白き川の岸にて

 アイラが我に返ったとき、彼女は闇の中にいた。目を開いているのか閉じているのか分からなくなるほどの、深い、濃い闇が彼女を包んでいる。

 何か冷たいものが、アイラの身体を滑っていく。

(……水?)

 手で掬うと、零れた水が落ちる音が耳に届いた。肌に触れる、ひんやりとした感覚が心地良い。

 流れにさらされるうちに、アイラの頭は少しずつぼんやりとしてくる。自分が誰なのか、何をしていたのか。確かにあったはずの記憶も、段々と薄れていく。

 それを恐ろしいと思う気持ちすら、するするとほどけて消えていく。

 その場に膝を抱えて座り、身体を水に沈める。

 長く息を吐き出すと、身体から力が抜けていく。

 そうする内に、闇に目が慣れてきたのか、それとも闇が晴れてきたのか、少しずつ周囲が見えるようになってきた。

 川の両岸は白い石が敷かれ、その石がうっすらと光っているように思える。

――…………て……

 かすかに、どこかから声が聞こえた気がした。

 アイラは水に浸かりながら、小さく首を傾げる。

(気のせい?)

――……っ……て……

 再び聞こえる声。何度も何度も、切れ切れに言葉が耳に届く。

(うるさいな)

 煩わしげに顔をしかめる。

――……も…………っ……て……

 少しずつ、声がはっきりと聞こえてくる。聞こえる声を鬱陶しいと思う反面、アイラは無意識の内に、声に耳を傾け始めていた。

 何となく、聞いたことがある声のような気がする。いつ、どこで聞いたのかは思い出せないのだが。

――……も……ど……って……!

(……戻って? どこに?)

 アイラの脳裏に次々と、断片的な記憶が浮かぶ。

 静かな雪原、人の行き交う市場、エリヤの木、古びた天幕、淡青の光に照らされた部屋、開けた森の中。

 メオン、リウ、ミウ、アルハリク、アンジェ、ランベルト、クラウス、リイシア。

――こっちに戻って来て!

 記憶の流れがおさまると同時に、はっきりと声が聞こえた。

 アイラの目が見開かれる。

(そうだ……戻らないと。ここでゆっくりしてはいられない)

 立ち上がり、そして途方に暮れる。気付いたときには川の中にいたアイラには、来たときに通った道が分からない。どの方向へいけばいいのか分からない。

 困って、水の中で佇んでいると、ふわりと甘い香りが漂ってくる。

 アイラはこの香りに覚えがあった。甘い香りに記憶が刺激される。

(エリヤの、花?)

 脳裏によぎる記憶。ランズ・ハンの近く、かつて“おまじない”で名を彫ったエリヤの木に花が咲いたときにはいつも、この香りが辺りに漂っていた。

 辺りを見回すアイラの目に、点々と光る、白が飛び込んできた。その方向を見ると、四つの人影がぼんやりと見えた。

 人影の方向に向かう。近付くにつれ、人影の様子が掴めてきた。

 アイラと同じ年頃の男が三人、女が一人。男の内一人は、アイラとよく似ている。

 岸に近付いたとき、不意に水の勢いが強まる。水のことなど、全く意識していなかったアイラは足を取られ、流れの中に倒れかかった。

 しかし倒れるよりも早く、アイラの腕は誰かにしっかりと掴まれる。

 顔を傾けて見上げると、自分とよく似た、灰色の髪の男が彼女の腕を掴んで支えていた。

「……兄さん?」

 アイラの呟きに、灰色の髪の男は口元を緩めた。

 兄の手を借りて立つ。水の勢いはまだ強いが、手を貸してくれている兄のおかげで、もう倒れるようなことはない。

 兄に手を引かれ、人影の元へ向かう。ようやくアイラにも、人影が、兄オレルとかつての友人達――ローン、ルフ、アデ――だと飲み込めた。

 四人の身体の所々には、白い五弁のエリヤの花が飾りのように絡んでいる。気付けばアイラの身体にも、同じ花が絡んでいた。

 しばらくの間、五人は互いに顔を見合わせていた。

(この間の夢と同じだ)

