視線の思惑

 ガタガタと音を立てて、馬車がヨークの大通りを走っていく。

 上半分のない、軽装の馬車であるため、中に誰が乗っているのかすぐに分かる。

 乗っているのは、薄いヴェールで顔を覆った女。身にまとう服は、細かい刺繍が施された美しいもので、一目見て、値が張るものだろうと分かる。

 そしてもう一人、女の向かいに男が乗っている。こちらも、着ているものはひどく高級そうなものだ。顔つきが、どことなく似通っているところから察するに、二人には血の繋がりがあるのだろう。

 女は、ヴェール越しに、人々が行き交う様子を見ていた。

 ヴェールの下の顔には、哀しみの色が焼き付いている。その色は、おそらく、決して消えたことがないのだろう。

 琥珀色の目が、時折誰かを探すように彷徨う。口元には、深く彫り込まれたようなしわが刻まれている。

「奥様、ルドルフ様。ここから市場に入ります」

 初老の御者の声に、女は頷きを返し、男は短く答えを返す。御者の男はそれを受けて、それまでよりも馬車の速度を緩め、人であふれる市場へと、馬車を進めた。

 物憂げに、女は通り過ぎていく人を眺めている。何を見ても、その表情が動くことはない。

 しかし、馬車がぐるりと市場を一周し、再び通りに出ようとしたときだった。

 憂鬱そうだった女の表情が、劇的に変わった。虚無に覆われていたような目に、突如として光が戻る。

 嗚呼、とその口から、歓喜の声が零れた。

「奥様?」

 様子の変わった女に、御者が馬車を止めて振り返る。女はそれに気付いた様子もなく、ある一点を凝視している。

「エリーザ……」

 女の視線の先では、茶色い髪を腰まで伸ばした女が、隣の、灰髪の少年らしい人影と、何やら話しながら歩いていた。

 やがて二人の姿は、人混みに紛れて消える。

「ねえ、見た? エリーザよ。エリーザが、帰ってきたのよ!」

「ええ、見ましたとも、姉上」

 言いながら、ルドルフが馬車を降りる。

「どうする気なの?」

「あの二人を追ってみます。今どこにいるのか突き止めておけば、迎えに行くのも容易いでしょう?」

 身軽に人の中に紛れるルドルフを、心配そうに見送る女。

「ルドルフ様を、お待ちしますか?」

 御者の声に、女は首を振った。

「いいえ。家へ戻って頂戴。私はあの子を迎える準備をしなくては」

「かしこまりました」

 御者は一つ頷き、再び馬を歩かせ始める。

 しばらくして、馬車は、大通りからほど近い、邸宅へと入って行った。

「セルマ、外で何かあったのかい?」

 女を迎えたのは、黒縁の眼鏡をかけた男だった。顔つきを見れば、ちょうど壮年のようだが、男の癖の強い、赤茶色の髪には、既にちらほらと白いものが見えた。

「市場でね、エリーザを見たの。エリーザが、帰ってきたのよ! 早くあの子の部屋を整えてあげなくちゃ」

 女――セルマ・フォスベルイは踊るような足取りで、二階へと駆けて行く。

 その場に残されたイルーグ・フォスベルイは、顔を曇らせ、重い溜息を吐いた。

 

 

 

 同じ日、アンジェは市場に入ってからアイラと別れ、一人でその辺りの屋台を見て回っていた。アイラの方は、旅に使う消耗品を買い足しに、市場の別の場所に向かっている。

 近くの屋台でハラウ(小さな焼き菓子)を買い、どこか休める場所はないかと聞いてみると、店主はこの近くに、小さな広場があると教えてくれた。

 そこは人々の憩いの場となっているらしく、時には旅芸人が見世物をしていることもあるらしい。

 店主に礼を言って広場へ向かう。

 広場にはあちらこちらにベンチが置かれ、そこここで集まって話をしている人々の姿が見られた。

 アンジェも近くのベンチの端に腰掛け、ハラウをかじる。

 柔らかな甘さに、疲れが抜けていくような気がした。

 最近は旅にも慣れ、以前よりも疲れにくくなったと自分では思っているが、それでも人の多い場所を歩き回るのは、人の少ない街道を歩くよりも疲れる。

 ハラウを食べ終え、座ったままぼんやりしていたアンジェの耳に、切れ切れの音が聞こえてきた。

 好奇心からその方を向くと、今しも旅芸人らしい女が一人、見世物を始めようというのか、手にしていたハープを調弦しているところだった。

 やがて調弦を終え、女は軽くハープを爪弾いてから、柔らかな旋律を奏で始めた。

 優しい笑顔で、女はハープの奏でるメロディに合わせて歌い始める。アンジェの知らない曲だ。

 その曲が終わると、今度は別の曲を奏で始める女。こちらもアンジェには耳慣れないものだ。

 珍しさからだろうか、女の周りには少しずつ人が集まりだす。

 やがて、更に二、三曲歌い、アンジェも含めたギャラリーから、いくらかの金を貰い、女は広場から出て行った。

 宿に戻ると、ちょうど、アイラも戻って来ていた。

 旅芸人の女のことを話すと、アイラはさして興味もなさそうに、ふうん、と頷いた。

「その人の着てた服、結構変わってたわ。こう、前で襟を合わせて、帯で結ぶの。ほどけないのかしら、あれ」

「……東部の服だな。あれは紐で留めてから帯を結ぶから、余程激しく動くようなことがなけりゃ、大丈夫らしい」

 手元のコーヒーを啜りつつ、アイラが淡々と答える。

「東部は、行ったことあるの?」

「ん? ああ、何度か。……アンジェは、どこの出身だったっけ」

「私? 私は、中部のルーズブリッジ」

 ふむ、と頭の中で地図を広げる。ルーズブリッジは確か、アルメからほど近い町だったはずだ。

 さほど大きな町でもなく、こぢんまりとした町だったという印象で、アイラも何度か行ったことがある。

 お茶請けらしいクッキーを一枚、口に放り込む。噛み砕くと、ふわりとした甘さが舌に触れた。

「……そういえば、市場に入る前に、誰かに見られたような気がしたけれど。アンジェは、何か気付いた?」

「え? ううん。ごめんなさい」

「いや、別に構わない。気のせいだったかもしれないし。……明日は、口入れ屋をまわるつもりだけど、どうする?」

「私としてはもうちょっと市場を見て歩きたいんだけど、一緒に行った方がいいかしら?」

「……どちらでも。まあ、仕事が決まったら、来てもらうことにはなるけど」

「うーん……なら、明日は市場に行ってもいい? これくらいの時間には、宿に戻ってくるから」

「ん、分かった。私もこれくらいの時間には戻るつもりでいる」

 コーヒーを飲み干し、アイラはカップをテーブルの上に置いてベッドに寝転がった。