聖印の記憶
陽の元で見るランズ・ハンへの道は、夜に見たよりも荒れているように見えた。邪魔な草を引き抜いたり、切り払ったりしながら道を辿る。
やがて、エリヤの大木が見えてきた。
休憩も兼ねて、木の下に座る二人。よく見れば、木の表面には、古くなってはいるが、あちらこちらに名前が彫られている。
その中に、覚えのある名前もあった。
アデ、ローン、ルフ、オレル、そしてアイラ。
顔を近付け、指で辿りながら名前を読む。一人一人の面影が、アイラの脳裏に浮かんできた。
頼りになる兄だったオレル、優しくて泣き虫だったアデ、真面目で、でも何かあればすぐに飛んで来たローン、食いしん坊で、五人の中で一番腕っ節の強かったルフ。
『満月の夜、エリヤの木に名前を彫った仲間は、心が離れることはない』
それはハン族に伝わる古いおまじない。彼らもそれを知り、夜中にこっそりとここまで来て、それぞれの名前を彫ったのだ。
夜中に家を抜け出し、名前を彫っているときの、胸が躍る感覚は、今でも覚えている。帰ってから、それぞれの親に叱られたものだ。
『皆が心配するから、もうこんなことをしてはいけないよ』
そう言った父親、ヤノスは、後でこっそり教えてくれた。まだ若い頃、自分もこのおまじないをしたのだと。
アイラ以外にはもう誰も生きてはいないけれど、本当に今でも心は繋がっているのだろうか。
(でも、思い出すことも、なかった)
そう思うと、胸が鋭く痛んだ。ハン族のことを思い出すと辛くなるからと、彼女は過去から目を背け、記憶に鍵をかけていた。そのことを、改めて突き付けられた気がした。
エリヤの木を過ぎ、石塔の間を抜けて、ランズ・ハンに足を踏み入れる。
「ただいま」
当然ながら、アイラの言葉に答える者はいない。
十四年間誰も住まず、放っておかれたために、地面には雑草がはびこっている。張られている天幕の中には、何が原因なのか、潰れてしまっているものもある。
すたすたと歩いて行くアイラ。彼女とは対照的に、アンジェはその場に突っ立ったまま、周りを見回した。あちこちの天幕をじっと見て、アンジェは思わず息を呑む。
ほとんどの天幕に、赤みがかった茶色い染みがある。
(これ……血?)
まさか、という思いで染みを見つめるアンジェ。そっと手を伸ばし、布を引っ張ると、あっさりと布はちぎれ、切れ端がアンジェの手に残った。さほど力を入れたわけでもないというのに。
アイラはと言えば、少し奥まった場所にある天幕に向かうと、布をめくって中に入った。一旦顔を出し、アンジェを手招く。
アンジェがそれに気付いたのを確認してから、アイラは天幕に引っ込んだ。
天幕の中は広く、地面には布が敷かれ、一角には地炉が切られている。奥の方は布が垂らされて区切られている。
(十四年振りだな、ここも)
天幕の中は、幸いなことにアイラの記憶と何も変わっていなかった。しかし手入れはされていないため、張られた布はかなり傷んでいる。
(一晩くらいなら、大丈夫……だといいけど)
隅にあった箒を取り上げ、おざなりに埃を払う。やがて、横になってもどうにか大丈夫な程度には、綺麗になった。
荷物を全て下ろし、身だしなみを簡単に整える。
「今から神殿に行くけど……ついて来る?」
「神殿?」
アイラは答えを待たず、さっさと天幕から出て行った。ぽかんとしていたアンジェも慌てて後を追う。
道とも言えない道を歩くこと、約五分。二人の目に、石造りの建物が飛び込んできた。扉はなく、代わりに何かの場面らしいレリーフが施された石壁と、奥に向かって動かせるようになっている、一本の棒があるだけだ。アイラは棒に手をかけ、渾身の力を込めて動かした。
棒が少しずつ動くのにあわせて、地響きのような音を立て、石壁がゆっくりとずれる。
そしてとうとう、壁だったところには、人一人、入れるほどの隙間が開いた。
呆気に取られるアンジェの目の前で、アイラは靴を脱ぐ。
「……この先は、私しか行かれない。今は」
アイラの姿が闇に消える。再び、重い音と共に、隙間が少しずつ閉じていく。やがて隙間はなくなり、後には呆然と立つアンジェが残された。
アンジェは恐る恐る手を伸ばし、石壁に手を触れてみた。壁はひやりと冷たく、滑らかだ。
神殿までついて来たものの、アンジェにはこれからどうしようという考えはない。ただ何となく、ハン族の集落が、彼女には薄気味悪く思われたために、こうしてアイラについて来たのだ。
敷かれた石床に腰かけ、溜息を漏らす。
自分は何をしているのだろう。“狂信者”だと言われ、貶められた兄の仇を取るのではなかったのか。
“狂信者”がいないと思うなら、ランズ・ハンに来ればいいと言われ、こうして来てはみたが、レヴィ・トーマの信者どころか、ハン族の人間も誰一人いない。
(何がしたいのかしら、本当に)
視界の隅、草むらの中で何かが光った。探してみると、レヴィ・トーマの聖職者が身に付ける、金の輪が二つ連なった聖印が落ちていた。傍には切れた鎖もある。
(誰のかしら)
聖印は風雨にさらされたせいなのか、それとも別に原因があるのか、表面の一部に黒いような染みが浮いている。
ふと好奇心を起こし、アンジェは聖印を握ると、『読取』の呪文を唱えた。
初めのうちは、見えるものには何らおかしなことはなかった。
和やかな宴。一体何の宴なのか、アンジェには分からなかったが、それがひどく大切なものであるらしいというのは分かった。
やがて和やかだった空気は一変する。白いローブをまとった一団が現れ、突如としてハン族を襲い始めた。
聖印の持ち主の驚愕と焦りが、アンジェにも伝わる。
――“狂信者”!?
