証”がわずかに覗いた。

「お前は“アルハリクの門”か」

「……そうだよ。それがどうした」

 ヨーグの問いに答えると、周囲から失笑が起こった。

 嘲りのこもったその笑いに、アイラの中で怒りが燃える。しかし彼女は努めて冷静に、男達の振るう短剣を避け続けていた。

 五対一。加えて相手は、自分よりも大柄な男ばかり。冷静にならなければ、こちらの命がない。

 ヨーグの攻撃をかい潜り、そのすねを思い切り蹴り飛ばす。

 苦鳴をあげ、足を抱えるヨーグ。

 男達は焦りを感じていた。アイラが女だということで、彼らは完全に侮っていたのだ。

 アイラが“アルハリクの門”だということは知っていても、大した腕ではないだろうと思っていた。そしてアイラが、かつて『舞踏士』と呼ばれたタキの教えを受けていたことなど、知る由もない彼らは、アイラの体術に押されつつあった。

 オドの鋭い突きをかわしざま、その腹に前蹴りを放つ。アイラの爪先が、オドの腹にめり込む。

 同時に、背後から殺気が迫る。とっさに身を翻し、避けようとするアイラ。

 が、避けきれなかった。ナユルの振るう短剣が、アイラの左の肩口を、浅く切り裂く。

 鋭い痛みと共に、傷口の周りが鈍く痺れ始めた。

 にやり、とナユルが笑った。

「この短剣にはトルグが塗ってある。お前はもう――」

 ナユルの顔面に、飛び上がるようにして拳を叩き込む。顔面を鼻血まみれにしたナユルが怒声をあげた。

「待ち伏せの次は毒か。貴様ら卑怯者には似合いのやり口だな」

 憎まれ口を叩いてはいても、アイラの状況はいいとは言えない。

 トルグというのがどんな毒かは知らないが、おそらく、人の命を奪えるようなものだろう。

(大丈夫、まだ動ける)

 そう自分に言い聞かせる。

 怒声をあげ、短剣を振りかざして襲い来るナユルの股を気合いと共に蹴り上げる。

 悶絶し、うずくまる彼の身体を、馬跳びの要領で飛び越え、アイラは奥にいたエトめがけて踊りかかった。

 最小限の動きでそれを避けるエト。反撃とばかりに、鋭い音を立てて短剣が振るわれる。

 服の胸元が真一文字に裂け、その下の皮膚をも裂く。

 人の隙間を通り抜け、だっと木立の中へ駆け込む。それを追う男達の目の前に、木を支点に身体を回転させたアイラが飛び出した。

 虚を突かれたエトの腹を殴り付け、横にいたスルに飛びかかる。

 しかしその攻撃は、読まれていたのかあっさりと流される。大きく隙ができたアイラの右足に、鋭い痛みが走った。誰かに斬り付けられたのだ、と理解する。

 痺れはじわりじわりと広がっていく。早晩、毒は全身に回るだろう。

 それでもアイラの瞳から、意志の光が消えることはない。

(こいつらに、二人を追わせはしない)

 右足の痛みを堪え、両腕をだらりと垂らす。

「断刀」

 アイラの口から言葉が零れると同時に、首元の刺青が一瞬、ぼう、と光を放つ。彼女の両腕からは、淡い光が集まったかのような、広刃の長剣が伸びていた。まるで、腕と刃が一体化したかのように。

 横薙ぎに振られた神の剣が、鋭い音を立てる。次いでアイラは呆気に取られていたエトを、足で押すようにして蹴倒した。

 ごろり、と首が転がる。呆然とした表情のまま。

 男達が絶句する。その隙を、アイラが逃すはずはない。

 スルの方に向き直り、左腕を振り下ろす。直前で気付いたらしい彼が短剣を構えるが、もう遅い。

 振り下ろされた剣は、スルの身体も構えた短剣も区別することなく、頭から足にかけて、綺麗に真二つに切り割る。

 吹き出す血が、アイラの身体を赤く染める。

 しかしそれには一切頓着せず、アイラは残る三人に顔を向けた。

 一歩、無造作に距離を詰める。以前のような狂気の表情はないとは言え、血塗れで、毒が回りつつあるにも関わらず、真っ直ぐに立っているアイラに、男達は気圧されつつあった。

