芳香

 船を降りると、潮風が吹き付ける。船着き場があるのはカヤノ市の隣、アマガ市。乗合馬車でカヤノ市まで向かい、そこからカズマの家に向かう。

 カヤノ市はセタ川に二分される扇形の町で、それぞれ東区、西区、と呼ばれている。カズマの家は、東区の中心街にあった。

 川があるために、カヤノ市ではまず石垣を作り、その上に家を建てる。水害の被害をできる限り防ぐための知恵らしい。

 カズマの家も例に漏れず、重ねられた石垣の上に建てられている。

「狭い部屋で申し訳ありません。後ほどお部屋を整えますので、夕飯まではこちらでおくつろぎください」

 客間らしき部屋に通される。八畳程の部屋で、縁側から庭を見ることができる。

 庭には池がしつらえられ、鮮やかな色をした魚が泳いでいるのが見えた。

 カズマは狭い部屋だと言っていたが、二人でいるには十分な広さがある。

 部屋は小奇麗に片付いていて、家主の気性がそこからでも伺えた。

 しかしアイラにはただ一つ、気になることがあった。

(この匂いは……)

 香でも焚いているのか、甘い香りが家に入ったときから鼻についている。香に良い思い出のないアイラは、スカーフの下でむっとした表情になっていた。

 しかしアンジェの方は、香りは感じているものの、さほど気にならないらしい。

(考えすぎ、か?)

 良い思い出がないから、変に勘ぐってしまうのだろうか。

 そう思いつつ、とりあえず荷物を片隅に置く。

「どうしたの? 難しい顔して」

「いや。……どうにも気に入らなくてね」

「何が?」

「色々と」

「考えすぎじゃない? そんなに悪い感じはしないけど」

 そうかと首を捻る。そう言われたらそうかもしれないと思うものの、棘のように違和感が残る。その違和感の正体を探ろうとしてみたが、どうにもつかめない。

 しばらく他愛ない話をしていると、カズマが夕飯の支度と、部屋が整ったからと呼びに来た。

 アイラとアンジェのそれぞれが案内された部屋も畳敷きで、廊下とは襖で仕切られている。部屋の隅には布団が畳んで置かれ、その傍には寝巻だろうか、白い着物がこちらも畳んで置いてある。

 入って正面には円形のはめ殺しの窓があり、左の壁には絵が飾られている。

 広さは六畳ほどか、一人でいるのには十分な広さの部屋だ。

 部屋に改めて荷物を置いたところで、カズマに連れられて夕食を取るために、家族が集まる部屋へと向かう。

 部屋には既にカズマの妻、イナとアイラが助けた娘のサヤ、そしてカズマの母、ナナエが揃っている。

 食事はテーブルではなく、丹塗りの膳に乗せられている。米飯と味噌汁、海藻と大豆の煮物、香の物、焼き魚。

 食事の間は誰も喋る者はいなかったが、食事が終わると、カズマが思い出したように切り出した。

「四日後に、うちでちょっとした催しがあるんです。ぜひ、参加していってくださいませんか」

「……催し?」

「ええ。家で――」

「オオヌシサマをお祀りするんじゃ」

 ナナエがもぐもぐと口を動かすようにして、低い声でカズマの言葉を引き取った。

「オオヌシサマ、ですか?」

 アンジェが興味を持ったのか、ひと膝乗り出した。ちらりとそれを横目で見る。

「家でお祀りしとおる神さんじゃ。年に一度、御式をすることになっとおる」

「その御式が四日後なんです。家にとっては大事な儀式ですし、ぜひ、参加してはいただけませんか」

「そうなんですか? ねえ、参加させていただきましょうよ」

 アンジェがアイラを振り返る。

 一瞬、辺りに漂う甘い香りが強くなったような気がした。

「そうだな。参加させてもらう」

 再び、アイラの口が自然と動いた。右手の傷が鈍く疼く。

(またか……)

 ふと、嫌な予感が胸にきざす。

 部屋に戻り、ぼんやりと考えを巡らせる。しかしなぜか、考えがまとまらない。

 船でサヤを助けてから、どうにもおかしいと思うことがある。火の気のないはずの水中で負った火傷。アルハリクの忠告。考えるより先に答えを返すこと。

 水の中で火傷などする訳がないし、普段のアイラなら、何か誘われても考えずに答えを返すようなことはしない。

 何よりも、炎に飲まれぬように、というアルハリクの忠告が、アイラを慎重にさせていた。

 その後、湯を使ってあてがわれた部屋に戻ったアイラは、部屋に漂う甘い香りに顔をしかめた。

 アンジェにそれとなく聞いてみたが、アンジェの方は別にそこまできつい匂いはしないと言う。

「考えすぎなんじゃないの?」

「……そうかもしれない。だけどアンジェ、気を付けていて」

 そう囁いたアイラの顔は、いつになく厳しかった。

「どういう意味?」

「普通、宗教関連の儀式をするなら、余所者は入れない。めでたいからと招いたとしても、一番大事なところを見せるはずはない。大事な式なら、なおさらだ」

「流石にその、大事なところまでは見られないんじゃない? 人が多い方がいいとか、そういう考えなんでしょ」

 アンジェの方は一切の疑いを持たない様子で、アイラの言葉に反論する。その姿に、アイラは小さくため息をついた。

 部屋に戻っても、甘い香りは消えていない。はめ殺しの窓では換気もできず、アイラは再びため息をついた。