(そんな、まさか!)
幸いに襲撃を逃れた二人の子供と共に、持ち主は神殿への道をひた走る。
――早く、早く、知らせなければ……!
しかし“狂信者”は三人を見逃しはせず、すぐさま追ってくる。近付いて来る足音。
鋭い音。あ、という声と共に、横を走っていた少年の一人が倒れる。鮮血が地面を染めていく。とどめとばかりに、倒れた少年の心臓に剣が突き立てられた。
――ルフ!?
そう叫んだ灰色の髪の少年にも、容赦なく刃が振るわれる。
――何をするんだ!
とっさに少年を庇う。背に鋭痛。読み取っているアンジェにも、その痛みが伝わる。
――おじさん!
――早く知らせに……!
少年はこくりと頷くと、神殿への道を駆けていく。残された彼は、血を流しながらも二人の“狂信者”の行く手を塞いだ。
――こんなことはやめるんだ。
――異端者を庇うか。
――異端に組するならば、お前も処分する。
感情のない声。細身の剣が向けられる。
(何なの……。狂ってる)
読み取りながら、アンジェは恐怖におののいていた。“狂信者”。その呼び名の通り、彼らは狂っている。自分達の考えに沿わないならば、それが同じレヴィ・トーマの信者であっても殺すと言うのか。
――彼らは……異端ではない。貴方達、こそ……。
彼は言葉を続けることはできなかった。空を切る音と共に、胸元を深々と切られる。
視界が一気に傾き、そのまま地に倒れる。
遠ざかる足音。更に横を通り過ぎるらしい何人かの足音を、彼はぼんやりと聞いていた。
――止めなければならない。道を外れた彼らを。
刻一刻、死に近付きながらも、彼は残る力を振り絞って、少しずつ地を這って行った。
胸の傷は深い。背の傷だけなら治療もできるだろうが、今となってはそれも無理な話だ。
動く度に身体に走る痛みを気付けの代わりにし、遠のく意識を無理矢理繋ぎ止める。一刻も早く、彼らを止めなくては。
むっとするほどの血の臭いが漂っている。自分のものか、それとも他人のものか、それさえ分からない。
不意に、襟元を掴まれて強引に立たされる。耳元で、低く囁く声。なぜかそれは、はっきりと聞き取れた。
――見るがいい。これが異端の末路だ。
視界に、血塗れで倒れ伏す、人だったものが映る。ハン族の神官達だ、と、霞む頭で理解する。
――貴方達は……間違っている。
荒い息と共に、やっとのことで言葉を発する。
――レヴィ……トーマ、は……このような……ことを……許し、は……し、な……。
腹に熱。口の中にもせり上がってきた血を感じる。思わず吐き出すと、温かいものが口から胸へと伝って行く。
何か言われているのは分かったが、彼の耳にもう言葉は届かない。ただ、自身の最期が近付いているのは分かった。
――レヴィ・トーマ。どうか、彼らに今一度、道を示し給え。
その祈りを最後に、彼の世界は閉ざされた。
アンジェの手から聖印が滑り落ち、石とぶつかって音を立てる。次いでその身体が傾いだかと思うと、意識を失ったアンジェは横ざまに倒れた。
それとほぼ同時に、ちょうど聖印が落ちていた場所に、黒い長衣の人影が現れた。
→ 力ノ試