 そんなことを思うアイラの額が、軽く小突かれる。

――川に入ったら駄目じゃないか。

 たしなめるようなオレルの言葉に、アイラは肩を竦める。

「ここは、どこ?」

――門を越えた先、白き川の岸。

 ローンの言葉に、アイラは一瞬目を見開いて、それからゆっくりと更に問いをかける。

「……なら、私は死んだの?」

――そうさせないために、僕らはここにいる。

「……どういうこと?」

 ルフの答えに首を傾げるアイラ。

 オレルが笑う。年齢はアイラとほとんど変わらぬくらいになっているが、その笑顔はアイラの記憶にあるものと変わらない。

――向こうに帰るための道がある。今ならまだ、間に合う。まだ、アイラは生きられる。

「……本当に?」

――あら、私達が嘘ついたこと、あった?

 少し拗ねたようなアデの言葉に、首を横に振る。

 それでも、その言葉をすぐには信じられなかった。

 毒にやられ、倒れたときには既に、アイラは死を覚悟していた。このまま魂が、アルハリクの元へ行くのだと思っていた。

 心残りはあったけれど、どうしようもないと諦めていた。

――どうする、アイラ? 君が生きたいと望むなら、門の前まで案内しよう。

 オレルが手を伸ばす。アイラは一瞬も迷うことなく、その手を取った。

(生きられるなら、それに越したことはない。それにまだ、死ぬわけにはいかない)

――よし、じゃあ、行こう。でもいいかい、絶対に振り返ったり、戻ったりしちゃいけないよ。

 手を引かれて歩き出す。

 歩きながら、アイラは気になっていたことを尋ねてみた。

「さっき、呼んでくれたのは、アデ?」

――うん。届いて、良かった。

「ありがとう」

 アイラの呟きにアデが微笑む。未だに笑うことはほとんどないアイラだが、このときは友人につられて思わず笑みを浮かべていた。

 足下が、滑らかな地面から、ごろごろとした石が転がる道に変わる。

 アイラも注意していたものの、転がっていた石につまずく。

――おっと。気を付けなよ。この辺りは大きな石もあるから。

「うん、ありがとう」

 道を進むにつれ、アイラは石につまずくことが増えてきた。視界が段々狭まっていくような感覚に襲われる。

 四人の姿はしっかりと見えているが、自身の足元はほとんど見えない。

 思わずそのことを口に出すと、片手を握っているアデの手に力が入った。

――死者ほど、この辺りの風景ははっきり見える。アイラの目が見えなくなってきているのは、アイラが生に近付いているからだ。

 ルフがアイラの呟きに答える。

 不意に、ローンが注意を引くように、アイラの肩を軽く叩いた。

「何?」

――ほら、向こう。見えるだろ? もうすぐだよ。

 示された方向に目をやると、ぼんやりした光が見えた。あの光の中を通って行くのだろう、というのは、アイラにも察しがついた。

 光までは、思っていたほど遠くはなかった。

――さて、僕らに許されたのはここまでだ。

――元気でね、アイラ。

 ルフとアデの言葉に頷く。

――アイラ。

 兄の声が真剣なものに変わる。アイラもまた、兄の顔をまっすぐに見つめた。

――覚えておいて。僕らは死んだけれど、僕らの心はいつも傍にいる。絶対に、心が離れることはない。

「うん……覚えて、おく」

――それじゃ、アイラ。また会おう。君が父なる神の元へ召されるときに。

「うん、また。……多分、かなり待たせるけれど」

――それで良いんだよ。僕らはずっと、ここにいる。だから、急がずに、ゆっくりおいでよ。

 オレルの言葉に頬を緩めて、アイラは光へと向き直った。最後に一目、後ろを見たいと思う気持ちを抑え、光の中へと飛び込む。

 瞬間、アイラの視界が白に染まった。