 それでも、気合い声と共に、オドが飛びかかる。

 高い音を立てて、毒に濡れた短剣と、神の剣がぶつかり合う。

 オドの行動に勇気づけられたかのように、ナユルとヨーグもまた、アイラの死角から短剣を突き入れようとする。

 オドの短剣を弾いたアイラは、身体を捻りながら右腕を一閃させた。胴を両断されかけた二人が、慌ててアイラから距離を取る。

 アイラの呼吸は荒い。痺れはさっきよりも広がっている。果たしてあとどれくらいもつだろうか。

 一歩踏み込み、オドの間合いに入る。オドは一瞬目を見開き、それからにたりと笑った。

(馬鹿め。自分からやられにくるとは)

 オドが真下に短剣を振り下ろす。アイラは逆に、下から腕を振り上げた。

 オドの腕が短剣ごと切り飛ばされる。次の瞬間には、オドは心臓を断刀で貫かれ、事切れていた。

 残されたナユルとヨーグは、一瞬視線を交差させた。二人は既に、目の前の女に恐れを感じていた。しかし戻ることは許されない。

 ヨーグは獣のような叫び声を上げ、アイラに向かって行った。アイラはそれに反応し、体勢を変えようとしたものの、彼女の身体は大きく傾いた。

(ち、ここでか……!)

 痺れと怪我で、思うように身体が動かなくなってきている。

 地面に倒れながらも、何とかヨーグの短剣を避けようと、身体を捩る。しかし短剣の刃は、アイラの脇腹に傷を付けていた。

 その代償に、ヨーグの命を支払って。

 アイラの身体の上に、斬首されたヨーグの身体が倒れかかる。

 ただ一人、残ったナユルは顔色をなくしながらも、落ちていたエトの短剣を拾い、両手に毒の短剣を構えて、立ち上がるアイラと向かい合った。そのまま、地面を蹴って一息に距離を詰める。

 二度、三度、二人の持つ剣がぶつかり合う。二人の動きは絡み合い、まるで舞のような流れを形作る。

 アイラの顔は苦しげに歪み、神の剣も、辛うじて短剣で受け流せる速度でしか振るえていなかった。が、追い詰められていながらも、諦めの色は、アイラの顔にはなかった。

 ナユルはそんなアイラの様子を、驚きを持って眺めていた。

 ここまで追い詰められれば、普通は諦めや絶望の色を浮かべようというものだ。怪我に加えて、かなりの量のトルグが身体に入っている。本来なら、ろくに動けるはずもないのに。

 アイラは今や、ほとんど意志の力だけで身体を動かしていた。呼吸はますます荒くなり、視界も歪み始めている。

(父なるアルハリク。あなたの傍に行くときが来たと仰るならば、どうかこの男を倒せるだけの力と時間をください。残しておく訳には、いかないのです)

 胸の内で祈る。

 祈りを終えたとき、アイラの振るう刃は、先ほどよりもほんの少し、早さと鋭さを増していた。

 攻撃のきっかけがつかめず、押されかけていたナユルの足が、何かにつまずいた。アイラが落としていた荷物である。

 大きく姿勢が傾き、隙を作る。

 その隙をついて、断刀が突き出された、

 胸を貫く淡い刃と、それを振るう“門”の娘を見たのが、ナユルの最期だった。

 そして、森は静けさを取り戻す。

 足元に転がる五つの死体に目を向けず、アイラは近くの木にもたれかかり、そのままずるずると座り込んだ。

 息が苦しい。視界が狭い。

 毒のせいで、ほとんど全身が痺れている。そのせいか、痛みはろくに感じていない。

(このまま……死ぬのか)

 喘ぎながら、アイラはぼんやりとそんなことを考えていた。

 死ぬことは、恐ろしくなかった。ただ、戦う術を知らぬアンジェと、まだ子供でしかないリイシアのことが気がかりだった。

 草の揺れる音。

「しっかり……しっかりしてください! 僕の声が聞こえていますか?」

 知らない男の声が、遠くから聞こえてきた。

 暗く、狭い視界では、誰なのか知ることはできない。

 呼びかける声を聞きながら、アイラの意識は闇へと落ちていった。